22 デビュタント
結婚式を終えて二週間が経過した。
現在、ゾーイとアルフレッド、クシュケット子爵夫妻と一部の使用人達は、王都にある子爵家の別邸に二日前から滞在していた。
ついに翌日、社交界シーズンの始まりを告げる王城舞踏会の初日を迎える。
十三歳の時以来の王都の街並みは、記憶の中の街並みとほとんど変化は見られない。冬が間近に迫った王都の街路樹は落葉がすすみ、冷たい風が吹いている中でも、活気溢れる賑やかな様子で多くの人々が街中を行き交う光景を、馬車の中や室内から眺めているだけでもゾーイの気分は高揚した。
終始そわそわと落ち着かず、与えられている休息の時間すらも削って、ダンスレッスン室でステップの練習を一人で始めようとしたゾーイに、使用人から事情を聞いてやって来たアルフレッドが「今無理をしすぎるとまた肝心な日に動けなくなるぞ。もう少し落ち着いて過ごしてくれないか」と苦言を呈する程だった。
アルフレッドは嘘をつくのが不得手だと以前話していたが、嘘以上に、隠し事の方が下手なのかもしれない。
「またって、いつの事?」
意地悪く尋ねてしまうと、アルフレッドは両目を細めてしばし沈黙したが、やがて口を開いた。
「兄が初めてコーイック城を訪ねた日に、一時的に体調を崩していたと聞いた。動くべき時にしっかりと動いて、休む時は休んでくれ」
結局は身体を気遣うあまり懇願するように言うアルフレッドの姿に、ゾーイの良心がじくりと痛んでしまう。
結婚式の時と同じ。
自分の発した言葉に後悔ばかりしている。
「……ごめんなさい」
我慢ならない時がふとした拍子に訪れてしまう。
お願いだから話して欲しいと、願う感情のままに突き動かされてしまい、アルフレッドを追い詰める言葉を発してしまう。
強い罪悪感に襲われながら足早にレッスン室を出ようとしたが、険しい表情を浮かべたアルフレッドが行く手の正面を立ち塞ぎ、静かな動作で両腕を伸ばしてくる。
ゆっくりと抱き寄せられて、優しく背中に触れる大きな手の感触にゾーイはどきりと胸の鼓動を跳ねさせた。
「俺が、口うるさすぎた。練習をするのは構わないんだ。無理だけはしないでくれよ」
アルフレッドの顔は見えない。しかし、彼が発した言葉からは後悔している様子が伝わってくる。ゾーイは驚いてしまい、同じようにアルフレッドを抱きしめ返し、頬を胸に寄せながらも顔を横に振った。
「二人で話し合って、納得して上で決めた予定の約束を守らなかったのは私よ。謝るのは私。今は休むわ。今夜は予定通りにアルフと最後のダンス練習をしたいから。時間はとれそう?」
「ああ。必ずとる」
「本当に? 良かった!」
喜びに微笑みながらも、労るように背中をゆっくりと撫でると、アルフレッドの両腕の力が少しだけ強くなる。
昼下がりの陽射しに照らされたレッスン室で、二人はただ静かに抱擁していた。
※
王城舞踏会に参加するための準備に各自が追われつつ、開催初日の夜を迎えた。
この日の為に特別に仕立てた桃花色のドレスは、肌の露出は最低限の首元が詰まっているデザインだ。顔から胸元にかけては上品な淑女を思わせる装いだが、腰から足下にかけてふんわりと広がる裾が、桃花色も相まって可憐な印象を強くさせる。胸下まで伸びた金髪は、頭の低い位置で一纏めにして編み込みを施し、シニヨンにしている。
十六歳でのデビュタントが叶わなかったが、こうして今、奇跡的に社交界への仲間入りを果たす事が出来た事を祝して、両親からの心のこもった贈り物を、ゾーイは感謝の思いで身に纏った。
桃花色のドレスを着た自分を全身鏡に写して、しばしふわふわとどこか夢見心地で眺めていたら、キーナに鏡台の椅子に座るように促される。
最後に髪とメイクを整え直す為だ。衣装指示で着用が決まっている仮面はまだつけていない。王城に到着してからつけようか、とアルフレッドと相談して決めていた。
さぁ出来ましたよ、と言うキーナの声は震えていた。
異変にすぐに気付いたゾーイが、鏡台の椅子に座ったまま大慌てで勢いよく振り返って背後に立つキーナを見上げると、彼女は相変わらずの凜とした表情ではいるものの、両目を真っ赤に染めながらいっぱいに涙を溜めていた。
「キーナ……!?」
声をかけた瞬間、キーナは右手に持っていたブラシを素早く鏡台の上に置いた。
