14 生きている
十三年前、ゾーイはまだ七歳。
ヘデン兄弟の存在すら知らなかった時期になる。
馬車の転落事故にあっていたという事実は初めて聞く話で、ゾーイは表情を曇らせた。
「悪天候が原因で、崖から転落して馬車は大破した。御者を含めて全員怪我を負ったが奇跡的に命は助かったんだ。俺は打ちどころが悪く、命を落としかける程の怪我を負った。日常生活に支障をきたさない程に回復するまでにも長い日々を要した」
「今はもう、大丈夫なの?」
もしも今も何らかの後遺症に苦しんでいるのだとしたら?
思わずアルフレッドの左腕を掴むと、彼は驚いたようにゾーイを見下ろして、安心させるように微笑んだ。
「ゾーイが心配しているようなことは何もない」
「本当に?」
「本当」
左腕から手を離して、ゾーイは少しだけうつむいた。
幼かったヘデン兄弟とルイ達は、馬車が滑落した時にどれ程怖い思いをしたか。怪我の苦痛に苦しんでいた事を思うと胸が苦しくなる。
思いを巡らせた時にふと、違和感を覚えた。
「どうしてルイは私に事故の話を?」
ルイはゾーイを含めて、誰に対しても私語をほとんど言うことのない使用人だ。事故は確かにルイ自身の身に起きた昔話であるが、重傷を負ったアルフレッドと、ジークレッドも関わっている。
ルイが本当に伝えたかった事は、転落事故の出来事なのだろうか?
尋ねると、アルフレッドの表情は陰りを見せた。
「事故はきっかけだ。事故を境に、兄の言動がおかしくなった。おかしくなったと言っても、俺とルイ、ベスティリ卿以外の人と話す時は何も問題はない。俺の怪我は完治したが、兄の言動の不可解さはずっと変わらないままだ。ルイは、兄がおかしな言動を繰り返すようになったのは自分のせいだと思い込んでいる。今回の俺とゾーイの結婚も、兄が強引に話を進め、俺は兄に逆らう事が出来なかったようにしか見えていない。非礼な振る舞いによる解雇も覚悟の上で、ゾーイから俺に婚約を破棄して欲しいと言おうとしていた。破談になった方が俺とゾーイの為になると信じているからだ」
ゾーイは唖然としてしまった。
今告げられたアルフレッドの言葉を何一つ受け入れるどころか、理解する事も出来ない。
「ルイも事故の被害者よ。自分を責める必要はないわ」
「ああ。ルイのせいじゃないし、俺は兄の言いなりにもなっていないと何度も伝えていた。覚えていないんだが、馬車が落下した瞬間、ルイは咄嗟に正面に座っていた兄を自分の腕の中に引っ張り込んだらしい。身を挺して守ってくれたからこそ兄は軽症ですんだ。だが俺は落下したとほぼ同時に外へ投げ出されていて、間に合わなかったそうだ。死にそうになっている俺を見てショックを受けた兄がおかしくなってしまったと、ルイは嘆きずっと悔いている。当時まだ子どもだった俺と兄を、ルイは必死に守ろうとしてくれていた」
立ち話にしては長くなりそうだな、と困った様子で呟いたアルフレッドに右手を引かれて、レッスン室の壁際に並べ置かれていた椅子の端にゾーイは座った。初めて知らされた、ヘデン兄弟と温厚そうな顔付きを崩さなかった寡黙な使用人が抱えていた過去が、あまりにも辛い。
アルフレッドは椅子に座らず、ゾーイの隣に立つと再度腕を組み、まっすぐに空虚を見つめている。反対側から窓から差し込む昼下がりの陽光のせいで、ゾーイから見えるアルフレッドの横顔はとても暗い。
「俺は何日も意識が戻らない日が続いた。そんな時、兄はルイに言ったそうだ。『アルフの運命の人を探し出して、助ける必要がある。そうしないと、今アルフの命が助かっても、アルフにとっての運命の人が苦しむ事になるかもしれないんだ。そんな事になったら、命が助かったアルフも苦しむ事になる』と」
「……運命の人……?」
「俺が意識を取り戻して会話も問題なく出来るように回復した頃に、兄は俺にも同じようなことを言った。熱心に何度もだ。ふざけている訳では無く、真剣に言っているとしか思えなかったからこそ、俺もルイも戸惑った。突然どうしてそんな事を言うのかと聞いたら、『おまえの魂を迎えに来た女のヒトがそう言っていた。そのヒトがお前を助けてくれたんだ』と言うんだ」
魂を迎えに来た女のヒト。魂を導く者――死神。
