ハルク・ベスティリ侯爵
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嘘を真実として紡ぎ続ける終わりのない日々が始まったのは、ハルクが十四歳の時だった。
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「えっ?」
一年ぶりのゾーイとの再会をハルクは心から喜んでいた。喜ぶと同時に例年以上に楽しみにもしていた。
今年からはハルクにとっての幼なじみである親友も一緒に『控えの広間』で過ごす事になっている。行動力に溢れて誰とでもすぐに親しくなってしまう親友と、活発で好奇心旺盛なゾーイの二人ならば、きっと気が合って仲良くなれるだろう。確信していた。
しかし、ゾーイの姿を見た途端、親友の様子が一変した。
ハルクはゾーイを見つけて彼女の名を呼び、手を振りながら歩き出そうとしたが、親友に腕を掴まれ引き止められた。
「無謀すぎると分かってる。でも、ほんのわずかな希望も逃したくはないんだ。ハルク、頼む」
小さな声で早口に告げられた親友の頼み事にハルクは迷った。しかし、一瞬で迷いは消えた。親友の真剣な表情に、協力しないという選択肢は浮かばなかった。
普段はどんなに明るく気丈に振る舞っていても、二年前に起こってしまった事故をきっかけに、癒えないままの深い傷を心に負ったままの親友を、どうにかして救いたいという思いもあった。
「分かったよ」
ハルクは親友の耳に顔を寄せて、さらに声音を小さくして返事をすると、親友もすぐに頷く仕草を見せる。ハルクも同じように頷いた。
だが、親友は申し訳なさそうに眉間を寄せた。
「……ハルクを巻き込みたくはなかったんだが、方法が分からなかった。ごめんな」
「良いさ。協力すると決めた時点で覚悟の上だよ」
励ますように言うと、親友は小さく「ありがとう」と囁いた。この瞬間の、希望を抱いて目を輝かせた親友の表情は、ハルクにはいつまでも強く印象に残り続けていた。
親友とゾーイはあっという間に打ち解け合った。
二人が楽しそうに話して笑う光景を、ハルクも会話に参加しながら同じように楽しく過ごしつつ、見守っていた。ゾーイは親友に対して素直でまっすぐな好感を抱き、親友も同様の想いをゾーイに抱いている。
親友の願いが叶えば良い。
十四歳だったハルクはただ一心に願っていた。
愚かにも。
親友の無謀な頼み事の協力者になると、決めてしまったのだ。
親友とゾーイが直接会う機会は一年間に五日しかないとはいえ、成人するまでにはまだまだ十分な時間がある。この十分な時間の間で、きっと状況は好転してくれる。
何の根拠も無いのにも関わらず、ひたすらに願い続けていた。
※
「コーイック城から早馬が到着しました」
侍従から告げられた時、ハルクの住まうオースホート城は夕陽に照らされて赤く染まっていた。城に見学に来ていた観光客達も街の宿場へと向かい、城内は静寂が訪れたばかりの時だ。
侍従の右手にある銀盆の上には一通の手紙が置かれている。
ハルクは手紙を受け取って侍従を書斎から退出させた後、椅子に座り直す事すらももどかしく、すぐにペーパーナイフを書棚から取り出すと手紙の封を開けて便箋を広げた。送り主はゾーイ・クシュケット。スミナリア国の二大名城の一つ、コーイック城を管理しているクシュケット子爵の一人娘からだ。
ハルク自身が早馬で出した手紙の返事が綴られていた。
――アルフさんとのお話は前向きに検討しています。どうか、見守っていてください。
ハルクは手紙から視線を外して、窓の外の遠くに浮かぶ夕陽を見つめた。
オースホート城から見える窓の景色は、海。
太陽は水平線に半分が隠れていた。もうすぐ夜になる。
年月が過ぎる度に大きくなるばかりの不安が、深い闇となってハルクの心を食い尽くそうとしている。ゾーイからの短い返事が綴られた直筆の文字をもう一度読むことは、今のハルクにはとても出来そうにない。
