7 好きと言えたら
◇
ゾーイはバルコニーに立って手すりに両手を置き、耳を澄ませていた。
賑やかな人々の声が聞こえてくる。コーイック城の見学に来た観光客達の声だ。ゾーイの寝室がある東棟からは正門が見えず、そもそも居住棟であるため観光客の出入りはない。目の前に広がる景色は濃い緑葉を豊かに纏った木々ばかりだが、様々な音や声は、風に運ばれてよく聞こえた。
歓声や笑い声、話し声。
コーイック城に住むゾーイにとってはありふれた日常の場所であっても、訪れる人々にとっては違う。非日常、幻想的な空間なのだ。
末永くコーイック城が愛され続けてほしい。
コーイック城の管理貴族に生まれたにも関わらず、何も出来ないまま死を待つだけの現実。こうしてバルコニーに長い時間、立っていられるようになっても。食事量が増え、常にパサついていた髪に少しずつ色艶が戻りだし、青白かった肌色の血色が良くなり、飲む薬の量が減っても。
死神の言葉は変わらなかった。
死期は変わっていない。昨日も告げられた。
あと一カ月の命だ、と。
「こちらにお座りください」
キーナに声をかけられて振り返ると、広いバルコニーの隅には二脚の椅子とミニテーブルが置かれていた。テーブルの上には水差しと、食べやすく切られた果物や極少量ではあるが焼菓子まで用意されている。
驚いたゾーイが目を丸くしてキーナを見ると、彼女はゾーイがお気に入りだったカップもテーブルに並べていた。注ぐのは紅茶ではなく水ではあるものの、お洒落なお茶会のような空間が出来上がっている。
「これって……どうしたの?」
「ピクニックの開催です」
「ピクニック?」
「お忘れですか? 二カ月前にお嬢様ご自身がお望みになられた事ですよ」
すぐに思い出した。
信じがたいほどに体調が良い日々を迎え続けてすでに五カ月が経つが、二か月前、キーナとお喋りをしていた時に彼女に聞かれたのだ。
――お嬢様が今一番したいことは何ですか? お部屋かバルコニーで出来ること限定でお願いします。
キーナに聞かれて、突然どうしたんだろう、と思ったもののゾーイはすぐに答えた。その日の天気が快晴だったこともあり、頭の中で自然と思い浮かんだ光景をそのまま告げた。
――バルコニーピクニック。キーナと二人で、昔みたいに!
貴族の娘と使用人の娘という明確な立場の違いを、まだお互いがはっきりとは意識していなかった幼い頃、コーイック城から自由に外出が出来ないゾーイとキーナはよく一緒に遊んていた。晴れた日にバルコニーピクニックをするのも、定番の遊びだった。
懐かしさと喜びが込み上げる。
ゾーイが頬を緩ませると、キーナは通常通りの澄ました表情をしているものの、いつもよりも少々落ち着きのない様子で、すでにピンと張られた皺一つ無いテーブルクロスを撫でていた。
「ありがとう、キーナ!」
「はしゃぎすぎです。疲れてしまいますよ」
そうは言われても、喜ばないでいられる訳がない。キーナと同じテーブルを囲んで同じものを食べたりするのは実に十年以上ぶりだった。
キーナは私に遠慮しないで好きなものを飲んで? とゾーイは何度か言い続けたが、水が飲みたい気分なので、とキーナは素っ気なく返事をして笑顔もないままに同じようにカップから水を飲んでいる。
キーナの与えてくれる愛情の大きさに、ゾーイのカップを持つ手は震えそうになった。
「キーナ、私、叶えたい夢が沢山あったわ。そのうちの一つに同性の友人を作るという夢があったんだけど、話した事があった?」
成人して社交場に立つことが出来ていたら、今まで出会ったことのない人々と出会い、一人と一人と向き合う時間の確保が十分に可能だった。良き結婚相手を探す為に社交に努めるのは当然だが、内心は同じくらいに、同性の友人が欲しいと願っていた。
