15 ◆ヘデン兄弟
――*◆*
「現在の俺が結婚を望む理由は、ゾーイ嬢が好きだからです」
驚愕の表情を浮かべているハルクを視界に捉えながら、アルフレッドは「失礼します」と一礼してハルクの書斎を退室した。
オースホート城、灯りのない薄暗い廊下。
城内に灯りを点けるようにと指示を出すため、使用人控え室へ向かって早足で歩きながら、ハルクから伝えられた言葉を思い返す。両手は自然と強く拳を作っていた。
――アルフとゾーイを結婚させて欲しいと正式に申し込み、今は返事を待っている最中だそうだ。
話を聞く前から既に、アルフレッドは全てを知っていた。
ゾーイ本人から聞かされていたのだから。
※
十歳の頃、馬車の滑落事故に巻き込まれた日をきっかけに、アルフレッドの生活は何もかもが悪い方へと一変した。
身体中だけではなく頭も強打し、大怪我をした。
近くの街で治療を受けて安静に過ごた後はヘデン伯爵家の屋敷に戻り、そのまま養生していたが、一定時間起き上がった状態で家族とまともに会話が出来るようになるには約一カ月もの日数がかかった。
兄とは顔も背格好も声も、全てが双子のように似ている。見分けがつかない兄弟だとよく言われているが、口調や性格、思考はまったく違った。しかし、口を開けば言い争いになりがちではあるが仲直りは早かった。兄の事が好きだったし、どちらかといえば慎重な性格の自分とは違い、大胆で行動力のある兄が羨ましくもあり憧れを抱いている。物心がついた時には既に世話役として仕えてくれていたルイも、特別な使用人の一人に違いなかった。
ベッド上ではあるがやっと面会許可が与えられ、一ヶ月ぶりに部屋に来訪してくれた兄と再会したアルフレッドは言葉を無くした。兄には目立つような傷も無く、足取りもしっかりとしているのだが、一目でも分かるほどに憔悴していたからだ。
「どうしたんだよ、兄さん。今にも倒れそうだ」
「お前は自分の心配をした方が良い」
ベッド脇に置かれた椅子に座った兄は、滑落事故の時に兄とアルフレッドの身に起こった出来事を語った。
『魂を導く者』と名乗った漆黒の女人。
自分達の世界では『死神』と呼ぶに近しい存在だが、彼等は人間を呪い殺したりはしない。
漆黒の女人によって死後世界に連れて行かれそうになった自分の魂は、兄の説得によって、この世に繋ぎ止められる事になった。今生きている魂の半分は、自分のモノではなく、死期を迎えた人間の魂を死後世界へ導く使命を持つ漆黒の女人の魂だと言う。
「アルフが今生きていられているのは、死神の女の人の魂がお前に宿って、その魂の力に生かされているからなんだ。女の人の魂には使命があって、使命を抱える魂を宿したお前も、生き続けるためには使命を果たさなきゃいけなくなったんだ」
「……変な冗談を本当みたいに話さないでくれよ」
「冗談……!? 本当だ! 真剣に聞けよ!」
生死を彷徨い、やっと対面を果たす事が出来たにも関わらず、兄は自分をからかおうとしている。
呆れと困惑を半々に返事をすると、兄は明らかに怒り、厳しい声を発した。冗談や都合の悪い事を指摘された時の気まずそうな様子は一切見受けられない。怒りは本気だと気付き、アルフレッドは口を閉ざした。
いつまで使命を果たし続ける必要があるのかは俺にも分からない、と、兄は悔しげに唇を白くするほど噛みしめる。
使命を果たしている最中は、意識を失ったり、具合が悪くなったりする可能性が高い。
いくら怪我が治って身体が回復したとしても、以前のような日常生活を送る事は困難になる程に支障が出る。ただ、使命を果たし続けていくうちに自分自身の魂が少しずつ回復し、意識を手放す時間も確実に短くなっていく。どれ程の年月がかかるかは分からないが、いずれは使命を果たしながらも自分の意識は維持する事も可能になり、完全に魂が回復した時は、使命を果たす役割も終わる。
熱心な兄の説明をアルフレッドは静聴していたが、内心は到底信じられる筈も無かった。嘆いていた。
事故の衝撃のせいで、兄が変な事を言うようになってしまっている。
「お前はとにかく、まともに動けるようになるまでは使命をやり遂げて、自分の魂の回復に専念しろ。代わりに俺が絶対に探し出してやるから」
「探すって、何を?」
「お前の運命の人」
アルフレッドは目眩を起こしそうになった。
死ぬはずだった自分が生きながらえた事により、自分が必要としている運命の人の死期にも大きな影響が出るという。
漆黒の女の人の言葉によると、自分はそもそも、自分が必要としている運命の人との繋がりはとても薄かった。本来の死期通りに命を失っていたら、絶対に交わる運命ではなかったらしい。しかし、死期は変わり自分は生きている。自分にとっての運命の人の魂にも大きな影響が及ぼされるが、良い影響なのか、悪い影響なのかは一切分からない。
良い影響ならば、それで良い。
しかし悪い影響だった時には、自分も、自分の運命の人も、生きていても深く苦しむ何かが起こりうるかもしれない。
兄は強く懸念していた。
「……俺の運命の人を探し出して、兄さんはどうするつもりなんだ?」
「友達になる! 親友って呼べる位に仲良くなったら、何かあった時にすぐに助けられるだろう? お前の運命の人となら、俺だって絶対に仲良くなれるはずだ!」
「……友達に……」
兄さんが馬鹿すぎる。
声に出したら倍以上に無茶苦茶に言い返され、さらにまともな会話は不可能になる。アルフレッドは何も言い返さずに内心で毒づいた。
運命の人は男かも女かも分からない。年齢も身分も分からない。
とてつもなく年上の老人だったら?