自分の行動と思考が噛み合っていない事を自覚しているからだ。
ハルクを現実へと連れ戻したのは、扉を叩くノックの音だった。
「ルーフです」
「ああ、入って良いよ」
「失礼します」
書斎に入室してきたのは、訳あって『ルーフ』の偽名を用いてオースホート城で住み込んで働いているアルフレッド・ヘデン。
ゾーイとの結婚を切望している張本人だ。
違う。
二人の結婚を切望しているのは、この場にはいない親友。
今ここにいる、ハルクにとっては親友の弟――現在はハルクの右腕とも言えるアルフレッドは、恐らくまだ何も知らない。
束ねた書類を片手に扉を閉めるアルフレッドは、肩よりも少しだけ伸びだ濡れたように艶めく黒髪を一つに束ねている。髪と同色の漆黒の瞳は切れ長で凜々しい印象があり、落ち着いた雰囲気を纏う長身の青年だ。
第一印象は近寄りがたさを感じてしまう堅さがあるものの、親切で真面目な性格なのがアルフレッドという青年だ。ここ数年間で、決して少なくはない人数の女性達の心を奪っていく様子を、ハルクは社交場だけではなく城での仕事中にすらも何度か目撃してしまっている。
しかし、アルフレッドは昔から現在に至るまで、特定の女性相手に特別な想いを寄せている事実は無いのでは、とハルクは思っている。
アルフレッド自身が、少しでも親切な振る舞いをしてしまうとすぐに好意を持たれてしまうという事実に早々と気付いていた様子がある。アルフレッドは紳士のマナーを守りつつも、決して必要以上の接触や会話を女性相手にすることはなかった。
ハルクは素早く書棚にペーパーナイフと共にゾーイの手紙を隠し入れて棚を閉じた。
「もう終わったのかい?」
「今日の観光客は団体旅行者が一組でしたので、執事が城の案内人を務めました。おかげで私は書類に専念出来ました」
「ありがとう。明日の来客予定は、隣国の?」
「イルトッラ伯爵家の方々がいらっしゃいます」
「案内は使用人では駄目だな。『ルーフ』に任せるよ」
「承知しました。では」
「アルフ」
用事が終わり早々と退出しようとするアルフレッドを、ハルクは呼び止めた。
「少し話がしたい。座ってくれないかい?」
「何かありましたか」
「いいや、完全に私用。気ままな雑談かな」
ハルクが笑って言うと、アルフレッドは切れ長の涼やかな瞳を少しだけ細めて同じように笑顔を浮かべる。特段、二人きりだからと緊張感があった訳では無いのだが、明らかに書斎の空気は和やかな雰囲気に変化した。
「久しぶりですね。兄さんがいない時に俺と雑談がしたいと言うのは」
「たまには静かに二人きりで話したい時もあるんだよ」
「静かにですか。それならば納得です」
言いながら、アルフレッドはソファに座る。ハルクも自分の椅子に腰掛けた。
「こちらに来てからはずっと調子が良さそうに見えるが、身体の調子はどうなんだい?」
「変わりありません。良好です」
「私が見ていないところで倒れたりしてないだろうね」
「その時はすぐに使用人に見つかって、とっくにハルクさんに報告されてしまっていますよ」
「それもそうか」
俺は何か疑われているのですか? と言ってアルフレッドは苦笑する。ハルクは表情を引き締めた。
「アルフがオースホート城に住み込んで働き始めてもう三年目に入ろうとしている。私の仕事を補佐しながら、古城管理貴族の仕事や社交、暮らしを学ぶという目的はほとんど達成されていると思っているんだ」
言いながら、ハルクは机の引き出しを開けて、重ねて折り畳まれた三枚の便箋を取り出した。
アルフレッドの表情から笑顔が消えた。
食い入るようにジッと便箋を見つめている。
「一カ月程前にクシュケット卿から届いた手紙だ。ゾーイについて、医者も驚くばかりの奇跡が起きていると書かれていたよ。緩やかではあるが少しずつ快方に向かっているらしい。食欲も増して、ベッドから起き上がって過ごす日が増え、会話も長時間出来るようになっているそうだ」