「よく覚えていますよ。社交界デビューを果たしたら、同じような立場のご息女の方々との交流する機会も多くなります。その時に、親しくお付き合い出来る同性のご友人が欲しいと、お嬢様は楽しそうにお話されておられました」
懐かしそうに話しながら、キーナもゾーイを見つめた。
とても珍しく微笑みを浮かべながら。
「夢は決して夢のままで終わりません。ご友人はすぐに出来ますよ」
一カ月後には終わってしまう命。社交界に一度も出る事も出来ないまま。同性の友人が欲しいとずっと夢見ていたが、その夢に強い執着があったわけではない。
キーナ。あなたがいてくれたから。
全て言ってしまいそうになりかけたが、ゾーイはぐっと喉元まで上がってきていた言葉達を腹の底へと押し込めた。
本当の事、本心を知って欲しいという気持ちは、キーナの泣き顔を見たくはないという自分自身の望みによって完全に封じ込められた。
「ええ……ええ、そうね。社交界デビューを迎える日が待ち遠しいわ」
ゾーイは瞳を潤ませながらも、決して涙をこぼさないように気を付けながら笑顔を浮かべて、堂々と胸を張って見せると、キーナももう一度笑顔を見せてくれる。
キーナの笑顔は、ここ最近見せてくれた笑顔の中で一番、眩しい程に輝いているように見えた。
バルコニーピクニックを終えて、キーナは用意してくれていた椅子やテーブルを片付けるために寝室から退出して行く。
ゾーイ一人だけでバルコニーに立つのは今も禁じられていたため、室内に戻ってはいたものの、まだもう少しだけ昼下がりの明るい外の様子を近くから眺めていたい気分だった。
扉越しのキーナの気配が完全に消えたことを確認した後、ベッドから起き上がったゾーイはバルコニーへと続く硝子扉の前までゆっくりと歩み寄り、レースカーテンを開けて外の景色を眺めていた。
「何か良い事でもあったのか?」
三歩程の歩幅をあけた距離の右隣。
声がした場所を見上げると、相変わらずの全身黒ずくめの姿で、黒い仮面で目と鼻を覆い隠している死神がゾーイを見下ろしていた。
ゾーイは笑顔でうなずいた。
「さっきまで、キーナとバルコニーピクニックをしていたの。ピクニックと言うよりもお茶会と言った方が正しいけど、私とキーナの二人きりの場合はバルコニーピクニックって言うのよ?」
「随分と楽しんだ様子だ」
「あら、分かる?」
「姫は分かりやすい」
「私が分かりやすいんじゃなくて、死神さんがいつもよく私を見てくれているからだと思うわ」
出会った頃よりも今の方が、死神は細やかな変化によく気付いてくれている。
死神に出会ってからの日々で起こった変化の数々は、ゾーイだけではなく、ゾーイと共に暮らす家族や使用人達にとっても良い意味での変化ばかりだった。良い事や嬉しい事が起こるとゾーイ自身も含めて皆の笑顔も増えて、明るく和やかな空気に包まれている時間が長く広がるようにもなった。
「ヘデン伯爵の到着は、明日か」
「覚えていたの? そうよ。まだ先だと思ってたのにもう明日なの。早いわね」
ヘデン伯爵からアルフレッドとの結婚を申し込まれていたゾーイは、ほとんど日を空けずに承諾の返事を送っていた。
ゾーイが申し込まれた縁談に対して前向きな返事をしたと知ると、家族も使用人達も、ゾーイが動揺してしまう程に大喜びした。母とキーナは号泣し、父までも泣きそうになりながら喜んで強く抱きしめてくれた瞬間は永遠に忘れられそうにない。
まるで順調に回復しているかのような体調。結婚が決まって、未来を歩む前向きな姿を、大切な人達に見せる事が出来ている奇跡。
遠く離れた場所に住む特別な友人のハルク。理由は未だに分からないままではあるものの、結婚を望んでくれたアルフレッド。
彼等もきっと喜んでくれている。笑ってくれている。
死神も。