表情を歪ませたかと思えば、そのままうつむきがちに片手で顔を覆ってしまう。必死な様子で声を抑えながら肩を小刻みに震わせている。
泣くのを堪えているのは明らかだった。
すぐさま立ち上がったゾーイがキーナの肩に手を置いた途端、ハッと顔を上げたキーナは、ゾーイの両手から逃れるように控えめに後ずさりした。真っ赤な顔に真剣な表情を浮かべてゾーイを見据え、顔を一度横に振って膝を折った。
「申し訳ございません。取り乱してしまいました」
ぐいっと乱暴に右手の裾で両目の涙を拭ったキーナは、改めて顔を上げると、いつもと同じ凛々しい表情の彼女がいた。
しかし、拭った瞳からは、また新たに涙が盛り上がっている。
「お嬢様が、無事に王城舞踏会に出席出来る念願の日を迎えられた事に感極まってしまいました。いつも私は、お嬢様の事となると涙腺がとても弱くなってしまうようです。今までも何度も取り乱した姿をお見せしてしまい、お恥ずかしい限りですが」
「……ああ! びっくりしちゃったじゃない!」
深く安堵して笑みを零しながらも、ゾーイも危うくもらい泣きしそうになってしまっていた。
手袋をはめた両手をまっすぐにキーナに差し出す。
潤んだ瞳でジッと視線を向けてくるキーナに、ゾーイは微笑んだまま深く一度頷くと、躊躇いがちに伸ばされたキーナの両手を強く握った。
「今の私がこうして元気にこの場所にいられるのは、楽しい時も、本当に辛くて苦しかった時も、いつもキーナが寄り添って支えてくれたからよ。本当にありがとう」
「……お役にたてて光栄です。恐れ入ります」
「あのね、滞在最終日の前日に、少しだけどまとまった自由時間がとれそうなの。一緒にメインストリートを散策しましょう? キーナが好きそうなレース編みのお店の情報を仕入れたわ。言葉やお給金だけじゃなくて、何か別に残る形でお礼をさせて欲しくて」
「いいえ。行けません。一年間に一度きりの機会なのですよ? 使用人ではなくアルフレッド様と行くべきです」
「あなたと行くと決めた事は、もうアルフに伝えてあるわ。反対されるどころか名案だって言ってくれたのよ?」
唖然と目を見開いて言葉が途切れたキーナの驚きを隠さない姿に、ゾーイはくすくすと笑ってしまう。
迷い恥じらいながらも、やがて嬉しそうに微笑みながら遠慮がちに感謝の言葉を述べつつ涙を零し続けて頬を濡らすキーナを、ゾーイは思いきり力強く抱きしめた。
*
両親は既に出発し、先に王城へと向かっていた。
全ての身支度を終えてショールをまとい外に出ると、門の前に一台の馬車が止まっている。馬車の扉の前に立っていたアルフレッドと使用人のルイが、ゾーイの存在に気付いて顔を向けた。
アルフ、と名を呼びかけてゾーイが笑顔を浮かべたのも束の間。
想像もしていなかった光景にぽかんと息を飲んだ。
肩下まで長さのある一つに結ばれた黒髪は、魅惑的な艶やかさを柔らかく解き放っている。
門灯りと点在する街灯、屋敷の窓から零れる光しかなく視界は暗いのだが、普段とは違い、整髪の為に整油を塗り込めているから余計に艶めき輝いているのだ。理由は分かっているのだが、まるでアルフレッド自身が内側から輝いているように錯覚してしまいそうになる。
着ている黒のフロックコートは、アルフレッドの為にあるような、何か特別な衣装に見えてしまっている。
漆黒の髪と瞳、フロックコート。
全身が黒に覆われたアルフレッドの今の姿は、黒のマントで全身を覆い、仮面で顔の半分を隠して静かにこちらを見守るように立つ死神の姿を、久しぶりに鮮明に思い出させていた。
幻想的な輝きの眩さに、頭の中は真っ白になっていく。
あなたにどうしても伝えたい。伝えたかった。
あなたのことが大好きだったのよ、と。
ルイはゾーイに目礼すると御者台へと向かっていく。
心ここにあらずといった様子でぼんやりしているゾーイの異変にすぐに気がついたアルフレッドは、片手を差し出して手をのせるように促した。
馬車の扉を開けながら、のせられたゾーイの手を掴むと車内に誘導した。
「仮眠は十分にとったと聞いていたが、準備に疲れたか?」
心配そうに顔を覗き込んで尋ねてくるアルフレッドに、ゾーイはなんとか正気を取り戻しつつも、どきどきと胸の高鳴りを抑えることが出来ないまま、緊張に頬を染めながらも微笑んだ。
