パスワードを忘れた。
「パスワード忘れた」
誰に語りかけるでもなく、スマホに向かってそう呟いていた。
いつもお世話になっているのSNSの筈なのに、メールアドレスは覚えているのに、肝心のパスワードが出てこない。
自分の名前に準えたものだったか、好きなものだったか、はたまた、初恋の相手だったかは皆目、見当がつかない。
(そうだ!確か、メモ用紙に記してあった筈だ)
思い立ったが吉日だったか、早速、メモ用紙を探す冒険が始まった。
三畳程しかない部屋は、ベッドと縦に長いラック、入り口付近の壁には服をかけるハンガーが一〜二個、肩をぶつけ合っていた。
取り敢えず、ラックを舐め回すように下から順番に見ていった。
一段目は、靴下と下着類の入った箱二つ。二段目は、シャツの入った箱。三段目、ズボンの箱。
四段目になってからは、自分の小さい背丈では届かず、ベッドを土台にしなければいけなかった。因みに内容は、書籍類である。
自分は、書籍の間に挟んでしまったのではと、推測したが。実質、本の表紙しか見えない方を向いていたので、クソ重いラックを回転する羽目になった。
結局のところ、見つかりはしなかった。
パスワードの紙を探しているうちに、アレを催してきた。
ラックを元の位置に戻してから行ったほうがいいかと躊躇ったが、限界の方が近かった。
自分は、急いでトイレの扉を開き、便座に座った。
体内の老廃物を排出することに、妙な快楽を覚える。
微量の幸福に耽った後、勢いをつけてズボンを上げた。その時だった。
パーカーのポケットに何やら違和感を抱いた。手を突っ込んでみると、驚くことに、お目当ての物を見つけた。
灯台下暗しとはこのことかと、思わず笑みを零す。
しかし、この時、自分は、愚かであること知る由もなかった。
つまむように持った紙、その下には便器。これだけ言えば、もうお分かりだろうか?
指紋が徐々に薄れた指から、紙が舞うこともなく急降下。紙は次第に、琥珀色に染め上がり、深淵へと姿を消していく。
紙を取ることも憚られる。
パスワードというものに、半日程度も使ってしまった。笑うしかなかった。
惨めな自分を嘆いていたって、パスワードは、深淵から這い上がってこない。
(パスワード、変更するしかないな)
そう思い立ったのには、時間はかからなかった。
パスワードというものは、ちっぽけな存在だということをこの日知った。