2 処刑台の目覚め
10話目くらいまでは1日3回の投稿予定です
本日1回目の投稿です
――意識が、浮かび上がる。
ど果てのない闇の底から、意識が引き上げられていくようだった。遠くで、ざわつくような声が聞こえた。男の叫び、女の悲鳴、ざわざわという騒めき。
それらが遠くから耳に届くたびに、ノイズのように頭の中を掻き乱してくる。
「……っ、あ……」
喉が焼けるように痛む。乾いていて、ひとつ息を吐くだけで肺に針を刺されたような感覚が走る。
自分がどこにいるのかも分からない。だが、肌に触れる空気は冷たく、かすかに石の匂いと血の臭いが混じっていた。
まぶたが、ゆっくりと持ち上がる。
眩しい光に目を細めながら、歪む視界に焦点を合わせようと目を凝らす。
ぼやけた視野の中に、無数の人影が揺れていた。
周囲には大勢の人。その顔には、歓喜と興奮、あるいは恐怖が浮かんでいた。
「……何だ、この……」
体を動かそうとするが、関節が鈍く、指先すら満足に動かせない。
身体が重い。
まるで、借り物の体に閉じ込められたかのような異様さだった。」
ようやく焦点が合いはじめ、少しずつ周囲が見えてくる。
自分が横たわっているのは、木製の台。壇上、そこは明らかに何かの式典、あるいは儀式に使われる場であり、四方から視線を集める構造になっていた。
「処刑台……?」
ゼギスは、かすれた声で呟いた。
高台の正面には玉座。
そこに鎮座する男の姿が目に入った。
金と紅の織り交ぜられた王衣、背筋を伸ばし静かに佇むその人物には、威光と冷酷が同居していた。
目元に宿るのは、民を見る王の視線ではない。
『敵』を見下ろす者の目だった。
「……人間族の王、か」
目を少し横に向けると、王の傍らには一人の騎士が控えていた。
身に纏うは青銀の重装鎧。大剣を背に隙のない立ち居振る舞い。軍の長か、それに近い地位の男だろう。
目線は鋭く、こちらを一瞬も逸らさず見据えている。そのまなざしには、任務以上の警戒と敵意が宿っていた。
さらに周囲には、白装束の法衣を纏った一団と神官のような者たち。
まるで、宗教儀式でも始まるかのような荘厳さが、そこにはあった。
(……いや、違う。これは――処刑の儀式だ)
人々の視線はすべて、自分に向いている。
呆然とした目、恐れを孕んだ目、あるいは怒りに満ちた目。
しかし最も多いのは、処刑を楽しむような、歪んだ好奇心に満ちた瞳。
観衆は数百は下らない。
これだけの人数が『処刑』の瞬間を見届けるために集まっていたのだ。
「ふざけた見世物を……」
ゼギスは低く呟く。
そして、ふと気づいた。
自分の身体に――異常がある。
腕は細く、筋肉の感覚が乏しい。体格も以前より明らかに小柄で、力が入らない。重心の位置が異なり、微かに動く際の感覚も違う。
――この体は、自分のものではない。
胸に手を当てる。心臓は、確かに動いている。
だが、これは『元の体』ではない。肌の色も違えば、骨格も違う。
この体は――人間族のものだ。
周囲で騒ぐ人間族たちの声に「ゼギス」というものが混ざっている。
「ゼギス……俺の名だ」
馴染みがある名前。かつて、そう名乗っていた。
魔王ゼギス=ノクターリス。かつて魔人族の頂点に立ち、そして討たれた者。
(だが俺は、死んだはずだ)
あの時、確かに……勇者の剣が、心臓を貫いた。
すべてが終わり、意識が消えた。
「……なぜ俺はここに……?」
そこで、騎士の怒声が処刑台に響いた。
「……動いたぞッ!」
その瞬間、観衆がざわついた。目の色が一気に変わる。期待、恐怖、混乱、そして……絶叫。
「なっ……今、死んだはずじゃ……!」
「バケモノだ! 魔獣だ、そうに違いない!」
「殺せ! 殺しきれていないぞ!」
歓声が悲鳴に変わった。
兵士たちが一斉に武器を構え、処刑台の周囲が騒然とし始める。
神官らしき者たちも詠唱を始める。
空気が刺すように緊迫し、まるでこの場すべてが『処理のための儀式』へと移行するかのようだった。
