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3 手



 ゾーイの部屋に死神は毎日現れるようになった。

 現れるのはいつも突然で、消えてしまうのも突然だった。


 突然現れて、会話が一区切りしたら再会の約束をする事もなく急に消えてしまう。たった一瞬のまばたきをしている間に消えたり、現れたり、移動したり。部屋の滞在時間も気分で決めているのか、わずか数分の日もあれば、そこそこのまとまった時間、部屋で静かに佇んでいる日もある。話したかと思えば無言になったりと、死神はとにかく自由だった。


 死神にはやはり事情があるのか、ゾーイにはよく分からない仕事がある様子だ。無言でゾーイをただ眺めている時間を過ごしている時の死神は、ただぼーっと立っているわけでなく、何か考え事をしているような様子がある。


 死神が自由に過ごしているのだから、と、ゾーイも自由に過ごしていた。自由に過ごすといっても、身体の調子はとても良いのだが相変わらず力が上手く入らない日が大半で、動き回る事は難しいままだ。少しだけ室内を歩くことも可能になったが、ベッド上で過ごす時間が長い生活に大きな変化がある訳ではない。死神と話したり、読書をしたり、眠ったり。


 二人きりで過ごす時間は、とてものんびりとしていた。 


 死神は、ゾーイが両親やキーナ、他の使用人と話している最中に、ベッドそばに突然現れたりもする。しかしやはり死神の言うとおり、ゾーイ以外の人には誰一人として死神の姿も声も見えず、聞こえる事もなかった。



「死神さん、お願い!」

「突然何だ」


 この日、死神は珍しくゾーイのいるベッドの近くに立っていた。

 力を込めて勢いよくまっすぐに右手を差し出すと、死神は理解出来ないといった警戒した様子でほんの少し身体を引いている。


「初めて会ってからもう三ヶ月も経つけれど、あなたの手をまだ一度も見ていない事に気が付いたの」

「手?」

「顔も身体も、着ている衣服も、何一つ見ていないわ。姿を全て隠しているのは何か事情があるのかもしれないから、顔を見せてと言う気はないの。でも、ずっと気になっているの。私はあなたの事を人間の姿のように想像しているけど、本当にそうなのかしら? って」

「つまり」

「改めてご挨拶という意味も込めて、握手をしましょう! この国ではね、紳士同士の挨拶は握手をするのよ?」

「姫は紳士じゃないだろう」


 しばし静寂が流れた後、死神はそこそこ大きなため息を吐いている。


 駄目元でお願いしてみたが、やはり無理なお願いだったのだろうか? 残念に思いながら、ゾーイは差し出した右手を下ろそうとしたが、ひんやりと冷たい大きな感触が包み込んでいた。

 漆黒のマントの繋ぎ目から右腕が伸びている。

 マントと同様の漆黒の長袖につつまれている。ゾーイの骨ばった華奢な右手を、死神の大きな右手がしっかりと握っていた。


 冬に触れる水のようなとても冷たい手が。



「満足か?」


 思いがけず願いを叶えてくれた事にびっくりしすぎて、ゾーイは触れあっている自分の手と死神の手を凝視していたが、手が離されそうになって慌てて「まだ!」と言って強く顔を左右に振った。


「手も腕も人間と同じ。人の姿をしているのね?」

「満足したか」

「いいえ、待って。まだこのまま。せっかく握手してくれたんだもの、断られると思ってたから。もう少しの間だけ」

「無理をするな。寒そうな顔をしている」

「あっ」


 容赦なく死神は手を離してしまう。

 大丈夫なのに、と言うゾーイの右手は、死神の手のあまりの冷たさに真っ赤になってしまっていた。ゾーイが無意識に自分の左手で右手を擦り温めようとする仕草をすると、死神の閉じられた口端が小さく下がっていく。


「たとえ似ていても私と人間は違う。私が必要以上に姫に近付かないのは、姫が熱いからだ」

「熱い? 私が?」

「人間で言うと、燃え盛る炎に歩み寄る感覚かもしれない」

「炎!?」

「対象者に熱を感じて近付くことも困難になるのも、姫が初めてだ」


 最後の言葉は呟くように、不可解そうに述べられた。


 まさか、彼にとっての自分が危険な炎のような存在だったなんて。

 初めて知らされたゾーイには衝撃的だった。三ヶ月も会話しながらのんびりして過ごしてしまったせいか、すっかり死神の事が、変な格好をしているだけの普通の人のように思いかけていたのかもしれない。

 しかしやはり彼は人間ではなく死神なのだ。


 握手に応えてくれた喜びが、しゅんとしぼんでしまっていく。


 死神の体温は冬に触れる水のように冷たかった。まるでゾーイの持つ熱で蒸発して消えてしまうのではと、あり得ない事を考えてしまう程の温度差を感じてしまったのだ。どんなに近づいても、絶対に死神の歩幅で二歩程の距離があったのは、ゾーイには分からない温度差を感じていた死神が難なく会話できる距離の限界だったのかもしれない。