「そうじゃないの。アルフ、素敵よ。舞台を見に行った事は一度も無いのだけど、舞台上に立つ魅惑の貴公子ってアルフみたいな男性を言うのかしら? 容姿のことだけを言っているのではなくて、立ち姿とか雰囲気も、全てが綺麗で幻想的。そのフロックコートもとっても似合ってるわ」
アルフレッドは意表を突かれたように目を見開いた。
一度夜空を仰ぎ見たあと、馬車とは反対側を向いて小さく咳払いをしている。しかしすぐに馬車に乗り込んで扉を閉めてゾーイの隣に座り、天井を二度ノックする。
ノックを合図に馬車は王城に向かって発車した。
「今の言葉は受け取れないな。そのまま全部ゾーイに返す」
「私に?」
「素敵、綺麗、幻想的。ゾーイにこそ相応しい言葉だ」
狭い車内で肩が触れ合う。
アルフレッドが伝えようとした事を正確に理解して、ゾーイの体温はますます上昇した。
「あ、ありがとう。キーナ達が時間をかけて一生懸命綺麗にしてくれたおかげね。立派な淑女になれたかしら?」
照れ隠しで、ついおどけながら尋ねてしまう。
途端にアルフレッドは真顔を解いて優しく笑った。
「ああ。綺麗だ。今だけじゃない。ゾーイは普段から立派で綺麗な淑女だ。可憐な姫君でもある」
茹だってしまったようにあちこちの肌を赤らめて黙り込んでしまうゾーイに構わず、アルフレッドは言葉を続けた。
「明るく周囲を照らし、皆に笑顔をもたらしてくれる。ゾーイは自慢の妻だ」
「っ……アルフは私を過剰評価しすぎ! 甘やかしすぎ」
「事実しか言ってないんだ、素直に受け取ってくれ」
砂糖を口いっぱいに詰められたら、こんな気分になってしまうの?
行き場の分からない羞恥に、ぐるっと反対側を向いてアルフレッドの眼差しから逃げてしまう。忍び笑いする声が聞こえて、ゾーイはますます赤面した。
別邸から王城は遠くない。
煌々と明かりに包まれて輝く王城が車内からもくっきりと見えた頃合いに、ゾーイ達は衣装指示の仮面を装着する用意を始めた。
整えた髪型が崩れないように、アルフレッドの手によって後頭部でリボンが結ばれる。出来た、の言葉の合図ともにアルフレッドに仮面をつけた顔を向けると、彼は複雑そうに眉間を曇らせた。
「私の仮面姿、似合わない?」
「似合う似合わないの話じゃない。仮面が無い方が良いに決まってる。社交場には邪魔だとしか思えない」
「私は、面白くて楽しい試みだと思うわ。十六歳のデビュタントの人達はお披露目の関係上、仮面ではなく黄色の花を身につけることに変更になったのよね? 初参加の紳士達も黄色のハンカチーフに。全員への衣装指示は初日のたった一日だけでしょう? 楽しまなきゃ損よ!」
ゾーイが苦笑しながら言うと、アルフレッドはまるで頭痛でもおこしているかのようにますます苦い顔をするが、すぐに諦めたように正面を向いて顔をうつむかせ、黒い仮面を顔にあてがった。
後頭部で素早く黒のリボンを結ぶ手つきを見つめながら、ゾーイは少しずつ胸の鼓動を早めて両手をきつく握り合わせていた。
アルフレッドが仮面をつけた姿はもう何度も見ている。
毎回、ダンス練習をするたびに一度は仮面をつけて練習していたのだ。初めて仮面をつけた姿を見た時は、あまりにも死神そのものの姿に動揺してしまったものの、さすがに今では慣れもあり動揺はなくなった。
でも、今日のアルフレッドは様子が違う。
仮面をつけていない姿ですらも、死神の姿を彷彿とさせるような色合いと雰囲気を濃く漂わせている今は、どうしても緊張してしまう。
死神に伝えたかった想い。
言葉を伝えても、誤魔化されるか否定されるだけと、分かりきっている。分かりきっている返事に、大きなショックを受けてしまう。それなのに衝動のままに口走ってしまいそうになる。
絶対に言っては駄目。
今夜はただ楽しく、平和に過ごしたい。
仮面をつけ終えたアルフレッドがゾーイに顔を向ける。
漆黒の仮面に開かれた穴から覗く漆黒の二つの瞳。
まっすぐに見つめてくる眼差しに囚われそうになりながらも、ゾーイは普段通りの笑みを浮かべたまま「完璧ね」と言って頷いた。
ついに王城に到着し、アルフレッドの腕に片手を添えて、背筋を伸ばして歩みを進める。
王城使用人によって高らかに名を読み上げられ、開かれた扉の先に広がっていた景色は、想像よりも遥かに広大で、シャンデリアや貴婦人達が身に付けている宝石、数多に灯された明かりによって輝きと煌めきに満ち溢れている豪華絢爛な舞踏場だった。
