16 ◆手紙
陽が昇っている時間に突然倒れて眠り続ける事なく、起きたまま夜を迎える事ができるようになった時には、十七歳になっていた。
アルフレッドは焦っていた。
事故から既に七年。
明るい時間に活動して夜には眠るという生活を支障なく過ごす事が出来るようになるまで、七年の月日がかかってしまうとは予想していなかった。今だって完璧という訳では無い。頭を取ってしまいたくなるほどの激しい頭痛は、毎日ではないが突然にやってくる。しかし、良くも悪くも慣れてしまった。一定の痛みまでは耐えて生活が出来るようになっている。
十六歳を迎えた昨年に成人したが、やはり身体の調子が安定せず、社交界への参加も叶わなかった。
勉学、社交界マナーとダンスの習得、著しく落ちたままの体力向上。
様々な遅れを取り戻すために多忙な時間を過ごしていた。
季節は初夏を迎えている。
スミナリア国は社交界のオフシーズンで、大半の貴族達は領地で過ごすが、避暑地に赴いて過ごし始める貴族もいる。ヘデン伯爵家も基本は領地で過ごすが、交流のあるベスティリ侯爵家のオースホート城で過ごすのもこの時期だった。
この年も両親と兄はオースホート城へと向かったが、事故があった翌年からはずっと、アルフレッドはヘデン伯爵の屋敷に残っている。体調を考慮してという理由もあるが、のんびりと過ごしている暇は一切無いのも現実だ。一年遅れではあるが今年の初秋から始まる社交界からはついに参加する事が決まっている。
準備を進めなければいけなかった。
「手紙?」
今日は朝からダンスの練習が控えていた。
着替えを終え、伸びたままになっている黒髪を一つに結び、レッスン室に向かおうとしたタイミングでやってきた老齢の家令サハトが、銀盆に一枚の封筒を載せて恭しく差し出してくる。しかし、アルフレッドは手紙を受け取るのを躊躇してしまった。
――アルフレッド・ヘデン様
見慣れない美しい筆致は、確かにアルフレッド宛である事を示している。
「両親でも兄さんでもなく、俺宛てなんだな」
「アルフレッド様宛にございます」
成人したものの社交界には一度も顔を出しておらず、私的な手紙を交わす相手はまだ誰もいない。たまに手紙が来たとしても親戚からが大半だ。怪訝に思いながらも手紙を受け取り、読んでからレッスン室に向かうと伝言をサハトに頼んで退出させた。
早速封を切りながら、差出人の名を確認した。
――あなたの親友、ゾーイ・クシュケット
咄嗟にもう一度宛名を確認してしまう。
本来ならばジークレッド・ヘデンと書かれていなければならない場所にはアルフレッド・ヘデンと書かれている。
王城に一度も行った事がないまま現在に至っている。
当然、ゾーイにも会った事がない。
初めて兄がゾーイと出会った年から、兄は毎年のように五日間は必ず王城で過ごすようになっていた。
兄は二年前には成人したが、社交場はほどほどに上手く両親の目を欺きながら、限られた数分間ではあるもののゾーイに挨拶へ向かう時間も確保する程に親しくなっていると嬉々として報告された時は返す言葉も無くしたものだ。
『ゾーイ嬢は兄さんの運命の人なんじゃないか?』
『あり得ない。お前だよ。早く会って欲しいんだ。彼女もお前に会いたがってる』
『……運命の人の話はしていないんだな?』
『言ったところで信じて貰えるとは思えないからなぁ』
『当たり前だ。絶対に言わない方が良い』
『まだ疑ってるのか? お前はいい加減信じろよ!』
昨年の兄との会話を思い出すだけで頭痛が起こりそうになってしまう。
兄は今も、ゾーイ・クシュケットこそが弟が必要としている運命の人だと信じ続けている。しかしアルフレッドからしたら、勝手に都合良く思い込んで執着しているようにしか見えない。
一体いつ、どのようなきっかけがあれば、兄の執着がゾーイから解放される日が来るのだろう。
手紙を持ったまま天井を見上げる。
しかし、読むのを躊躇う必要はない、と結論づけた。
あの兄と親しくなれるご令嬢だ。
兄から聞くゾーイというお嬢様は、活発で明るく、楽しい事が大好きで好奇心旺盛な性格という印象がある。兄は毎年のように「お前のことは必ず話しているし、彼女もお前に強い関心があるぞ」と言っていた。今秋の社交界で初めて対面する機会がある。対面を前に、ちょっとした愉快な挨拶のつもりで、この手紙を送ってきたのかもしれない。