まだ生まれてすらもいなかったら?
身分が貴族ではなく、ヘデン伯爵領の領民でもなかったとしたら、出会う可能性は無きに等しくなる。だからこそ最初から縁が薄かったという可能性に、なぜ兄は思い至らないのだろう。
運命の人という言葉そのものもが、アルフレッドにとっては胡散臭く思えていた。
運命なんてものは、本当にあるのか?
「何も心配するなよ。俺がついてる。お前も、お前の運命の人も、俺が絶対に助けてやる!」
優れない顔色のまま、それでもニカッと明るく笑う兄の両手にぐしゃぐしゃと髪を掻き乱される。
やめろよ! と抵抗しながら、歯がゆい思いを感じてしまう。
無茶苦茶で思い込みが激しく、猪突猛進。自由奔放で、気になる事に対してはすぐに行動しなければ気が済まない。勝手で、面倒くさい兄は、きっと遠くはない未来に大きな厄介事を引き起こしてしまうのかもしれない。
それでも、家族想いの兄の事は好きなのだ。
*
兄の言葉は一切信じていなかった。
時間が経てば怪我は完治し、またすぐに普段の生活に戻るものだと思っていた。
しかし、自分の身体にも頭にも、原因不明の何かが容赦なく襲ってくる日々は無情にも続いたままだった。
「……――っ!」
長い眠りから目覚めて起き上がった途端に吐き気が込み上げる。片手で口を押さえたが耐える事は出来なかった。ベッド脇にあるサイドテーブルに置いてある洗面器を奪い取るように手にとって、そのまま盛大に嘔吐した。
事故から二年が経過し、アルフレッドは十二歳になった。
頭と身体の怪我はとっくに完治しているにも関わらず、ほとんど屋敷から出る事が出来ずにいる。
身体に痛みもなく目眩が起こる訳でも無い。しかし突然、何の予兆もなく意識を失って倒れてしまい、そのまま深く長く眠り続けてしまう事が、事故の日をきっかけに途切れる事なく続いていた。太陽が昇っている間ずっと起き続けている事が出来ない。一度眠ってしまうと夢を見る事もなく半日近く眠り続けてしまう。目覚めた時には倦怠感と頭痛が必ずつきまとい、さらに酷いと吐き気まである。
勉強の課題をこなす事も、満足に身体を動かす事も出来ない。
ベッド上でばかり時間を過ごすアルフレッドの体力は衰える一方だった。
よろよろと、力の入らない手で精一杯呼び鈴の紐を引っぱる。
すぐに駆けつけてくれたのはアルフレッドが生まれるよりも前からヘデン伯爵家に務めている五十代メイドのエリーだ。また吐いて汚した、ごめん――アルフレッドが暗い顔でぽつりと掠れ声で言うと、エリーは悲しそうな顔でアルフレッドの背中を擦った。
水が入ったグラスを受け取り、アルフレッドは扉の奥の廊下を見つめる。
呼び鈴を鳴らしたら、いつも使用人と共にすぐに駆けつけて来る筈の兄が、今日はいつまで経ってもやって来ない。勉強中や外出中ならば分かるが今は真夜中だ。
使用人室に繋がっている呼び鈴の音をなぜか耳聡く聞きつけ、寝室を脱走してすっ飛んでくるお節介焼きの兄が来ない訳がない。背筋に悪寒が走った。
兄は一体何をしているんだろう。
「兄さんはもう寝てるのか?」
「あら、聞いておりませんでしたか? 行くと決まったのも急でしたからね。ジークレッド様でしたら王都に向かわれました」
「王都? ……まさか、王城舞踏会? どうして王城で過ごす事になったんだ? いつもなら屋敷で留守番のはずだ」
「何でも、新しくご友人を作りたいとご主人様にお願いされたそうですよ。ご主人様と奥さまとご一緒に向かわれました。ジークレッド様でしたらきっとすぐに新しいご友人も出来て、親しくされるのでしょうねぇ」
エリーの言葉通り、しばらく兄は姿を見せなかった。