まさか今、アルフレッドの口から魂を導く者の存在についての話を聞くとは思わなかった。ゾーイは膝の上で両手をぎゅっと握りあわせる。ジークレッドが出会ったと思われる死神は女性。ゾーイの魂を導くためにやってきた死神は男性で、別人である事は間違い無い。
ゾーイは驚きながらも確信した。
ジークレッドがおかしくなった訳では無い。
理由や状況は分からないが、ジークレッドは死神に出会って、言葉通りに事実を伝えただけなのだ。
実際に死神に会った事がないであろうアルフレッドとルイ、ハルクが、ジークレッドの言動が急におかしくなったと困惑してしまうのは当然だ。しかし今ここで、ジークレッドの言葉はきっと本当の事よ、とアルフレッドに言う事も出来なかった。死神と出会い、共に過ごした日々の事を伝えたら、アルフレッドは思うのだろう。
ゾーイがおかしくなった、と。
「……事故で大怪我を負ったけれど、奇跡的に回復出来たアルフがその後もずっと無事に生き続けるためには、アルフが運命の人と出会って、その人を助ける必要があるの?」
「兄の言葉を信じるのならば、そうなるな」
まっすぐに空虚を見つめていたアルフレッドの顔が、椅子に座っているゾーイへと向けられた。
「俺とゾーイが初めて出会った王城での事を兄に話したら、血相を変えて俺に言い募った。『間違いない。彼女が、おまえが必要としている運命の人なんだ』とな」
厄介な事になってしまっている。
アルフレッドは、転落事故と、事故をきっかけに身の回りで起こった事実と、アルフレッドが真実にしたがっている嘘を――初めて出会ったのは約半年前のコーイック城であるにもかかわらず、幼いころにジークレッドと初めて出会った王城での事を自分に置き換えながら、真実と嘘を違和感のないように織り交ぜながら話しているのだ。
今ここにいるアルフレッドではない。
幼い頃のジークレッドが幼い頃のゾーイに会って、何らかの理由があって確信したのだ。
ゾーイが、アルフレッドが必要としている運命の人であり、アルフレッドを苦しませずに無事に生かし続けるために助けなければならない人だ、と。
「転落事故と事故に関わる事は、俺も兄もゾーイに話すつもりはなかった。ベスティリ卿とルイにはずっと口止めした上で協力を頼んでいた。ゾーイに不信感を与え、破談にされてしまう事を恐れていたからだ」
アルフレッドは椅子に座るゾーイの正面にまわると、片膝を床について跪く。
「後ろめたい隠し事をしていたのは事実だ。すまなかった」
言うと、アルフレッドは目を伏せた。
謝罪をされてしまっても、困惑しているゾーイの心は定まらない。何と言葉は発するべきか、分からなかった。
「今の話を聞いて、俺の全てが信じられなくなってしまったとしても当然だと思う」
目を伏せたままアルフレッドは言葉を続けたが、やがてゆっくりと顔を上げた。黒い瞳がまっすぐに、言葉をなくしているゾーイに向けられる。
アルフレッドの表情や眼差しに迷いは見られない。
「だが、兄の為ではなく自分の意思でここにいる。ゾーイを想う気持ちに嘘はない。信じてもらえるように、改めて一から努めさせて欲しい」
言った後、アルフレッドは素早く立ち上がって、何かを探すように顔を動かしている。
「仮面は? サイズと紐の調整をしておいてほしいと子爵夫人に言われているんだ。あれか?」
アルフレッドは暖炉へと向かっていく。暖炉の上の端に置かれていた小さな手持ち籠を取ると、またゾーイの元へと戻ってくる。被せていた布を寄せて二枚の仮面を片手に取って、籠をゾーイの足下へと置いた。
「半顔の仮面か」
白と黒の仮面を眺めて呟くアルフレッドは、神妙そうに眉間を深く寄せている。
ゾーイは初めて、アルフレッドに対して明確な苛立ちを抱いた。
椅子から勢いよく立ち上がると、アルフレッドの手から二枚の仮面を片手で抜き取ってしまう。不意打ちの行動に驚くアルフレッドを、ゾーイは厳しい眼差しで見上げた。
「また嘘を重ねた挙げ句、勝手に話を終わらせないで!」
アルフレッドの漆黒の瞳が、すっと細くなる。
ゾーイを見つめるアルフレッドの眼差しに、いつものような優しさが垣間見える熱っぽさは感じられない。感情を全て覆い隠すように、口を閉じてただまっすぐに見下ろしている。
