21 ずっとこのまま
結婚式と祝宴を終えた夜、ゾーイは自室の寝台のある部屋にキーナと共に二人で過ごしていた。
鏡台の椅子に座って鏡を見つめるゾーイの長い金髪を、キーナがブラシで丁寧に梳いてくれている。
独身時代と変わらない夜の日課だ。
結婚式当日の夜は、本来ならば新婚夫婦の初夜を迎える事になる。
しかし二人の寝室は継続して別々のままだ。婚約が決定した当初から決まっていた。説明のつかない奇跡がおこり、原因不明の病を克服したものの、しばらくは慎重に経過観察を継続していく方針を固めていた。
夫婦で寝室を同じにするのは、今期の社交界シーズンが終了した後。
翌年の春からの予定になっている。
夫となったアルフレッドは、今まで過ごしていた客室ではなく、新たに用意された私室へと既に部屋を移している。翌年の春までは、書斎と続き部屋の私室で一人の夜を過ごす事になっていた。
ベッドサイドに置かれた数本の蝋燭の灯りだけを残して部屋中の灯りを消し、寝支度を整える。結婚を祝う手紙は数多く届き、まだ全てを読みきれていなかったため、もう少しだけ夜更かしする事を決めていた。キーナが退室する姿を見送った後、ベッドボードに並べられたクッションや枕に背中を預けて、しばらく手紙を読む事に集中する。
全ての手紙を読み終えて、丁寧に折り畳んでベッドサイドに置いた後、なんとなくバルコニーへと繋がる硝子扉に顔を向けてみる。
レースカーテンの奥に見える景色の暗闇を見た途端、死神と初めて出会った雨夜の出来事を思い出す。けれど、思い出す死神の姿は、いつも必ず付けているはずの漆黒の仮面をつけていなかった。
漆黒のマントとフードで身体と頭を覆い隠しながら、驚いて目を見張るアルフレッドの表情が浮かんでしまっている。
ゾーイはうつむいた。
……アルフはまだ起きているかしら?
賑やかに華やかに、でも和やかな雰囲気で終える事が出来た結婚式と祝宴。生涯忘れる事の出来ない一日を過ごす事が出来たと思っているが、心残りが一つだけある。
アルフレッドと二人きりでゆっくりと過ごし、会話する時間が無かった事だ。
夫婦となって初めての夜。
本当ならば、今日過ごした一日について、同じベッドで並んで横になりながらのんびりとお喋りする事が出来ていた。もしかしたら、二人とも疲労困憊で、お喋りもそこそこに寝落ちしてしまっていたのかもしれない。そんな夜も良いなと想像しながら、ゾーイはふふっと笑ってしまった。
でも、もしもお喋りが弾んで全然眠くならなかったら、その後は――
「ゾーイ、起きてるか?」
もしも眠くならなかったら。先の事を想像しかけた瞬間、控えめな扉のノック音とアルフレッドの声が聞こえて、ゾーイはぎくりと肩を震わせて驚きながら扉へと顔を向けた。
「アルフ!?」
「話しがあるんだ。入ってもいいか?」
「ええっ? え、ええ。もちろんよ」
扉を開けてアルフレッドが入室した途端、ふわっとハーブの香りが広がり漂ってくる。
アルフレッドの片手には二つのマグカップが握られていて、温かそうな白い湯気を漂わせている。
片手で静かに扉を締めたアルフレッドの、いつもはしっかりと結ばれてる黒髪は、ゆるく一つ結びになっている。シャツとズボンの簡素な姿は寝姿ではない事だけは分かるが、それでも普段の仕事中や食事中の姿とは違い、私室でくつろぐ時の姿だと分かる格好をしていた。
それなのに、横顔の頭から靴のつま先まで、全てがやけに色気があるように見えてしまう。
ベッド上で無言のまま驚いているゾーイに、アルフレッドは二つのマグカップを軽く掲げて歩み寄ってくるが、ベッドサイドに綺麗に置かれた手紙に気付いた様子で視線が動いた。
「今夜は少しだけ夜更かしをするようだと、わざわざキーナがルイに伝言の形で俺に教えてくれたんだ。差し入れを持って来てみたが寝ようとしていたか?」
ゾーイは慌てて顔を横に振った。
「手紙をちょうど読み終えたところよ。ハーブティー、一つは私の分?」
「他に誰がいるんだ」
慌てて掛布を持ち上げようと身体を動かしかけたが、すぐに距離を詰めてきたアルフレッドの片手で制止されてしまう。ほら、と正面に差し出された一つのマグカップを受け取ると、アルフレッドは側にあった椅子をベッド側に引き寄せて座ったと同時に、口を開いた。
