2 古城の姫
死神との再会は、初めて会った夜のように突然訪れた。
初めて会った夜の五日後。
昼食を終えて少々の時間が経過した時。
相変わらずベッドから自力で立ち上がって歩く事は出来ないままではあるものの、調子が良い日が続いていた。ベッド上で大きな枕やクッションを背もたれにして起き上がっている分には以前ほどの苦痛を感じなくなっている。死神に出会う前日まで、ベッド上で起き上がっている事すら辛かった事が嘘のように。
まったく無かった食欲も少しずつ回復して、ゾーイ自身も、両親やキーナ達も喜んだ。
ゾーイはベッド上で上半身を起こしたまま、母から借りた本を読んでいた時、バルコニーに続く硝子扉の付近に気配を感じた。
不思議に思いながら顔を上げてみる。
五日前の夜に出会った死神が、静かに硝子扉の前に佇んでいた。
あの時と同じ、漆黒のマントとフードで身体を全て覆い隠し、鼻先までも黒の仮面で覆われて顔を隠している姿。
色素のとても薄い唇は閉じられていて、明るい昼間のおかげでほんのわずかに見える口元の肌色は、マントと仮面の存在もあるせいか、とても白っぽく感じられた。
「あなたは、あの時の死神さん?」
また会いたい、と、おぼろ気な記憶ではあるものの伝えていたのは間違い無い。
本当に姿を見せてくれた事に驚きつつ、ゾーイは本を閉じながら声をかけるが、死神は動く事も話す事も無かった。ただゾーイの方に顔と身体を向けて佇み続けている。二人の距離も遠いままだ。
「姿を見せてくれて嬉しいわ。この五日間はどこにいたの?」
「……」
「もしかして死後世界?」
「……」
「あっ。それとも、透明な姿のまま本当はずっとこの部屋に?」
「よく喋る口だな」
やっと開かれた死神の口からは、少しばかり呆れたような言葉がハッキリと放たれた。返事をもらえてますます嬉しくなったゾーイが「うるさい?」と笑いながら尋ねると、今度こそ死神はわずかに唇を歪ませた。
「うるさい対象者だと思っている」
「対象者って呼ばれるのは悲しいわ。ゾーイと呼んで欲しいのだけど」
「……」
「対象者は名前で呼べない事情があるの?」
「少し黙ってくれないか」
「えぇ?」
ひどいわね、と言いながらもゾーイはまったくひどいとは思わなかった。ふふ、と小さく肩を震わせながら笑い続けてしまう。病に冒されて月日が経つほどに声を出す事も辛くなっていて、ゾーイの声は決して大きくは無い。むしろとても小さく、弱々しく、どんなにお喋りをしたくても疲れやすくなってしまっていた。
しかし今はやはり調子が良い。
声は相変わらず小さいものの、喋り続ける事に困難は感じない。
死神にどんな事情があるのかは分からない。
きっと姿を見せないまま無視し続けて静観する事も出来る筈なのに、こうして姿を見せて会話してくれている事実が嬉しい。楽しくも感じていた。また会いたい、という希望を叶えてくれた彼は優しい死神なのかしら、と単純に考えてしまってもいる。
ひとまず死神の言うとおりに口を閉じて、ゾーイはもう一度本を読み始める事にした。本当はもっと会話したいが、あまりしつこくして嫌われてしまうのは嫌だった。
天気の良い日だ。
夏が近づく季節。陽射しが煌々とゾーイの寝室を照らしている。
死神は暑さは全く感じていないのか、容赦なく陽射しが照りつける硝子扉の前から一歩も動かない。仮面に開いた二つの小さな穴。その穴の奥にある瞳は、確かにゾーイを見つめ続けている。知らない人からじろじろと眺められ続けていたら不快に感じる筈だ。しかしやはり不思議と、ゾーイは死神に見つめられてもまったく嫌だとは思わなかった。
何も話さない静かな時間は、しばしの間続いた。
「なぜだ」
やっと口を開いた死神の言葉に、ゾーイは顔をあげて死神を見つめた。