「私に近付くことが苦痛だったのに、お願いを聞いて握手してくれたの? 死神さんはお人好しすぎるわ。もう、触れ合うようなお願い事はしないようにする。苦痛を与えたくはないの」

「……」

「何も知らなかったとはいえ酷い頼みごとをしてしまって、ごめんね。握手してくれてありがとう。私以外の人には見えても聞こえてもいなくても、死神さんは死神さんとしてちゃんと存在してるって強く実感したわ。親切な、優しいあなたに魂を導いてもらえる私は、とても幸せ者ね?」

「何を一人で喋り続けて、へらへらと笑って勝手に納得しているんだ」


 地を這うような強い口調で言われて、ゾーイは今の言葉が死神から発せられた言葉だという事実を理解するのに時間がかかった。

 瞬間、ベッドそばにいた筈の死神は硝子扉の前に瞬間移動してしまっている。死神からは苛立ちが滲んでいた。


「私は死者の魂を死後世界へ導く者。ただそれだけの存在だ」

「死神さん? あの、」


 ゾーイが尋ねる前に、死神は一瞬にして姿を消してしまう。

 あのように苛立った様子で姿を消されてしまったのは初めての事で、ゾーイは不安な心持ちのまま、死神が立っていた場所を見つめ続ける事しか出来なかった。




 *


 異変に気付いたのは目覚めて少し経った頃だった。


 死神と初めて出会った日を境に、相変わらずゾーイは目覚めの良い朝を迎え続ける事が出来ていた。本当に自分は後わずかの命なのだろうか、と疑問に思ってしまう程に身体が軽く感じている。


「あれ?」


 朝起きて一番にいつもするように、使用人室へと繋がっている呼び鈴の紐を引っ張ろうと手を伸ばした時だ。ゾーイは夜着からのぞく自分の腕を見て、紐を掴もうとした手を止めた。


 自分の右腕から手のひら、指先にかけて、思わずじっくりと眺めてしまう。


 誰から見ても健康体ではないと確信される程に青白かった肌に、少しばかりの血色感が戻っている。枯れた小枝のように、骨と皮だけだったような細く潤いの無かった腕に、数年ぶりに少しばかりの潤いが戻ったかのようなうっすらとした張りが生まれているようにも見える。


 どうして?


 ここ最近、量は少ないながらも食事は完食出来ている。

 夜はぐっすり眠る事が出来て目覚めも良い。キーナや両親達の助けで、自分の部屋を少しばかり歩いたり、短い時間だがバルコニーで日なたぼっこも出来るようになった。自分も皆も不思議に思いながらも歓喜してしまうほどに、とにかく調子が良かった。

 それにしても、この明らかな体の変化は一体。


 考えて、ゾーイはハッとした。きゅっと右手で拳を一度握って、しかしすぐに拳を解いてぺたんとベッド上に置いてしまう。身体の調子が良いことに喜んでいた日々だったが、その理由をなんとなくゾーイは悟ってしまった。


 死神。彼に会った日からずっと調子が良い。

 少しずつ良くなっている。

 けれどこれは。


「私の魂が死後世界に引っ張られている? 死後世界にいける事を、私の身体と魂が喜んでいるから……?」


 苦笑が浮かんだ。

 十六歳の成人を迎えた事をきっかけに、死という現実を冷静に受け止めるようにと努めている。どんなに体調が良く感じても、自分の死は三ヶ月後にやって来る。変わらないのだ。もし死期が変わったら、死神はきっと偽らずにはっきりと教えてくれそうな気がする。しかし彼は、死期は定められている、と言っていた。


 迫る死の現実は何も変わってはいない。


 強く歯を食いしばりながら顔を上げたゾーイは、再度紐へと手を伸ばして掴み、引っ張った。



 少しの待ち時間で、水を張った木桶や着替え、朝食を乗せたワゴンを押しながらキーナは現れた。朝の挨拶を交わして着替えを終えると、瞳を見開くキーナの表情が視界に入り込んでくる。


「お嬢様……お身体が……」

「キーナも気付いた? 食事をちゃんと摂れるようになってきたからかしら」


 笑いながらゾーイが言うと、キーナは泣きそうに微笑みながら「はい」と大きく頷いて、下段のワゴンから折りたたみ式のミニテーブルを取り出すと手際良く朝食の支度を整えていく。


「私はずっと、信じております」


 キーナの言葉は力強く、願うように。

 自分に言い聞かせているようだった。


 ゾーイは返事が出来ず、死神との事情を一切知らないキーナの希望を壊す事も出来ず、ただ微笑む事しか出来なかった。




 *


 覚えたとしても活用する機会は訪れない。

 ゾーイは分かっていても、せっかく学んだ事を簡単に忘れてしまってはいけない、と考えていた。三ヶ月後に死んでしまう運命だとしても、生きている限りはコーイック城を護るクシュケット子爵家の娘なのだ。