*
「やっぱりお前宛てにも届いていたか。オースホート城に滞在していた時にハルク宛てにも彼女から手紙が届いたんだ。ハルクから聞いてる。内容もほとんど同じだな」
兄が両親と共にオースホート城から帰宅した日の夜。
兄の私室のソファにテーブルを挟んで向かい合って座り、アルフレッド宛に届いたゾーイからの手紙に冷静に目を通す兄を、アルフレッドは静かに怒りを込めて見つめた。
正確には睨んでいた。
手紙には、ゾーイの病について書かれていた。
昨年の社交界が終わったと同時に体調を崩しがちになり、なかなか回復せず、緩やかだが悪化し続けている。原因も治療法も分からない。回復するのかも分からないという現状が綴られていた。
楽しく過ごした王城での数年間の出来事を懐かしみながらも、きっと回復する奇跡を信じて、また再会してお話する日を楽しみにしています、と。
「親友が大変な病に冒されているというのに、兄さんはやけに冷静だな。てっきり俺の時みたいに取り乱していると思っていた」
「今ここで慌てふためいてもすぐに病が治る訳じゃないだろう?」
「ゾーイ嬢には深く同情している。俺が今苛立っている理由はゾーイ嬢の病が理由じゃない事も分かってるよな?」
「ああ、もちろん。今秋の社交界での対面直前に教えるつもりだったんだ。計画が狂った」
平然と返事をする兄に、腕を組んでいたアルフレッドは無意識に右手に強い力を込めていた。
握る左腕に痛みが走る。
「特別に親しい関係だと思っていた人が、出会ったその日から名も性格も全てを偽っていた。この事実を知った時にゾーイ嬢がどれだけ傷付くか、想像する事も出来ないのか?」
「彼女に言わなければいいだけの話だ」
「本気で言ってるのか?」
「本気だぞ? 俺は完璧にアルフレッド・ヘデンを演じたつもりだ」
「……理解出来ない」
責めるように言葉を絞り出すと、便箋から顔を上げた兄は不敵に笑っていた。
なぜ笑っていられるんだ?
怒りの感情に身体中を満たしていた熱が、不気味さを覚えて急速に冷えていく。
「理解出来ない訳がない。俺は彼女に初めて出会った日からお前に言っただろ? お前が必要としている運命の人はゾーイ嬢だ。彼女との繋がりが必要なのは俺じゃなく、お前なんだよ」
綺麗に折り畳まれ直された便箋を再度差し出され、アルフレッドは兄を睨み続けながらも受け取った。
「お前と俺が顔も体格も双子のように似ていたのは、お前とゾーイ嬢との弱かった繋がりを結びつけて、二人を救うために必要だったからだと思ってる」
「救うだと?」
「誤解するな。俺はな、今まさに病で苦しんでいるゾーイ嬢は必ず快方に向かうと確信しているんだ。だが、彼女を救う事が出来るのは俺じゃない。お前が、迫っている死期から彼女を救い出すんだ」
「――いい加減にしてくれ!」
『運命の人』に纏わる兄との会話は冷静に。
慎重に。
何年も心がけていたが、ついにアルフレッドの辛抱は限界に達していた。
「俺は医者でも魔法使いでもない。無力な人間だ。目を覚ませ。俺にはゾーイ嬢を救う事は出来ない」
「いいや。出来る」
兄は真顔で断言した後、またもにっこりと笑顔を見せてくる。
アルフレッドは愕然として両目を見開き、やがてゆっくりとうつむいた。視界がちかちかと眩む。
まったく伝わらない。兄の思い込みも執着もずっと変わらない。恐らくこの先の未来も、きっと変わらないままなのだろう。
あの時、事故で生死を彷徨う大怪我をしなければ。
自分がこんな状態にならなければ、兄は『運命の人』などとおかしな事を言う人には決してならなかった。
「俺のアルフレッド役は今この瞬間に終わった。次からは俺自身がお前とゾーイ嬢を救うために必要な手助けをする。その手紙には必ず返事を書けよ。お前宛の手紙なんだから」
「断る。兄さんが書け。ゾーイ嬢が親しくしていた相手はアルフレッドではなくジークレッドだったと、正直に告白して謝罪もすべきだ」
「さっきの話をもう忘れたのか? 言うつもりはない。お前が、お前の言葉でゾーイ嬢に手紙を書けば良い」
アルフレッドはソファから立ち上がり、向かい側のソファに座る兄を冷ややかな眼差しで睨んだ。