「なぜ? 何が?」
「……」
「死神さん?」
「……やはり、分からない」
なぜ、分からない、という死神の言葉の全ての意味がゾーイには分からない。会話もまったく成立していない。
ゾーイは少々考えて、本を閉じてサイドテーブルに置くと、そのまま右手でサイドテーブルの奥に置いてある背もたれのある椅子を指差した。キーナや両親が話し相手をしてくれる時に、彼女達が座る椅子だ。
「死神さん? そんな所に立ちっぱなしではなくて、こちらに来て座ってほしいわ。お話するにしても、遠すぎて気になってしまって」
「私を相手にずっと喋り倒すつもりか」
「あ、分かりますか? 私は死神さんとお話がしたいの」
この時に扉がノックされて、ゾーイは死神に向けていた視線を扉へと向けた。入っても良いかしら、と問いかけるのは母の声だった。
「あの、母が――え?」
死神がいる部屋に、母に入室してもらっても大丈夫なのだろうか。見られてしまったとして、彼は困らないのだろうか? 母はきっと大騒ぎしてしまう。
問いかけながらもう一度死神に視線を向けると、硝子扉の前にいたはずの死神はそこにはいなくなっていた。サイドテーブルと椅子の置いてある扉側とは反対側のベッドの傍まで、音も無く接近していた。
突如近くに現われた死神に驚き、ゾーイはまじまじと彼を見上げた。
深く被ったフードに隠された、目元を覆うようにつけられた仮面に開けられた二つの小さな穴は、ゾーイではなく寝室の扉へと向けられている。
「入室させれば良い」
「でも、母はあなたを見て驚いちゃう」
「私の姿は誰にも見えない」
「見えない? 私には見えているのに?」
「それがおかしいんだ。本来ならばあり得ない。母親には私の姿は見えない。普通に話せば良い」
本当に大丈夫なのだろうか。
ゾーイは心配しつつも「どうぞ」と声をかけると、新聞を片手に抱えて母が入室してくる。ゾーイの顔を見るとホッとしたように笑顔を見せた。
「昼食も半分食べる事が出来たとキーナから聞いたわ。顔色が良さそうね。少し話す元気はある?」
「平気よ。今もとっても調子が良いの」
「あぁ、良かった!」
母は明るく笑って、ゾーイのいるベッド傍にある椅子をひくと腰掛けた。
ゾーイは一瞬だけ、ちらりと横目で死神が立っている場所を確認する。視界の端ギリギリに死神の漆黒のマントが映った。気配も確かに感じる。死神は姿を消すこと無くこの場にいる。しかし母はまったく気付いていない様子だ。
ゾーイは少しだけ緊張していた。
母は本当に気付いていないのだろうか?
「お母様、何か気配を感じない?」
「気配?」
「何かこう、黒い物体の――」
「黒い物体? あらやだっ、何か小動物か虫でも入り込んだの? どの辺り? 私が捕まえて外に逃がしておくわよ」
すっかり虫を捕まえる気満々になった母はブラウスの袖をまくり上げ始めて、ゾーイは慌てて顔を左右に振った。
大自然に囲まれた中にある歴史あるコーイック城。虫が入り込むのは日常的な事で、小さなものや害のないものは見て見ぬふりをするのがクシュケット子爵家と使用人達の日常だ。そして全員、どんな虫が現れても慌てふためく者はいない。しかしあまりに大きなものや、羽音がうるさかったり害になるものは、容赦なく捕まえて外へと逃がすのも日常だ。小動物が入り込むことは滅多にないが、忘れた頃にひょっこり現われるため油断出来ない。
「私の勘違いだったみたい! 今は何も感じないわ」
「気になるようだったらキーナ達に今すぐ知らせるわよ?」
「もう平気。それより、何か面白い記事があったの?」
「そう、新聞! ゾーイに読んでもらいたい記事があるのよ」
ゾーイが読みやすいように、母は足の上にかけている掛布の上に新聞を広げて置いてくれる。