この決断は間違っていない。これで良かった。
多くの人々からの祝福を受けながら、ゾーイは笑顔の絶えない日々を過ごしていた。
ヘデン伯爵からはすぐに折り返しの手紙が届き、コーイック城へ伯爵自身が一度改めて挨拶に訪れると綴られていた。
アルフレッド本人は仕事の都合で今回は同行出来ないという旨も記されており、ゾーイは落胆したが、気持ちの切り替えはすでに出来ていた。
ゾーイはレースカーテンを閉めてベッドへと戻り、横にはならずに浅く座って、枕元に置いてあったクッションを持って両足の上にのせた。
「今後の詳細な予定はまだ決まっていないけど、多分、明日には大きく進展すると思うわ。ヘデン卿はコーイック城から一番近い宿をとってくださったみたいで、しっかりと話し合いの時間はとれるってお父様も言っていたの」
「そうか」
「明日は少し考慮してね?」
「考慮? 何を」
「現れるタイミング! 最近は私が一人の時にだけ姿を見せてくれるようになったけど、たまーに、気まぐれに他の人と一緒にいる時に現れるでしょう? びっくりしちゃうしお話も出来ないから、他の人と一緒にいる時は姿を見せたりしないでね?」
「明日は来ないつもりだった」
「……そうなの?」
ちくりと、胸に小さな痛みを覚えてしまう。
死神と毎日のように顔を合わせるのが当たり前の日々に、久しぶりの空白が出来る。理由は自分の縁談についての大切な挨拶と話合いをする日だから。死神はこの結婚を祝福する立場を明確にしている。邪魔になるようなことは一切しないと配慮してくれるのは、彼にとっては当然の事なのかもしれない。
胸は痛いままでも、ゾーイは微笑みを崩さなかった。
「日中は無理でも、夜ここで一人で寝るのはいつもの事よ? 少しだけならお話出来るわ」
「来るつもりはない」
「……ちゃんと休みなさい、って事ね?」
――私が死神さんに会いたいの。会ってお話がしたい。ただそれだけで、私はとても……
本心を言ったところで、おかしな対象者としてしか見ていない死神にはきっと伝わらない。伝わらないのだからこそハッキリと言ってしまっても良いのでは? と、もう一人の自分が耳元で誘惑するように囁いてくる。
けれど言葉にしてしまったら、自分が耐えられない。
死神に心惹かれる強い想いは『鍵』だ。
鍵を握って差し込んで、心の素直な扉を開けてしまったら?
笑ってはいられない。冷静でいられない。
魂を死後世界に導くためだけの存在だ、と言いながらも、恐らく死神がすべき事として必要でもないのにも関わらず、毎日のようには現れて話し相手をしてくれる。本来は死を迎える日まで静観するだけの存在なのに、体調を気遣うような言動が多く見られる。
死神はあまりにも、ゾーイにとっては優し過ぎる。
出会ったばかりの時に「好きになってしまったわ」と、さらりと言う事が出来たのは、今死神に対して抱いている『好き』の感情とは全く別の意味だったからだ。
今のゾーイはもう、死神に対して「好き」と言う事が出来ない。
恋い慕う気持ちが込められてしまって、好きの言葉そのものに自分の首が絞められてしまうような苦しみが生まれてしまう。
悲しくなるほど分かっていた。死神にとって自分は、おかしな対象者。ただそれだけなのだ。
「もしも私が全然眠れなかった時は、死神さん、って呼ぶわ。その時は来てくれる? 少しだけお話しましょう? お願い!」
「……毎度の事だがしつこいな。考えておく」
「良かった! ありがとう!」
「来るとは一言も言ってない」
ゾーイは知っている。
優しい死神は、真剣な呼びかけに対してはすぐに聞き分けてしまって、決して無視ができないという事を。
あなたと話せるだけで幸せ。あなたが好き。
お願い。あと一ヶ月だけ。
わがままを言う私の本心には気付かないままでいて。