魂を導く者
*◆*――
死者の魂を死後世界へ導く役目を果たすために、自分はここに在る。
『天』が作り出した存在の『魂を導く者』。
人間達は『魂を導く者』の存在を『死神』と呼び、恐れている事実を、死神の男はいつからとも思い出す事も出来ないほどの以前から知っていた。
もう何人目なのかも分からない。
今日も死神は、また一人、死者の魂を生後世界へと導いていく。
ふわふわと境界の暗闇を漂う、淡く白っぽく発光する死者の魂が、死後世界へと続くために開かれている扉の先へと向かっていく。扉の先は死者の魂と同じように淡い光に満ちあふれていた。吸い込まれていくように、魂はどんどんと小さくなっていく。
ついに魂は見えなくなり、扉は固く閉じられた。
扉が閉じられた事により、境界の暗闇は一層濃くなった。
死神の青年は閉じられた扉の前に跪いて深く頭を垂れた。脳内へと流れてくる『天』の声、次に己が導く必要のある対象者達の名を聞くために。
近いうちに死期を迎える人間の名の情報が大量に流れ込んでくる。
その中の一人に、ゾーイ・クシュケットという人間の女性の名があった。
――ゾーイ……?
「……?」
『天』の声とは明らかに違う声。
何者かも分からない男が「ゾーイ?」と呼ぶ声が聞こえたような気がしたが、死神はすぐに気のせいだと思い、深く意識を向ける事はしなかった。
やがて死神は立ち上がる。
次なる対象者達の近づく死期を静観し、死後世界に導くために、人間達の生きる世界へと向かった。
*
「私、今、死神さんの事がとっても好きになってしまったわ」
小さな顔は血色感の無い青白さが際立ち、薄い唇も乾燥している。胸元には届かない程の長さの淡い金髪も潤いや張りが無く、厚手の夜着に包まれた細く華奢な身体から見える首、腕と手も、全てが細く骨張っている。
今にも朽ちて消えてしまいそうな対象者。
ゾーイ・クシュケットは、薄青色の大きな瞳を輝かせながらしみじみと感動した様子で、死神にとっては理解不能な言葉を唐突に放った。
柄にもなく驚き、言葉にし難い熱い何かが全身を駆け巡る感覚が急激に湧き起こり、死神は咄嗟にゾーイから距離を取っていた。
この対象者は一体、何者なんだ?
輝く瞳でこちらを見つめて、身体が辛いのにも関わらず、好奇心を隠さずに会話をしたいとせがんでくる。人間にとって『死神』は恐れられている筈だが、ゾーイは最初から過剰に驚くことも怯える様子もなく、簡単に受け入れてしまっている。
散々驚かされるばかりだったが、名前で呼んで欲しいと頼んでくる対象者を『姫』と呼ぶ事に決めたと伝えると、顔中を真っ赤に染めて恥ずかしがる姿に溜飲が下がっていった。
姿を見られ、会話が成立してしまっている。
初めて目が合った瞬間から、彼女の命は風前の灯火である事実は『天』の言葉通りで間違い無いと悟った。
しかし、彼女の瞳は最初から輝いていた。
対象者に共通して見られる『瞳の濁り』が、なぜか彼女には見受けられない。死期が迫っているにも関わらず生命力に溢れて煌めき、死神が今までどの対象者からも感じ取った事の無い『熱』を放っている。接近すると苦痛を感じてしまう程の熱を。
なぜだ? 考えても明確な答えは見つけられない。
疑問は声にも出てしまう事があり、「何が?」と不思議そうな表情を浮かべるゾーイの姿に、死神は言葉に出来ない燻った感情を募らせながらも目が離せなかった。
死に向かう対象者を静観し、その時を迎えたら魂を死後世界へと導く。己に与えられている使命はただそれだけ。今まで数多の人間の魂を死後世界へと導いてきたが、対象者の人間とは会話はおろか姿を見られた事すら一度も無かった。
ゾーイ・クシュケットという対象者だけは何もかもが違っていた。
姿を見せるとゾーイはいつも喜んだ。
あなたに会いたい、話したい、もっとあなたを知りたいと、楽しそうに声をかけてくる。ただそこに居てくれるだけでも嬉しいわ、と笑う。近づく死という現実を突きつける、人間にとっては恐怖そのものの存在に対して「会いたかった」と笑顔で言葉を紡ぐ。