広げられた新聞はゴシップ紙だ。
王家、社交界、貴族社会についての、真実か嘘かも定かではない事を面白可笑しく記事にする事で有名なゴシップ紙を父は特に嫌っている。しかし母が、特に女性同士の社交の場ではこのゴシップ紙が役立つ場面が多いのよ! と力強く説得して、必要ならば……と渋々父が購読を許した経緯があった事もゾーイは知っていた。
ここよ、と母が示した箇所の記事はあまり大きなものではない。注目度としてはそれ程高くはないのだろう。
ゆっくりと読み進めたゾーイは、思わず息を呑んで驚いてしまった。そしてすぐに複雑な感情になってしまい、表情はどうしても浮かないものになってしまう。母の表情をうかがってみると、母も明らかに落胆していた。
――二大名城の一つオースホート城の管理家ベスティリ侯爵家の若き当主。古城の王子ハルク・ベスティリ卿。今回で三度目となる婚約の破談が確定。
古城の王子……破談……ハルク様。
ゾーイは彼の事をよく知っている。
二大名城の一つを管理する貴族同士として、クシュケット子爵家とベスティリ侯爵家は大昔から交流があるからだ。
ベスティリ侯爵家が管理居住するオースホート城は国の最西端で海のそばに、クシュケット子爵家が管理居住するコーイック城は国の最東端の山の中にある。それぞれに管理者としての務めの関係もあり長期間も城を離れる事は出来ず、実際に対面しての交流は年に一回、社交界シーズンで訪れる王城だけではあったが、頻繁に当主同士は手紙のやり取りもしていた。
現在の当主ハルクは二十四歳になったばかり。ゾーイとは五歳の年の差がある。ハルクの父親である先代当主は病で死去し、彼が侯爵を継いで四年が経っていた。
ゾーイにとってハルクは、物腰柔らかな温和な優しい親戚のお兄さんのような存在だ。
とくにまだ幼かった頃。年に一度、互いの両親が王城での社交に勤しんでいた時。王城の控えの広間で両親の帰りを待っていた時、必ず遊び相手をしてくれたのがハルクだ。ハルクもゾーイと同様に兄弟がいない。両家同士が古城の居住管理貴族という共通点があり古くから交流があったため、二人の関係に血のつながりは無いが親戚のような関係にあった。
「破談に関しては正直気にしていないのよ。ゾーイにも分かるでしょう?」
「城の管理居住の問題? オースホート城も街からは遠いし、コーイック城よりもさらに築年数も経過しているから、暮らしそのものが大変ってハルク様から聞いているわ。やっぱり難航しているのね」
「普通の貴族のお嬢様が暮らすにはとても厳しいのが現実ね。婚約がまとまりかけても、直前になってやはり無理と破談になってしまうみたい。でも、ベスティリ卿は焦らずにこれからも慎重に結婚については考えていくそうよ。それにしても、ここ。古城の王子! 酷い皮肉だわ!」
母の言葉にゾーイも大きく頷いた。
ハルクだけがこのように書かれてしまうのではない。
ゾーイも、病に冒されてしまい社交界デビューを果たすことが不可能な身になり、古城の姫と書かれてしまった過去がある。影響力は大きく、社交界での噂話でハルクは古城の王子、ゾーイは古城の姫という言葉が悪い意味合いであっという間に広まり浸透してしまった事実に、両親は憤慨していた。
古城の王子、古城の姫。
このゴシップ紙の書く古城はボロ城を意味している。
ボロ城の維持管理に莫大な金をかけているこの国はなんと愚かな、嘆かわしい、とまで書いた過去を持つ新聞社の記事なのだ。
「古城の王子……」
「!」
ゾーイは両肩をわずかに跳ねさせて、頭上から降ってきた声の主を見上げた。母がいる場所とは反対側のベッド側に立つ死神は、ゾーイ達と同じようにどうやら新聞を眺めていたらしい。死神の呟きはゾーイの耳がしっかりと拾っていた。
