4 見るに堪えぬ現実
10話目くらいまでは1日3回の投稿予定です
本日3回目の投稿です
――既に周囲は暗くなっている。
冷えた風が肌を撫で、ゼギスは静かに息を吐いた。処刑場からの脱出の果て、彼は巡回の目を盗みいくつもの扉と回廊を潜り抜け、地下へと辿り着いていた。どのように来たのかも覚えていない。
灯りは乏しく、唯一の明かりは、頭上の隙間からわずかに漏れる月光だけ。
足元を濁った水が撫でていく。石畳の隙間には苔がびっしりと張りつき、天井からは、どこかで崩れかけたような軋みと水滴の音が静かに響いていた。
息を吸えば、空気は重く湿り、鉄と血と、なにかが腐ったような臭いが鼻を突く。
正気を保つにはあまりに厭な空間だった。
壁に沿って並ぶ、無数の錆びた鉄格子。牢獄――それも、かなり古く、必要時以外は放置された監獄区画だろう。扉の多くは施錠されている。鉄格子から覗く限り、多くは空いているようだが、微かに漏れる呻き声と、鉄格子を揺らす音が、ここがまだ使われていることを物語っていた。
「……なんだ、ここは……」
思わず漏れた呟きに、返る声はない。ただ沈黙と、かすかな吐息、そして遠くで金属が擦れるような異音が空気を撫でるように広がっていく。
ゼギスはゆっくりと歩を進めた。
その目に映ったのは――前世で戦ったことのある種族だった。
痩せこけ、骨と皮だけになった森人族が床に座り込み、時折、痙攣のように肩を震わせていた。伸ばされた指は細く、土色の肌の上に走る血管は今にも破れそうで、言葉ではなく呻きにも似た息だけが漏れる。
そのすぐ隣、地人族の女性が鉄格子に背を預けて座っていた。片腕は肘から先がなく、布のようなものでぐるぐるに巻かれ、染みた血が固く乾いている。だが彼女はそれを痛がる様子も見せず、ただ虚空を見つめていた。濁った瞳には、焦点も、感情も、光すらもなかった。まるで、もうこの世の何にも興味がないかのように。
そのさらに奥、壁際に寄りかかるようにして横たわっていたのは、小柄な獣人族の少女だった。全身に包帯が巻かれ、顔の左側はほとんど覆われている。動かぬ片脚と、浅く速い呼吸。目だけがかすかに開き、まるで夢と現実の境を彷徨っているかのようだった。
ゼギスは足を止める。
これが――人間の所業なのか。
「……おい、大丈夫か?」
声をかけながら、彼は格子の隙間に手をかけた。
「何があった? 何をされたんだ? 生きて……いるのか?」
その瞬間だった。
少女の瞳がゼギスのほうを見た。いや、正確には――見えてしまったのだ。誰かがそこに立っているというだけで、脊髄反射のように体が反応したのだろう。微かに震えた口から、声が漏れる。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
断続的な謝罪。怯え、恐れ、反射的な服従の証。声というより悲鳴にも近かった。
ゼギスの心臓が、鈍く軋んだ。
彼女が自分をどう見たのか、理解してしまう。
脅威として、死よりも恐ろしい存在としての人間族。
そう認識されるほどの体験を、彼女は――彼女たちは、この場で受けてきたのだ。
咄嗟に言葉が出た。
「……すまぬ……そんな、つもりではなかった」
だがその言葉も届かない。彼女は顔を覆い、震えながらただ「ごめんなさい」と繰り返すばかりだった。
ゼギスは唇を噛みしめた。喉の奥が焼けるようだった。
(……今の俺が人間族だから、か)
依然謝り続ける獣人族の少女を含め、全員に生気がない。ただ生きながらえているだけ。いや、それすらももはや定かではなかった。
(人間族がやったのか……こんなことが、許されていいはずがない)
胸の奥が苛立ちと吐き気で満たされる。ここまでして、何を得たというのだ? 彼らを閉じ込め、痛めつけ、命の灯を削ることで、誰が何を得る?
ゼギスは、魔王として在った時代においてさえ、必要以上の暴力や拷問を好まなかった。たとえ敵であっても、命を弄ぶような真似は決してしてこなかった。
支配とは、恐怖や憎悪ではなく、誇りある力によって成されるべきだからだ。
だが今、ここにあるのは支配ではない。
ただの嗜虐だ。
壊し、弄び、魂まで削る――暴力そのものだ。
暴力の連鎖に晒され、正気を保てぬまま、許しを乞うことしかできぬ者たち。
(……この体は、こんな所業に目を背けていたのか?)
ゼギスは拳を握りしめた。
怒りと、そして悔しさ。
今の自分は、かつての魔王ではなく、一人の人間族でしかない。この現状を変える術が、ないのだ。
その時だった。
腐蝕した空気の奥、さらに一際深い牢の奥から、静かに、だが確かな気配が視線を投げかけてきた。
「……ほう、これはこれは。珍客だな」
重く乾いた声。ひどく冷静で、どこか皮肉を帯びた声音。その牢には、他の囚人たちとは明らかに異なる空気をまとう男がいた。怯えるでもなく、諦めるでもなく、絶望するでもない。その目には確かな力が、意志が宿っている。
身体には深い傷跡が残り、薄布をまとったその身は牢内の簡素な椅子に静かに座していた。手枷も足枷もない。首輪ひとつすら付いていない。だが――それでも彼は、この場所から一歩も出られない。
この牢はただの監獄ではない。
魔術研究機関と教会の禁術部門が共同で作り上げた、特殊な結界構造――《封魔牢》。
内部では自由に動けるが、外とは完全に隔絶されており、魔力も外部との接触も一切遮断されている。
鍵など不要な、完璧に閉じた檻だ。
そんな異常な牢に、一人だけ閉じ込められている――それが何を意味するのかは明白だった。
それほどまでに、危険視された存在。
ネザル=グレイン。
かつて魔王軍の頭脳と恐れられた参謀。
「……面白い。逃げ場が墓場とはな。こんな場所に自ら来る物好きは貴様で二人目だ」
低く湿った声が響いた。声音には余裕があり、鋭利な刃のような観察眼がこちらを射抜く。
ゼギスは足を止め、静かに息を整えた。目の前の男が誰であるか、その気配だけで察していた。
(ネザル……間違いない。あの頃と変わらぬ気配。だが、俺の正体には……まだ気づいていないか。いや、奴ならばあるいは……?)
ネザルの視線はまっすぐにこちらを捉えている。感情の波は見えないが、研ぎ澄まされた知性だけが静かに滲んでいた。
ゼギスは警戒を解かず、距離を保ったまま口を開く。
「お前は……この牢の中で、何を見てきた?」
その問いに、ネザルはわずかに唇を歪めてみせた。だが、すぐに目線を外し、通路の方に意識を向ける。
ちょうど、巡回中らしき衛兵がこちらに近づいてくるところだった。
次回投稿は7/20午前7時の予定です