ゾーイは後退しかけたが、後ろにある椅子に足が触れた。真正面の近い距離にはアルフレッドが立っている。自然と身動きは封じられていた。
「アルフにとって、お兄様のヘデン卿は誰よりも大切な人だという事がよく分かったわ。ヘデン卿は、アルフと私との結婚を強く望んでいらっしゃる。だからアルフもせっかく決まった私との婚約を破棄されてしまうのを恐れていたのよね? 今ここで私が婚約を破棄したら、ヘデン卿の心が壊れてしまうと心配しているからでしょう?」
「兄の為じゃない。俺自身がゾーイとの結婚を望んでいると伝えた言葉が真実だ」
「信じたいけれど、今は難しいわ。それに、はっきりと分かった事がもう一つあるのよ。アルフはお兄様想いで、古くから仕えてくれている使用人とハルク様との関係を大事にしているという事。大切な人達を悲しませたくないというアルフの気持ちは、私にはよく……よく、分かるのよ」
自分が同じだった。
病に冒されていた。
死という現実が確実に歩み寄っていた、まだつい最近だった程に近い過去。自分にとっての大事な人達が悲嘆に暮れる姿が鮮明に思い浮かぶ。愛する人々を苦しませてしまっているという現実に、ゾーイ自身が深く悲しんでいた。今のアルフレッドを見ていると、ゾーイはその時の自分の感情を鮮明に思い出すことが出来る。
ジークレッドの言動がおかしくなった、と教えてくれたアルフレッドの横顔がひどく暗かった。
自分のせいと、己を責めているようなアルフレッドの姿が、過去の自分の姿と重なって見えて、余計にゾーイの胸中は苦しかった。
「全てを信じる事は出来ないわ。だからといって私はアルフの事が嫌いにはなれない。アルフのおかげでクシュケット子爵家は明るさを取り戻したの。恩人よ。険悪な夫婦関係になりたいわけじゃない……っ」
「……ゾーイ?」
静かな口調でアルフレッドに名を呼ばれて、ゾーイは言葉に詰まって何も答えられずに口を閉ざしてしまう。
魂を導く者は存在する。
しかし、彼等が人の命を助ける事が出来るという事実を、ゾーイは今初めて知った。
ジークレッドの話ではアルフレッドの本来の死期は転落事故の時だったという事になる。
死期は定められていると、ゾーイの魂を導くためにやって来た死神は語っていた。彼とは半年間も毎日のように会って話していたが、死期を迎えた人間の命を救う方法を知っている様子ではなかった。だが、死神は彼以外にも存在する事は教えてくれた。彼は何も言わなかった、あるいは知らなかっただけで、人間の命を救う事が出来る魂を導く者もいるのかもしれない。
死期は変えられる。変わる事がある。
自分にその経験があるのだから、知っている。
終わる筈だった命が、今もこうして続いているのだから。
「アルフは、ヘデン卿の言葉を、今もおかしいままだと思っているのよね……?」
アルフレッドが必要としている、己の命を繋ぎ続けるために必要な存在の運命の人が、本当にゾーイだったのだとしたら?
ジークレッドは確信した上で、今までずっと行動していたという事になる。嘘を突き通して、自身を弟と偽るという強引で無茶な方法で、アルフレッドとの縁を着実に繋いでくれていたのだ。
ゾーイは事故の事実を知らなかった。
アルフレッドは、日常生活に支障をきたさない程に回復するまでにも長い日々を要した、と話していた。長い日々というのが数日、数ヶ月ではなく数年間という長い日々だった可能性が高い。幼い頃に初めてジークレッドと出会った年や、その後の王城で共に過ごした数年の日々も、アルフレッドはずっと一人きりで、身動きも取れず、怪我でずっと苦しみ闘っていたのかもしれない。
――『アルフの運命の人を探し出して、助ける必要がある。そうしないと、今アルフの命が助かっても、アルフにとっての運命の人が苦しむ事になるかもしれないんだ。そんな事になったら、命が助かったアルフも苦しむ事になる』
かすかに開かれたゾーイの唇が色を失っていく。
死期を迎える筈だった命が助かったのはアルフレッドだけではなく、ゾーイも同じだ。
アルフレッド・ヘデンという人の存在。
幼い頃から繋がっていた関係性のおかげて、こうしてアルフレッドとの関わりが深くなったからこそ自分の命の死期も変わり、今もこうして生きているのだとしたら――?