両親のみ王都に残り、一足早く兄が屋敷に帰宅したのは三週間後の事だった。
勢いよく乱暴に寝室の扉が開かれ、大きな音をたてて壁にぶつかる。暗い室内で頭痛と闘いながらベッド上で横になっていたアルフレッドは驚いて飛び起きた。途端に頭の重さに視界がぐらつき、右手で押さえた。
「何……うるさいな……」
「アルフ! 見つけたぞ!」
今度は乱暴に扉を閉めた兄は興奮していた。
息を荒げたままベッドへと駆け寄ってくる。燭台をサイドテーブルに置き、そのまま両手で肩を力強く掴まれた。
「間違い無い! 彼女が、おまえが必要としている運命の人なんだ!」
兄はずっと、アルフレッドが必要としている運命の人探しを続けていた。もうやめよう、見つかる訳がないと、この二年間に何度も言い続けたが、兄は運命の人探しを決してやめようとしなかった。
わざわざ王城にまで探しに行っていたとは。
「落ち着けって。彼女って一体、」
「ゾーイ・クシュケット! コーイック城管理貴族のクシュケット子爵令嬢だ! 間違いない! 彼女がお前にとっての運命の人だ!」
「……どうして俺の運命の人だって確信出来るんだよ」
なぜ兄が、弟の運命の人が分かると言い切れるんだ。
胡乱げに兄を見つめながら問うと、兄はよくぞ聞いてくれた! と言わんばかりに瞳を煌めかせた。
「彼女を一目見た瞬間に見えたんだよ。お前の姿が!」
「俺の姿?」
「ああ! 彼女とお前が並んでる姿が自然に浮かんできたんだ。しかもな、ものすごく幸せそうだったんだ!」
「……へー……ああ、そう」
「信じてないな!? 本当だぞ!? 本当に見えたんだって!」
「分かった、分かったから! 大声出さないでくれ、頭が痛いんだ」
ゾーイ・クシュケット子爵令嬢の存在は知っている。
ヘデン伯爵家とクシュケット子爵家の交流はない。
しかし、家族ぐるみの付き合いがあるベスティリ侯爵家が、二大名城の管理貴族という唯一の同じ立場にあるクシュケット子爵家と古くから親しく交流している事実を、ベスティリ侯爵子息のハルクから話には聞いていた。年齢差があり血縁関係もないが、ゾーイという女の子の存在を、自分の親類のように親しみがあると語っていた。
社交界シーズンの始まりを告げる王城舞踏会。
五日連続で行われる王城舞踏会の時に、王城の『控えの広間』で、必ずハルクはゾーイと遊んで過ごすと言っていた。兄はハルクを介してゾーイと知り合ったのだろう。
ベッドから降りて脇に置いてある椅子に座るように兄に促した後、上半身を起こしている事も辛い状態だったアルフレッドはもう一度横になった。
「友達にはなれた?」
運命の人かどうかの興味は無かった。
兄が勝手に思い込んでいる。収まらない頭痛もあり、もう好きにすればいい、と半ば思考は投げやりになっていた。
しかし、運命の人を見つけたら親友になりたい、と兄はずっと言い続けていた。兄の思い込みによって運命の人扱いをされてしまっているゾーイという女の子と、当初の思惑通りに親しくなれたのかを尋ねると、兄は大きくうなずいた。
「当然! 俺を誰だと思ってる?」
「……さすが兄さん。良かったね」
意外と面倒見は良く、明るい兄ならば、エリーの言うとおりすぐに仲良くなれたのだろう。
それにしても頭が痛い。起きているのが辛い。
瞼を閉じたら、頭に心地良い重みを感じた。すぐそばで座っている兄が髪を撫でてくれている事は分かったが、何も反応する事が出来なかった。
「辛いよな。でも絶対に良くなる日がくる。俺を信じろ」
兄が実際に言っていたのか、久しぶりに夢を見ただけなのか。
アルフレッドには分からなかった。