「少し寂しかった」
思いがけない言葉に、ゾーイはすぐに返事が出来なかった。
ベッド上に座りマグカップを持ったまま、もう一度頭の中でアルフレッドの言葉を思い出して困惑した。寂しい、と言ったアルフレッドは、その言葉とは裏腹に平静な様子でハーブティーを飲んでいる。
「寂しかったって……私はもちろん、両親も使用人達も皆アルフの事が大好きよ。アルフにここの暮らしを寂しいと思わせてしまっていたなんて、全然気付けなくて、」
「違う、俺の言葉が足りなかったな。ゾーイと二人で過ごす時間がなさ過ぎた事が寂しかったんだ。今日はずっと忙しかっただろう?」
理解した途端、ゾーイは頬を真っ赤に色づけた。
アルフレッドが扉をノックする直前の自分に思考も同時に思い出してしまい、悪い事ではないと分かっていても恥ずかしくていたたまれない。ハーブティーを少しだけ飲んで、冷静になろうと努めた。
「アルフ……実はね」
アルフレッドを見つめる。
椅子に座っているアルフレッドは少々前屈みの体勢になった。小声になってしまっていたからか、聞き逃さないようにするためなのか、「うん」と言いながら顔を近づけてくる。
「私も寂しかったわ。同じ部屋で過ごして、今日の結婚式の事をいっぱい言い合いながら一緒に眠れたら良かったのにな、って、同じ事を考えていたのよ」
言うと、アルフレッドは思いがけずといった様子で眦を下げた。
「ゾーイは相変わらずのお喋り好きだな」
「相変わらず? 私、そんなに毎日うるさかった?」
「いいや、まったく。静かになられる方が不安になる。……今は先に、少し俺の話を聞いてくれないか? すぐに終わる」
改まった様子で話を聞いて欲しいと言われたのは初めての事だ。
微笑を消したアルフレッドに、ゾーイも緊張しつつも真剣にうなずき、口を閉じて耳を傾けた。
「ゾーイがこうして元気でいてくれて、夫婦になった俺達はこれからを共に過ごしていける。これ以上の何かを求めるのは、正直無きに等しかった。結婚式と祝宴を終えて、就寝の挨拶を交わしてゾーイを見送る時まではそう思っていた」
アルフレッドの眼差しはゾーイから逸れる事はない。
はっきりと紡がれる言葉。
ゾーイはほんの少しの身じろぎすらも出来ず、アルフレッドの美しい漆黒の瞳に視線を奪われたまま、ただ呼吸を繰り返す事しか出来ない。
「新しい部屋で一人になった時に分かったんだ。何かを求める欲が無かったんじゃなく、考えないようにしていただけだった。もっとゾーイの言葉が聞きたい。色んな表情を見ていたいし、今何を思い、感じているかも知りたい。髪にも、肌にも触れたい。ゾーイは本当に妻になったのだと、誓約書と証明書だけではない実感がもっと欲しいと思った」
アルフレッドはもう一度、手に持っていたマグカップに口をつける。ハーブティーを飲む姿を、ゾーイは呆気にとられながら静かに見つめていた。
アルフレッドの言葉が全身に染み渡っていく。
頭も身体も、全てを支配するかのように広がる熱と感情に浮かされて目眩がしそうになっている。
「もうすぐ王城舞踏会が開催される。コーイック城から王都までの移動だけじゃなく、社交場も体力を消耗する。初参加のゾーイは尚更だ。社交界シーズンが終わって春から新しい生活を始める事には今も賛成しているし、不満は何一つない。……冷静になったらなったで、結婚式前とは何も変わらない現状の生活に、身に余る程の幸福を手に入れたと分かっていても寂しさを感じてこの有様だ」
マグカップを手に持ったまま、アルフレッドは珍しく余裕の無さそうに思案顔を浮かべた。
「もし、さっきのゾーイの返事が今まさに寝るつもりだったと言われていたとしても、すぐにはこの部屋から離れられなかった。今日だけはゾーイが眠るまでこうしてそばにいたい」
「今日だけなんて言わないで」
ゾーイはマグカップを両手で包むように強く掴んだまま、前のめりになってアルフレッドの顔を覗き込むように自分の顔を近づけた。
話合いで別室が決まったのは、つまり子を授かるための行為は翌春からという意味だ。
夫婦となった二人が、二人きりで夜を共に過ごす事も、夜更かしをして話し合う事も、何も悪い事ではない。