「分かった。俺が代わりに全てを書いて謝罪しておく」
アルフレッドは足早に扉へと向かう。
ドアノブを握った瞬間に「アルフ」と呼ばれて、背中を向けたまま振り返らずに立ち止まる。兄は言葉を続けた。
「お前は事故にあった日からずっと、使命を果たし続けている。体調不良がその証拠だ。だからこそ、こうして今はほとんど普通に暮らす事が出来ている。今のお前の魂はほとんど回復していると思うが、漆黒の女人の魂もまだ確実に残っていると思う」
「……何度も言っただろう。使命とやらを果たしている記憶は一切ないんだ」
「今はな。この先は分からないぞ? 漆黒の女人は言っていた。お前は俺にも劣らない程の力を持っているらしい。俺はお前を救う事が出来た。お前も必ずゾーイ嬢を救う事が出来る」
もうこれ以上は兄とは何を話しても無駄だと悟る。
アルフレッドは返事をせず、無言のまま兄の私室から退室した。
自室に戻ったアルフレッドはすぐに机に向かった。
便箋とインク、ペンを用意する。書く内容は決まっていて、迷いは無い筈だった。
しかし、手が動かない。
早く書くんだ。真実を。謝罪を。
そう思うと同時に、もう一つの強い思いが、自分の手の動きを封じ込めてしまっている。
原因不明の病に苦しむ日々。
病が回復するかも分からない恐怖の日々。
ゾーイが置かれている現実の心身の苦しみを、すべてとは決して言い切れないが、共感出来てしまう。自分自身が事故による身体の痛み、長年に渡る原因不明の睡眠障害、目眩に嘔吐、頭痛に悩まされて日常生活が困難だった日々を送っていた。回復を信じて決して諦めなかったが、それでも、あまりの辛さに絶望しそうになった瞬間も少なからずあった。
親しい友だと思っていた人に、出会ったその瞬間から理解不能な理由で嘘をつかれ、裏切られていたと知ってしまったら。どれだけの衝撃と怒り、悲しみを受けて、心を深く傷つけてしまう事になる? 今、謝罪をしても、隠し事が無くなるという理由で気が晴れるのは自分だけ。
ゾーイは違う。
身体だけではなく心にまでさらに深い傷を負ってしまったゾーイが、そのまま病に蝕まれ続けてしまったら――
アルフレッドはペンを一度机上に置き、椅子の背もたれに背中を全て預けた。深く息を吸い込んで、一気に吐き出す。しばらくそのまま静かに呼吸を繰り返して冷静に努めた後、もう一度机に向かってペンを握り直した。
――王城で会えなくなるのならば、こうして手紙の交換を続ける事は出来ないだろうか? 俺はそうしたい。君が愛してやまないコーイック城で過ごす日々、感じた事を、どんな小さな事でも知りたいと思う。俺も、俺自身の事をゾーイ嬢に伝え続けたい。距離は遠く離れているが心はそばに。また、再会出来る日が来る事を願っている。
会った事もない子爵令嬢が相手だが、まったくの他人とは、どうしても思えない。関わりのない他人だ、と切り捨てて考える事は出来なくなっていた。ゾーイが冒されている病からの回復を願う強い思いが決断を促す。アルフレッドは覚悟を決めた。
嘘をつき続けるのは兄の願いを叶える為では無い。
アルフレッド自身が考えた上での決断だ。
もしも嘘が嘘だと気付かれてしまったとしたら、それはゾーイが病から回復して再会が果たされた時。喜ばしい時だ。どんなに双子のように外見は同じで兄が完璧に演じたと言い切っても、雰囲気や口調など、誤魔化しが効かない部分は沢山ある。嘘が明かされた時はゾーイが傷つくだけではなく、深い親交はないとはいえ、クシュケット子爵家からのヘデン伯爵家の信用や信頼は失墜する暗い未来が待っている。
だが、報いを受けなければいけない。
事故の日以来変わってしまった兄のおかしな言動を、全力で止めようとはしなかった自分には大きな責任がある。
嘘ひとつを貫き通す事で、ゾーイが心に負うはずだった深い傷を、今は回避できる。手紙だけならば、兄が演じていたアルフレッドをそのまま貫き通す事が出来る。自分から聞かなくても、兄はゾーイと過ごした王城での出来事や様子などをいつも事細やかに言っていたが、その内容はほとんど覚えていた。
今はただ回復を願い、祈りながら、アルフレッドは慎重にペンを動かし続けていた。