3 再誕の歩み
10話目くらいまでは1日3回の投稿予定です
本日2回目の投稿です
やがて、古びた倉庫の裏に辿り着く。
扉は鍵が壊れて半開きで、内部は薄暗い。
人気はない。埃の匂いが濃く、鼠の気配が足元を走る。
ゼギスは身を滑り込ませ、そっと扉を閉じた。
「……ふぅ……」
ようやく、息を吐く。膝から力が抜け、壁に背を預けて滑り落ちた。
(助かった……のか)
処刑され、蘇り、逃げて、また殺されかけて――
それでも、今は生きている。
「何なんだ……この『始まり』は」
ゼギスは自嘲気味に笑い、そして自分の手のひらを見つめた。
命を助けた手。血に濡れ、震えているが、確かに誰かを守った手。
今のこの身体は、人間族のもの。
そして、その人間の中に、確かにかつての魔王ゼギスがいる。
「まずは生き延びる……それが、目標だな」
ぼそりと呟いたその声には、決意と苦味が入り混じっていた。
彼は再び立ち上がる。
次の隠れ場所を探すために。
かつての力なき今、剣ではなく知恵と判断で道を切り拓かねばならない。
――死から始まった新たな命。
その旅の第一歩は、まだ混沌の中にあった。
*
廃倉庫の奥。埃の積もった麻袋の陰に身を潜めながら、ゼギスはようやく静かな時間を得ていた。
粗い呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
全身を走っていた緊張が、骨の奥からゆるやかに解けていくのを感じる。
だが、その代わりに――痛みが、にじみ出てきた。
膝、肘、背中。走り、転び、柱の破片にかすった傷。
特に背中はざっくり裂けており、布越しにじわじわと血が染みてきていた。
「……身体が、重い」
ゼギスはゆっくりと服をはだけ、自身の腕を確かめる。
華奢な骨格、細く筋肉の少ない腕。
魔王の時のような鍛え抜かれた屈強な肉体とはまるで違う。
(やはり……俺は、転生したのだな)
討たれたあの日。
勇者の剣に貫かれ、力を使い果たし、玉座に崩れ落ちた。
あのとき、確かに終わったはずだった。
だが、こうして再び目を覚まし、呼吸をし、血を流している。
――それは奇跡か、それとも……悪戯か。
「しかもよりによって……人間族か」
ゼギスは水たまりに反射した自らの顔を見つめた。
金髪、金の瞳。輪郭の整った若い顔立ち。
目尻はやや鋭く、全体的に中性的な印象を受けるが、整った顔だ。
年齢は二十代前半、といったところか。
処刑台で見た威厳ある男とどこか似ている。
「王族か……?」
口の端を歪める。
それが皮肉であるのか、自嘲であるのか、自分でもわからなかった。
「処刑される理由があるのなら――この肉体もまた、穏やかな人生を歩めなかったということか」
前世の自分を想起させる「ゼギス」という名が、この肉体に宿っていることに、不気味な因果を感じずにはいられない。
ゼギスは静かに目を閉じた。
呼吸を整えながら、意識を内へと沈める。
魔素の流れ――それは、かつてのような奔流ではなかった。細い糸のように、頼りなく体内を巡っている。
それでも、状態異常は使える。
指先に意識を集中する。火傷系、凍結系、そして麻痺系。
どれも、魔王時代と比べると些細な術にすぎない。
「――これだけか」
言葉には落胆もあったが、同時に安堵もあった。少なくとも、何もできないわけではない。
(恐怖も、焦りも、ある。だが……それに飲まれては生き延びられない……追手ぐらいは、今できることでどうにかするしかない)
魔力量は以前に比べ少なく、何度も連続使用できるとは思えない。
だが、回復しないわけではない――つまり、時間を稼げばいい。
使いどころさえ誤らなければ、十分に生き延びることは可能だ。
(今の俺にできることは、それだけだ)
かつて世界を相手にしていた者が、少ない魔力量で、ただ生存を模索する存在になった。
だがゼギスは、奇妙に冷静だった。
なぜなら、かつての敗北の中で、彼は知ったのだ。「力があること」と「平穏に生きること」は、決してイコールではないと。
むしろ、力を持つがゆえに失ったものが、どれほど多かったか。
むろん「平穏に生きる」ためには「力が必要」なのだが。
「……使える力で乗り切るしかない。今は――逃げ延びるのが先決だ」
目を開けたとき、倉庫の中にはなお静寂があった。
だがその静けさに、不意に異質な気配が差し込んだ。
(……誰かが、見ている)
気のせいかもしれない。
感覚的なものでしかないし、説明もできない。
それでもどこかから見下ろされているような気配。
「……監視されている、のか?」