しかし、たとえ何もなく眠り朝を共に迎えて、その事実をクシュケット子爵夫妻と使用人達が知ってしまった時、余計な不安や心配、誤解を与えたくないという思いは、結婚式前からのゾーイとアルフレッドの共通認識だった。良くも悪くも普段の二人の仲は良好だからこそ、本当に何もなかったのか? と訝しまれてもおかしくはない。
病に蝕まれ続けて衰弱し、死期が近づくばかりの恐怖と悲しみの日々は、家族や使用人達全員にとって遠い過去の出来事ではない。
つい最近まで確かに過ごしていた辛く苦しい日々は、皆の記憶に鮮明に刻み込まれている。
今の奇跡的な健康に感謝し、慎重に丁寧に毎日を過ごしたい。だからこそ、結婚式はお披露目の事情も兼ねて社交界シーズン前の初秋に、新たな夫婦生活は体調を見つつ気候の良い春からと決めたのだ。
「私も寂しかったって言ったじゃない。本音を言うなら、今日だけじゃなくて毎晩アルフには私のお喋りに付き合って欲しいくらいなのに」
「毎晩だと?」
「……どうして嫌そうな顔をするの」
顔を顰めるアルフレッドの反応に、ゾーイはショックを受けて表情を曇らせた。
しかしすぐに、怖いほどに至極真面目な顔付きになったアルフレッドに、アルフ? とゾーイは不安になりながら小さな声を零してしまう。
「ゾーイの望みも我儘も叶えたい願望は大いにある。毎晩、眠る時まで夜更かししながら話したいなら本当は叶えたいが、まだ無理だ」
「まだ?」
「とりあえず春までは。体調を見ながらだが夜は睡眠が最優先だ。今日は話を聞くつもりはあったが、長々と聞く気はないぞ? 夜更かしは構わないが、ほどほどにすべきだと小言を言う目的もあって来たからな」
ゾーイは堪えきれなくなった。
表情を緩めて肩を揺らして笑うゾーイに、アルフレッドは不可解そうに眉間の皺をさらに深くしている。
「結婚前……だいぶ前の話よ? 今のアルフの言葉と同じような事をお父様によーく言われていたわ。お喋りに付き合いたいのはやまやまだが、いい加減早く寝なさい、ゾーイの身体が心配なんだ、って。なんだか私にお父様がもう一人増えてしまったみたい」
笑いながら説明していたら、視界に濃い影が落ちてくる。
マグカップがサイドテーブルに置かれる小さな音が聞こえたと同時に、ベッドボードに片手をついたアルフレッドが近づいてくる。
驚きに目を見開いた時には既に唇が重なりあっていた。
ほんの僅かな時間だけ優しく重なっただけの唇が離れていく。しかし、色濃く影の落ちているアルフレッドの真剣な顔は、傾けられたまま至近距離から離れない。
どちらかが少しでも動いたら唇が触れあう距離。
ゾーイ
アルフレッドが名前を囁く低い声が聞こえて、ゾーイはついに息を止めてしまった。
ぞくりと身体が震えたのに、燃えるように熱い。
耳の奥がどくどくと大きな音をたて始めている。
「アルフ」
どちらからともなく、引き寄せ合うようにもう一度重ねられた唇は、誓約の時の口づけと、たった今したばかりの重なるだけのものとはまったく違った。
耳奥で鳴り響く音がどんどんと大きくなる。
頭がくらくらして、ぼんやりし始めてしまっている。
今夜はこのままこうしていたい。
ただずっと、こうして素直な感情のままに求め合い、触れ合っていられたら、どんなに……
息が苦しく意識が散漫になり、マグカップを握り持つ手の緩みが限界を迎えそうになる直前で、深く絡み合っていた唇が離れていく。
中身が零れそうになってしまっていたゾーイのマグカップを素早く引き抜いて手に持ったアルフレッドは、そのままサイドテーブルに自分のマグカップと並べて置いた。
椅子に座り直し、前屈みの姿勢でゾーイの顔を覗き込むアルフレッドの表情は不機嫌さを隠していない。
「俺は夫だ」
しばらく沈黙してしまった後、ゾーイは両手で赤面している顔を覆い隠しながら、もう一度肩を震わせて笑ってしまった。
アルフレッドは最初こそ不服そうな表情を浮かべていたものの、一度短く息を吐くと眉を下げながらも微笑んだ。
「時間が惜しいな。何を喋りたいんだ?」
「待って、待って! 急かさないで」
和やかな時間は、驚く程一瞬にして過ぎ去っていく。
嘘も死神の事も、今だけは心の端に寄せて、夫婦の誓約を果たした特別な夜を楽しんでいた。