アルフレッドは何も反応しない。
話にはまだ続きがあるのでしょう、と訴えるように、口を開かずにハルクの言葉の続きを待っている。
一年前、アルフレッドの兄ジークレッドが結婚した。
結婚と同時にアルフレッドの父親は爵位を長子のジークレッドに譲り渡した。現在のヘデン伯爵はジークレッドであり、彼が当主だ。両親は所有する別邸で静かな生活を送りつつジークレッドを補佐する側にまわっている。
「手紙の内容はいつも通りジークにも伝えた。彼はゾーイの回復を確信していたし、用意も周到だったからね。すぐに行動した。クシュケット卿に、アルフとゾーイを結婚させて欲しいと正式に申し込み、今は返事を待っている最中だそうだ。やはり聞いていなかったんだね?」
「聞いていません」
「口止めはされていないよ。ジークはジークで、少しは後ろめたさはあったのかもしれない」
「後ろめたさ? まさか。後ろめたいなどと、あの兄さんが思うわけがありません。俺とは会う時間の都合がつかなかったから後回しにしただけの話だと思いますよ」
「……毎度の事とはいえアルフはジークに辛辣だね」
「事実を述べただけです。……そうですか」
ついに申し込んだのですね、結婚を。
アルフレッドは呟くように言いながら、ハルクに向けていた視線をゆっくりと自身の足下へと下げていく。
目を伏せた彼は驚く様子も無く静かだった。
来るべき日が来たと、ただ冷静に受け止めている。
「このままで良いのか?」
少しの間、書斎に流れた沈黙の空気を破って問いかける。声は自然と堅くなってしまっていた。
わずかに驚きを表情にのせてアルフレッドが顔を上げる。アルフレッドが口を開いて何かを言う前に、ハルクは言葉を続けた。
「クシュケット卿が承諾の返事をしたら君はゾーイと結婚する。もしも断られたら領地に戻りジークの補佐をしつつ、社交界に本格復帰して別の女性との縁談を進める。当初の目的通りではあるが、本当にそれで良いのか?」
「もちろんですよ。俺は自分で望んでオースホート城に働きに来ました。兄さんに無理強いされた訳ではないと、ハルクさんもご存じの筈です」
「知っているよ。だがもう一つ、私は知っている事がある。君は、兄が望む事を必ず叶えてやりたいと思っているのだろう? 己を犠牲にしてまでも」
室内にもう一度静寂が訪れる。
太陽はほとんどが隠れてしまい、室内はすっかり暗くなっていた。
アルフレッドは微笑んだ。
「何度でも言わせていただきますが、俺は兄の為に行動した訳ではありません。ハルクさんはずっと誤解しています」
早急にこちらに灯りを届けるように使用人に伝えてきます、と言って、アルフレッドは立ち上がる。
ドアノブに手をかけて回す前に振り返ってハルクを見るアルフレッドの、涼やかな漆黒の瞳から放たれる眼差しは、普段の彼の印象そのもののようにしっかりとした強さを宿していた。
迷いや暗さは微塵も感じられない。
「現在の俺が結婚を望む理由は、ゾーイ嬢が好きだからです」
衝撃的な発言だった。
驚きのあまり何も言葉が出ないハルクをよそに、アルフレッドは「失礼します」と言って退室してしまう。
静かに閉じられた扉。足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなってから、ハルクは椅子の背もたれに上半身を預けた。
あり得ない。
だが、ハルクはアルフレッドの性格もよく知ってしまっている。アルフレッドは女性関係について何らかの発言を求められた際に、思わせぶりのような発言をしたり、誤解を与えるような含みを持ったような遠回しな表現はしない。
あのようにはっきりと「好き」と断言したという事は、嘘ではなく本当なのだろう。しかし理由もきっかけもハルクには思い当たる節が見当たらない。
親友の弟はこれまで一度もゾーイと会った事がない。
なぜ、好きだと断言できる?