仮面姿の参加者達の視線がゾーイとアルフレッドに集中する。
衰弱し、そのまま命を儚くさせると思われていたクシュケット子爵令嬢の奇跡の回復と結婚。既に昨年の社交界シーズンで発表されていたとはいえ、こうして実際社交場に現れた二人の姿に、人々は驚きを隠さずに注目を寄せていた。
子爵令嬢の結婚相手が、スミナリア国貴族としては歴史の浅い新参で、コーイック城からは遠くに位置する領地を治めている家柄の次男という事実だけでは大きな驚きはない。両者の家柄や立場を考えても、手堅い婚姻を結んだという認識で間違いはないのだ。しかし、美麗な容姿を誇りながらも浮ついた言動もなく誠実な人柄もあり、数多の女性達の関心を惹き付けていながら、艶のあるよう噂や不穏な話も何もないまま三年間も社交界から忽然と姿を消していた紳士が、古城管理貴族の娘と結婚して後継者となったことは、特に若い独身貴族女性達には大きな衝撃を与えていた。
一時、人々の話し声がシンと静まって小さくなり、楽団の奏でる音楽の演奏が一層大きくゾーイの耳に響いていた。
初めてのダンスを踊るために舞踏場の中心へと歩き進む。
向かい合って互いに一礼し、手を取り合うと、楽団が新たな音楽を奏で始める。音楽に合わせて、人々は同じように手を取り合ってダンスを踊り、静まりかえっていた会場に少しずつ話し声が響くようになっていた。
「……見ているな」
しばらく無言のまま、王城舞踏場でダンスをしている現実に夢心地のまま集中していたが、アルフレッドの発した言葉にゾーイは不思議に思いながら顔を上げた。
周囲を見渡していたらしいアルフレッドもゾーイに顔を向け直す。
「多くの紳士達がゾーイを熱心に見ている。婚姻を結んでから社交界シーズンを迎える事が出来て良かったと思ったんだ。タイミングを間違っていたら、ゾーイの夫の座を求めて争奪戦が勃発するところだった」
アルフレッドはからかっているのではなく、本気で言っている。
だが、あまりにも見当違いすぎる言葉にゾーイはいたたまれない心地に襲われてしまっていた。
「厳しい生活を強いられると分かりきっている娘婿の座を巡って争奪戦が起きたなんて聞いたことがないわ。私を見てくださっているのは、私自身を見ているのでは無くて、これからのコーイック城を守護する後継者への関心よ?」
「なるほど。その後継者があまりにも美しく、一瞬にして魅了されているわけだ」
「魅了だなんて、!」
言葉を続けようとした直前、アルフレッドが突然、何の前触れもなく、ゾーイの腰を抱く腕に分かりやすく強く力を込めてくる。まるで何かの合図を示すように。
驚くゾーイの耳元に、アルフレッドは一点を見つめて笑みを浮かべた横顔を近づけて囁いた。
「壇上に上がる階段前だ」
困惑したまま、アルフレッドの言葉に従って顔を動かしてみる。
壇上へと上がる階段前に立つ、仮面をつけた多くの淑女と紳士達。その人混みの中に立つ一人の仮面姿の紳士に、ゾーイは大きく瞳を見開いた。
弾けるように広がり浮かぶ思い出の日々。
まだお互いに子どもで、控えの広間で長い時間を共有して笑いあった日々。お互いの古城について語りあった日々。
会えなくなってからも途切れず交わし続けた手紙の数々。
長年ずっと、家族も同然に寄り添ってくれた人。
「遠い場所からゾーイの無事と幸運を祈り続けていたハルク・ベスティリ侯爵が、この場にいる誰よりもゾーイの事だけを熱心に見つめ続けていた。気付いていたか?」
「いいえ、全然……たった今……っ」
感動のあまり、言葉は喉でつかえてしまう。
呼吸すらもままならなくなりかけていた。
震えそうになる唇をぎゅっと閉じて、感極まるあまりに緩みそうになる涙腺に力を込めながらアルフレッドを見上げると、黒い仮面の下の漆黒の瞳を優しく細めた。
「昔、デビュタントを迎えた暁には、家族の次にベスティリ卿とダンスを踊りたいと『控えの広間』で話していただろう? 仮面をつけていてもゾーイは今日がデビュタントだ」
昔、その会話をした相手はハルクとジークレッドであり、アルフレッドではない。アルフレッド本人との本当の思い出であれば、どんなに良かっただろう。
ゾーイは問い詰める事はせず、気にする素振りも欠片も見せずに、目を赤くさせて微笑んだ。
「ありがとう、アルフ」