ゼギスは身を起こし、周囲を慎重に見回す。
倉庫の天井、高窓の隙間、壁の影――だが、人影はどこにもない。
敵意は感じない。
だが、明確な興味がそこにある。
自分がどう動くかを見極めようとする、静かなる目。
「……観察者、か。さて、味方か、敵か」
まだ分からない。
分からないが、このままじっとしていられない。
「……動かねばな」
このまま王城周辺に留まるのは危険すぎる。
この体の中にうっすらと残る記憶――建物の構造、兵の配置、裏道の断片的な映像。
――地下だ。
その確信は、理由もなく胸の奥にあった。
断片的に浮かぶ記憶。
石の階段、薄暗い蝋燭の灯り、鉄の扉……そこに何かがいた気がする。
この身体の前の持ち主の記憶か、それとも自分の魔王としての勘か。どちらにせよ、地下に向かわねばならないという直感が強くある。
ゼギスは、王城裏手の構内に沿って進む。
夜の帳が下りる前の淡い光が、城壁の間に長く影を落としていた。
「見張りの数は……意外と少ないな」
広場の混乱がまだ続いているのか、それとも『死者が蘇った』という衝撃が兵たちの配置を狂わせているのか。
いずれにせよ、好機だった。
身を低くし、物陰から物陰へと滑るように移動する。魔王であった頃は、正面から敵陣を叩き潰すのが常だった。
だが今のゼギスは、ただの逃亡者だ。戦う力は少なく、守る者はいない。
「……それならそれでやりようはある」
まるで地に溶け込むように、影から影へ。
騎士の見回りが来る数秒前に柱の裏へ入り込み、去った直後に次の死角へと飛び出す。
巡回の兵が一人、倉庫脇で立ち話をしていた。
その腰に下がった鍵束に、ゼギスは目を留める。
「……あれだな」
手に入れねばならない。
だが今の自分では、よほどうまくやらなければ、正面から挑めば即座に取り押さえられる。
ゼギスは地面に落ちていた小石を一つ拾い、手の中で転がす。そして、ほんのわずかに離れた鉄樽に向かって投げた。
カンッ!
音が響く。
二人の兵は一斉にそちらを向き、警戒して移動を始めた。
その隙に、ゼギスは息を殺して物陰から滑り出ようとして――
兵の一人がふとこちらを振り返った。
ゼギスの心臓が跳ねる。が、目は合わなかった。ゼギスに気づいた様子もない。
呼吸を整え、注意深く足音を消し、鍵束に指先を伸ばす。
触れた瞬間、わずかに金属が擦れたが――兵たちはもう数歩先を向いていた。
成功だ。
「……ふぅ」
ゼギスは静かに離脱し、影の中に身を溶かした。
やがて到着したのは、石造りの階段。
広場裏手の手入れされていない構造物の奥、誰も通らぬ小さな出入口だ。
鍵束から一つを選び、錠に差し込む。
カチャリと控えめな音がして、古びた鉄扉がわずかに開いた。一発で当たるとは運が良い。
階段を降りるたびに、空気が湿って冷たくなっていく。石壁の内側は黴と血と鉄の臭いが混ざり合い、獣の檻を思わせた。
ゼギスは階段を下り切り、細い通路を進む。
壁の向こうには、規則正しく並ぶ牢の気配。鉄格子の向こうには人の気配がかすかにあるが、声はない。
「……気づかれていないようだな」
巡回の足音はしない。
恐らく、正規の出入り口側を中心に警備が固められているのだろう。
ゼギスは手に入れた鍵束を手の中で素早く確認する。番号も印も消えかけており、どの鍵がどの扉に対応しているか分からない。
一つ一つ、試すしかない。
(……にしても)
ゼギスは、壁にぴたりと背をつけて動きながら、ふと思った。
(この身の小ささ、こういうときには便利だな)
魔王だった頃の身体は、身長二百センチを超え、鎧を着込んでの圧倒的な存在感を誇っていた。一歩歩くだけで足音が響き、誰の目にも止まる。
だが今の身体は、人間族の若者。
世間的には平均的だろうが、前世と比べれば格段に“狭い場所向き”だ。
「……前世より体が小さい利点だな」
低く呟き、牢の一つに鍵を差し込む。
がちゃり。
錠が緩んだ音がして、錆びた扉がわずかに揺れる。
その奥から、かすかに気配が動いた。
――いる。
(気配がある。沈黙の奥に、確かな存在感。……間違いない)
まだ姿は見えない。声もない。
だが、その存在感だけは確かだった。
(……間違いない)
ただの直観だったが、地下に来たのは間違いではなかった。
ゼギスはゆっくりと扉を押し開けた。
重い鉄の軋む音が、静寂に混ざる。
通路の奥、牢の影。薄暗い空間の中で――
「……さて。誰が待っている?」
低く、問いかけるように呟きながら、ゼギスは一歩、牢の奥へと足を踏み入れた。
次回投稿は7/19午後7時の予定です