 ベッド上でゾーイが今読んでいるのは貴族子女向けの社交界教本だ。

 サイドテーブルには蝋燭の灯りが点いた大きな燭台と、日中に途中まで読み終えた歴史書も一冊置かれている。


 成人して三年が経つが、社交場に出た事は一度も無い。


 貴族同士の交流も、クシュケット子爵家と昔から親交のある複数の家のみで、見舞いに来訪してくれた人々に限られていた。

 何度も何度も繰り返し読んだ数多の教本。どこに何が書いているかも覚えてしまっているのだが、教本を開かないでいると、どうしても自分が貴族の女性であるという事実を意識せずにベッド上でぼんやりしてしまう。教本を開く時間はゾーイにとって大切な時間だった。


 最近は体調も良いから、久々に何か他の勉強も再開しようかしら――教本を閉じて考え、顔を上げたゾーイの視線は自然に硝子扉の前に向けられた。

 硝子の向こう側の景色は暗闇。

 夜は深くなっている。


「死神さん? 今日は姿を見せてくれないの?」


 返事は無い。姿も見えない。

 約三ヶ月、毎日のように会っていた日々が、今日で潰えてしまいそうになっている。


「昨日はどうして怒っていたの?」


 硝子扉の前の空虚を見つめ続けて、ゾーイは問いかけた。


「自分なりに考えたんだけど、やっぱり私が握手をしましょうってわがままを言ってしまったからよね? あなたの手がとても冷たくてびっくりしたけど、あなたは私から感じる熱さが痛くて苦しかったのでしょう? もしかして、火傷をしてしまったのかと思って、」

「少し黙ってくれ」


 声は硝子扉の方ではなく、廊下へとつながる扉前から聞こえた。

 驚いたゾーイが顔を反対側に向けてみると、死神が立っていた。昨日のように怒っている様子はまったく感じられない。


「死神さん! 良かった、姿を見せてくれて。昨日握手した手は大丈夫?」

「しつこいな。 ――姫!」


 焦ったような声をあげた死神が瞬間的に移動する。彼の片腕に抱きとめられて初めて、ゾーイは自分がしでかした突発的な行動に気がついた。


 死神に会えた事に喜び、安堵して、思わず掛布をよけてベッドから両足を降ろして彼に駆け寄ろうとしていた。自力で立ち上がって数歩は進んだが、片膝が不安定に力が抜けて前のめりに転びそうになったところを、死神が受け止めていた。

 マントの隙間から伸びた右腕が、しっかりとゾーイの細い身体を受け止めている。ひんやりと、ゾーイの背中の夜着超しにも死神の手の冷たさが伝わってくる。


 自力で立ち上がって小走り出来た喜びは無い。

 それどころでは無かった。


 ゾーイが力の入りきらない両腕を伸ばして必死に死神から離れようとすると、死神はますます右腕に力を込めてゾーイを抱きしめてくる。


「動くな」

「は、離して。あなたが火傷を、」

「火傷? しない。ただ熱いだけだ。ベッドに戻してやるから動くな」

「自分で戻るわ。火傷をしなくても熱くて苦しいのでしょう? これ位の距離なら自力で歩けるから」

「姫。動くな」


 死神の仮面に覆われた鼻とゾーイの鼻が触れそうな程に近い。

 ゾーイとは違った色合いの白っぽい肌と、閉じられた生気の無い薄い唇。ぽつぽつと開けられた二カ所の穴からジッと見つめられている。死神の右腕、右手、至近距離にある顔。

 全てからひやりと冷気が漂ってくる。


 あまりの近さに驚き、身体を硬直させて本当に言葉を失っていたら、その間に担ぎ上げられてベッドへと連れて行かれていた。

 丁寧におろされて、掛布をかけてくれる。


「……昨日はどうして怒っていたの?」


 やっとの思いでゾーイが絞り出した言葉は、やはり昨日の事だった。


 今の彼からは怒りは感じられない。ゾーイは戸惑った。握手をねだってしまった昨日は明らかに苛立っていたのに。彼が何に怒っていたのかがやはり察する事が出来ず、悲しくなり、とても申し訳なく思っていた。

 掛布から手を離してすぐさまマントの下に腕を隠した死神は、冷静な様子でゾーイを見下ろしている。


「昨日は脳天気な姫の言動に呆れていただけだ」

「の、脳天気?」

「余命はあと三カ月だ。理解しているのか?」

「うん。大丈夫よ。ちゃんと分かってるから」

「……」

「今日もあなたに会えて良かった。毎日会っていたから、会えないと寂しくて。会えない日はあってもいいけど、今度からは事前に教えてくれない?」

「姫はわがまま姫という名に相応しいな」

「急に現れたり消えたりする死神さんには言われたくないわ! こんな言動をとってしまうのは多分、死神さんだからよ。人間じゃなくて身分も関係ない。私の魂を導いてくれる死神さんだから」


 すっかり普段の調子に戻ったゾーイが明るく言うと、死神はしばしの間ゾーイを見下ろして、脱力したように肩を下げた。


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