母に聞こえてしまっていたら、とんでもない騒ぎになってしまう。
「ゾーイ? どうしたの?」
突然、表情を曇らせながら反対側の天井を見上げるように顔を動かしたゾーイに、母は心配そうに新聞を畳んでサイドテーブルに置いた。母には死神の姿は見えておらず声も聞こえていないのだという事実を、この時ゾーイは初めて確信した。
「ごめんね、お母様がうるさくしてしまったから。頭が痛い?」
「い、いいえ! 何か物音が聞こえたような気がしたんだけど、空耳だったみたい」
「さっきも黒い物体の気配がすると言っていたわね。だいぶ元気そうだと思っていたけど、こういう話はもう少しゾーイの体調が落ち着いてからにすべきだったわ。ほら、横になりなさい」
母は問答無用でゾーイの身体を横にすると、しっかりと掛布を引き上げてかけてくれる。もう一眠りしなさい、また夜に様子を見に来るわね、と額にキスをくれた母は不安そうに微笑むと、新聞を手に寝室から退出した。
母の足音が遠くなり、寝室からは廊下の物音が一切聞こえなくなった事を確認してから、ゾーイは身体を横にした頭を枕に沈めたまま、すぐそばに立つ死神を見上げた。意外にも先に口を開いたのは彼だった。
「古城の王子という言葉の何に憤る理由があったんだ」
「あれは、あの新聞社が書いたことによって浸透してしまった事実が問題なの。確かに古城だけど、だいぶ昔にオースホート城もコーイック城もただのボロ城、金泥棒と酷く書かれた事があって。古城という言葉が公に使われる時は、皮肉か悪意のどちらかが込められるようになってしまったの」
「……」
「私はオースホート城に行ったことは一度も無いのだけど、海沿いに建つお城は荘厳で息を呑む美しさって評判のお城よ」
「古城の王子、古城の姫か。言葉そのものは悪い言葉ではないだろう」
ゾーイは目を丸くした。
悪い言葉ではない、と言いきる死神の言葉には嫌味も悪意も何も感じられない。
「オースホート城とやらは知らない。だが、このコーイック城は美しいと私は思う。君はこの美しい古城を管理しているクシュケット子爵家唯一の姫君。古城の姫は事実だ」
「死神さん」
「なんだ」
「私、今、死神さんの事がとっても好きになってしまったわ」
しみじみと感動して答えたら、死神は「え?」とわずかに口を小さく開いたと同時に、ゾーイが一度瞬きした瞬間にはベッドそばではなく硝子扉の前まで瞬間的に移動してしまっていた。
「どうしてそんなに離れてしまうの?」
「君が。おかしな事を言うからだ」
「この城を、死神さんが美しいと思ってくれていた事が嬉しかったの。ありがとう」
死神は硝子扉の前で立ち尽くしたまま、何も返事はしなかった。深く被ったフードと仮面の下の表情は当然ゾーイには分からない。口を閉じて、静かにこちらに顔を向ける死神の姿だけが視界にある。
「さっきもお願いしたけれど、ゾーイ、とはやっぱり呼んでくれない?」
「……姫」
「姫?」
「姫と呼ぶ事にした」
「え!? 姫はやめて! は、恥ずかしいわ」
「私の姿は姫以外には誰も見られず、言葉も聞かれない。恥ずかしく思う必要はない」
「そんな事を言われても、恥ずかしいものは恥ずかしいの」
「……」
「無視しないで! 意地悪ね!?」
完全に照れてしまったゾーイが、顔中を真っ赤にさせながら抗議するが、横を向いて黙り込む死神の態度はとても素っ気ない。姫、と呼ぶことを決めてしまったらしい。
対象者と呼ばれるよりは良いはず、とゾーイは何度も納得しようとしたが、それでもやはり気恥ずかしさが勝ってしまう。ねぇお願い、ゾーイと呼んで、と頼んでも、死神は頑なに姫呼びをやめようとはしなかったため、結局は諦めて受け入れる事にした。