うるさい、口を閉じてくれ。何度も死神は思った。
思いとは裏腹に、ゾーイという対象者の存在が気になって仕方がないと思ってしまっている事実に戸惑い、疎ましさを感じていた。対象者に、使命を果たすにあたって抱く必要の無い願望を抱いている己が信じられなかった。
彼女の事を知りたい。……触れてみたい。
きっぱりと断ってしまえば良かったのだ。
握手をしたいと言うゾーイの願いを叶えてしまったのは、死神自身もゾーイに触れたいという望みを抱き続けていたからだ。
己の願望に抗えずに握手をして、強く後悔した。
ゾーイの手から伝わってくる体温は、ただ彼女のそばにいる時とは比較にならない程に高い。己が消滅してしまう、と危機感を抱く程の。
だが、危機感をも上回っている。
このまま消滅してしまっても構わない。彼女の手を離したくない――己が一番に抱いた思考に大いに動揺した。
瞬時に冷静になれたのは、握手をした事によりゾーイの表情が驚きと同時に辛そうな様子を見せたからだ。この時初めて、死神は己の体温が酷く冷たいのだという事実を知った。
「親切な、優しいあなたに魂を導いてもらえる私は、とても幸せ者ね?」
痛みを感じてしまうほどの冷たさが堪えたのか、両手を擦りあわせながらも、脳天気に笑いながらゾーイは言う。
死神は呆れ返ったと同時に、怒りが込み上げていた。
呆れはゾーイに対してだけではない。己に対してもだ。ただゾーイの前に姿を見せて話し相手になるだけの己は、他には何もかも、どうする事も出来ないという現実に無力さを痛感して打ちのめされていく。幸せ者ね、と言って笑うゾーイを見て込み上げた怒りは、無力すぎる己に対してだ。
親切さや優しさがあっての言動ではない。
ゾーイは大きな誤解をしている。
まだ死にたくはない、死ぬのが怖いと、ゾーイが朗らかな笑顔と明るいお喋りで完璧に封じ込めているのは、周囲の人間に対してだけではなく死神に対しても同じなのだと、死神は分かっていた。
姿を見られてしまうと分かってしまったからには、ゾーイが眠っている時だけ様子を見るなど、視界に入らないように努める事は充分に可能だった。理解しているにも関わらず出来なかったのは、「死神さん」と呼びかける声に、弾む期待と明るさが込められていて、強く惹かれてしまい抗えなかった己の意志の弱さだ。姿を見せると、ゾーイは必ず喜んで嬉しそうに笑う。そんな姿を見る度に、離れがたくなる。今度こそ呼びかけには応えてはいけないと自制しようとしても、「今はここにはいないのね」と寂しそうに呟かれてしまうと、決意は簡単に折れてしまう。
こんなに面倒でおかしな対象者を他に知らない。
離れがたい。傍に居たい。
生きて欲しい。
「……間違っている」
己の言動も思考も。何もかも。
怒りに任せてゾーイの元から姿を消し、暗闇に包まれた境界で一人きり。使命も忘れてただ願ってしまう『魂を導く者』という己の存在に嫌気がさし始めていた。
*
珍しい事が起こった。
寝室に姿を見せてもゾーイは気付かなかった。
いつもなら現れた途端、あるいは直前に何らかの直感が働くのか、すぐに気付いて声をかけてくる彼女が、今日はベッド上で大きな枕やクッションに上体を預けて座ったままうつむき、深いため息を吐いていた。浮かない表情をしている。
死神は声をかける前に、瞬時にゾーイの姿を視線を走らせた。疑問は今日も深くなる。
死期は何も変わっていない。後三カ月の命だ。それなのになぜ、彼女の身体は健康な人間の姿に近づいている?
ゾーイからも死神は何度か尋ねられていた。
もしかして死期が延びているの? と、希望のこもった声で。はっきりと否定したが、落胆して苦笑するゾーイの姿をこれ以上は見たくなかった。
定められた死期を変える事が出来るのならば、方法があるのならば、今の己ならばとっくにやっている。
ゾーイに声をかけると、彼女はひどく驚いた。やはり深く考え込んでしまうような何かがあったらしい。何があった、と尋ねると、ゾーイは困ったように眉尻を下げた。
「……結婚を申し込まれたの」
――相手は?