ゾーイの問いかけに、アルフレッドはしばらく沈黙していたが、やがて口を開いた。
「……ずっとおかしいと思っていた。わりと最近までは」
「最近まで? 今は?」
「正しかったのかもしれない。今は、そう思っている」
「お兄様の為に、そう思おうと努めているのね?」
アルフレッドの表情がさらに険しいものになる。
彼からは落胆や怒りといった様々な感情も、何も感じられない。険しい表情のままゾーイの言葉を受け止めて、何かを考えている様子で正面に立ち尽くしている。
視線をぶつけ合いながらわずかな時間だけ場に静寂が流れたが、やがてアルフレッドは一度顔を横に振った。
「兄の為じゃない。俺が、ゾーイの事が好きだからだ」
「ここで一緒に過ごした日が長いから、情が湧いて、少しずつ家族の一員という意味で好きになってくれたのよね?」
「……もう一度、座って」
肩にアルフレッドの片手が置かれて、促されるままにゾーイはもう一度椅子に座った。
緊張が途切れて放心し、ふっと全身から力が抜けた。
両手を垂れ下げたまま座ったが、二枚の仮面を掴んでいた右手の力も緩んでしまう。仮面は床に落ちてしまった。カラン、と乾いた音をたてて床に落ちた二枚の仮面を、椅子に座るゾーイの正面にもう一度片膝をついたアルフレッドが拾い上げた。
「以前、お人好しと言われた事がある」
アルフレッドは、拾い上げた二枚の仮面のうち、白い仮面をゾーイの膝の上に落ちないように慎重に置き、言葉を続けた。
「だが、お人好しと俺に言ったその人こそが本物のお人好しなんだ。その人には何度も感情をかき乱された。厄介で面倒だと思った時もあったが、一緒に過ごしているとなぜか離れがたくなる。離れてしまうと、その人のことをずっと想ってしまっていた」
何の話だろう。
……まさか。
嘘をつき続けているアルフレッドには、本気の恋心を寄せている女性がどこか違う場所に存在していて、その人の話をしているのかもしれない。
命を繋ぎ止める為に互いに必要としていた運命の人という関係性は、確かにゾーイとアルフレッドとの間にはあったのかもしれない。しかし、男女の恋愛関係という意味での運命の人なのかは、ジークレッドもアルフレッドも、ゾーイ自身も分からない。
恐らく誰にも分からない。
返答に窮して黙り込んでいたら、アルフレッドは苦笑を浮かべてゾーイを見上げた。
「今の話の『その人』はゾーイだぞ」
「私?」
「うん」
「また、どうして嘘をつくの! アルフの事を嘘つきで頑固者と思っていたけど、お人好しだなんて言った事は絶対にないわ」
「頑固者だと? 初耳だな」
床に片膝をついた体勢のまま、アルフレッドは漆黒の仮面の両端の紐を両手で持つと顔をうつむかせて、後頭部へと紐をまわして結び合わせていく。仮面で目元と鼻を全て覆い隠したアルフレッドが顔を上げた。
「付けていて違和感はないな。このままで……ゾーイ?」
ゾーイはアルフレッドの仮面姿に釘付けになり、硬直した。
漆黒の仮面。
漆黒の髪と、同色の瞳。
ローブを脱いだ姿で片膝を床についた時の死神と、仮面姿で同じ体勢をとっているアルフレッドの姿がぴったりと重なって見える。重なって見えた途端に思い当たってしまった。体格も背丈も、信じられない程によく似ている。声は死神の方がわずかに高く感じられ、同じとは言い難い。
しかし声以外の全てが、怖いほどによく似ていた。
お人好しという言葉をアルフレッドに言った覚えはない。
でも、死神に対しては一度だけある。
初めて手と手を合わせた時に――
「死神さん?」
ゾーイの細い小さな声は大きく震えていた。
アルフレッドは仮面の目元の穴の奥を瞠目させている。しかしやがてゆっくりと、口元に微笑を浮かべた。
「俺は生きている。人間だよ」