(……死を逃れた『死者』は、処刑をやり直す。それがこの国のやり方か)
ゼギスは立ち上がる。
足はおぼつかないが、背筋だけは真っ直ぐに伸ばす。逃げ道を、探さねばならない。
生き延びる道を探さねば。
再び殺されるわけにはいかない。
「――さて、騒がしくなってきたな」
小さく呟き、彼は視線を処刑台の外に向けた。
騎士たちが殺到する前にこの場を抜け出す。
そう判断した瞬間、ゼギスは走り出した。
ふらつく足取りでも、今はただ、生きるために。
動け。
逃げろ。
思考より先に、身体が動いた。
ふらつく足を無理やり地に着け、ゼギスは処刑台の端に向かって突き進む。
背後では、騎士たちが叫びながら剣を抜き、観衆が恐慌状態に陥っていた。
「止まれ! 動くな!」
「奴は死んだはずだ!」
「聖なる炎で焼いたはずだ、なぜ……?」
その声が、広場中に波紋のように拡がる。
誰かが悲鳴を上げた。それを皮切りに、ある者は逃げ出し、ある者は腰を抜かした。
民の足がもつれ、叫びが混じる混沌とした光景。
その中心に立つゼギスの姿は、まさしく『死者が蘇った』という恐怖の象徴だった。
(混乱している……今なら抜けられる)
崩れかけの体を無理やり動かし、ゼギスは処刑台の縁から飛び降りた。
着地の衝撃で足首が悲鳴を上げる。
かつてのような柔軟性も力強さもない身体――だが、今は気にしている余裕はなかった。
「貴様、止まれッ!」
騎士たちが迫ってくる。
だが彼らもまた、観衆に押し寄せられて動きが鈍っていた。
ゼギスは地を蹴り、瓦礫の陰、壁のくぼみ、人の流れを縫うように走り抜ける。
重い衣服が足に絡み、視界はまだ完全には戻っていない。
それでも、動かねば死が追いついてくる。
――そのときだった。
「っ……あぶないッ!」
目の端に、危機の気配が走った。
上空から、崩れかけの足場の柱が音を立てて落下しようとしていた。
誰かが逃げ出す際に引き倒したのだろう。大人の腕ほどもある太い木柱が、ゆっくりと、だが確実に落ちていく。
その落下先に、ひとりの少女がいた。
まだ幼く、五、六歳といったところだ。
恐怖に足がすくんだのか、悲鳴も上げず、ただ柱を見上げて立ち尽くしている。
(間に合うか――)
ゼギスの思考は、一瞬だけ止まりかけた。
助ける価値があるか?
今は自分の身が先ではないか?
そんな計算が、脳裏を過ぎったのはほんの一瞬。
「どけえッ!!」
足に全力を込め、彼は地を蹴った。
まるで魔王だった頃のように、咄嗟の判断と瞬発力で少女に飛びかかる。
肩で彼女の身体を弾くように押し飛ばす。
その瞬間、背後で木柱が轟音を立てて地面に激突した。
土埃が舞い、破片が飛び散る。
倒れ込んだゼギスの背中を、木のささくれがかすめていく。
焼けるような痛みが走るも、それ以上に胸に残ったのは――安堵だった。
「生きてるか……?」
押し倒された少女は、泥だらけになりながらこちらを見上げていた。
瞳が震えている。
「女の子を襲ってるぞ!」
「人質にする気だ!」
ゼギスは無言で立ち上がる。
血に濡れた手を見て、ふっと息を吐いた。
「……愚かな選択だったな」
誰に言うでもなく呟いたその声には、かすかな皮肉と、どこかに温かみがあった。
そして――その隙は長く続かなかった。
「そこだ! 逃がすな!」
「包囲を広げろ、あの男を確保しろ!」
兵たちの声が再び近づく。
混乱していた広場が、少しずつ秩序を取り戻し始めていた。
(……急がねば)
ゼギスはもう一度、少女の無事を確認すると、何も言わずに踵を返して走り出した。
少女が小さく「ありがとう」と呟いたのを背に受けながら――
背後から音が近づく。
騎士の靴音、金属のぶつかる音、地を蹴る音。
ゼギスはそれらをすべて振り切るように、身を翻し、通路の影に滑り込む。
「こっちに入ったぞ! 包囲しろ!」
怒号が後ろから聞こえたが、視線をそらせばすぐに見失うような路地を縫い、ゼギスは走り続けた。
壁の陰や建物の隙間を利用し、わずかな隠れ場所を探して。
次回投稿は7/19正午の予定です