死神は一時、呼吸を忘れた。
知らない男の声が突如、頭の中に響いてくる。しかし、聞き覚えがあった。『天』から死後世界へと導く対象者達の情報を得ている時に、ゾーイ・クシュケットの名を聞いた瞬間に「ゾーイ?」と呟いていた男の声だ。
平らな水面に落ちた一粒の雫によって広がる波紋のように、男の声は死神の全てを満たすようにじわりと広がっていく。男の声音は冷静そうに聞こえたが、ゾーイが結婚を申し込まれたという事実に大いに驚愕している様子が、理由は分からないが死神にはよく理解出来た。知らない男の声に引きずられていくように、仮面の下の顔だけではなく手足の指の先々にまで緊張が走っていく。
――結婚を申し込んだ相手は誰だ?
知らない男の言葉を代弁する筋合いはない。
死期を迎えるまでの間に対象者が誰と婚約しようが結婚しようが、関係ない。
「相手は誰だ?」
口は自然と動き、知らない男が望む言葉をそのまま発していた。
興味があるの? と驚きながら意外そうに、いつもの他愛ないお喋りの延長といった様子でゾーイは話し出す。早く教えろ、と焦れて、ゾーイのお喋りには付き合わずにもう一度、相手は誰かと尋ねた。
アルフレッド・ヘデン。
聞いた瞬間、死神は肩の力が抜けそうになっていた。アルフレッド・ヘデンという名を聞いて安心してしまったからだ。
安心? まただ。不可解な。なぜ知らない人間の男の名を聞いて安心する必要がある?
またも己に疑問を抱いたが、考え込む時間の隙は無かった。アルフレッドについて説明するゾーイの様子が、驚きと困惑だけではなく、縁談に対して完全に後ろ向きになっていたからだ。いつ返事をするつもりなのかと聞くと、両親が冷静になったタイミングで断るつもりだと、案の定予想通りの言葉が返されてくる。
そうか、といつものように返事をする事が出来なかった。
聞いた瞬間も冷静さを失った。よく知っている筈の『魂を導く者』という存在である己が、まったく違う存在に変わってしまったかのように、激しい何かが身体の内で蠢いている。
「断るのか?」
瞳を丸くするゾーイの顔を見つめながら、縁談を断るゾーイの意思を非難するように問いかけてしまう。挙げ句の果てに、『浅慮』などと強い言葉を放っていた。会った事もない知らない人間、アルフレッド・ヘデンの、彼の全てを分かりきったように擁護する言葉が、勝手に口が動いてすらすらと出てきてしまっている。
「私が生きた人間と会話が出来るのは、過去を振り返っても今も、姫ただ一人だけだ」
ゾーイの問いかけに返事をしたと同時に、頭の中に響き渡ってくるのは先程と同じ声。知らない男のはっきりとした強い声だ。死神は警戒して心内で問いかけた。
おまえは誰だ。
また私を通して姫に何かを問いかけるつもりか?
――『俺』は出来る。生きるための力を彼女に与えられる。『お前』は『俺』だ。お前は、望みを叶える事が出来るんだ。
「なぜ……」
唖然として死神は呟いた。
知らない男の声は、いつの間にか己の声と重なって二つの声となって響いていた。使命を果たすためにゾーイと向かい合って立っている己とはまったく別の、もう一人の己の声が、確信を持った様子で力強く言い放っている。
死神は混乱しかけたが、言葉にして己に言い聞かせた。
「生きている間に対象者がどんな選択をしたとしても、死期は変わらない。私の使命は対象者の魂を死後世界に導く事。それだけだ」
「あ、待って!」
上体を動かし、届かないと分かりきっているにも関わらず、こちらに向かって必死に手を伸ばそうとするゾーイの姿を己の目に焼き付けながら、死神はゾーイの部屋から姿を消していた。
今の己は狂いかけている。
いや。もう既に狂ってしまったのか。
境界を漂いながら死神は小さく自嘲した。
「狂っただと? 俺は兄さんとは違……」
俺? 兄さん?
滑らかに自然と口から出た『俺』。
『兄さん』という言葉。
身動きを止めた死神は、ふわふわと人間の魂だけが揺蕩う暗闇の中で一人、言葉を失いその場に佇んでいた。




