13 仮面
言葉遣いを変えた途端、ある一定の近い場所で立ち止まったままなかなか近づく事の無かった距離感が、急速に縮まったようにゾーイは感じていた。予想通り、両親も使用人達も、二人が親しげに話す姿を見て咎めたり不満を漏らす者は一人もいなかった。むしろ一層心を通わせたように見えるらしく、大いに喜んでいる。
コーイック城の毎日は賑やかに、平和に過ぎていく。
ついに二週間後にまで迫った結婚式と、初めての社交界に向けて、全てが順調すぎる程に事は進んでいた。
「お嬢様はいつも、アルフレッド様とお話をされた後、お一人になられた途端に不満そうな表情をなさいますね」
コルセットの紐を解いてくれるキーナに言われて、ゾーイは言葉を詰まらせた。
ゾーイとキーナの二人は居住棟であるコーイック城東棟の一階にある衣装室にいた。
初めての社交界、王城舞踏会に参加するために着るドレスの確認の為だ。本来ならばクシュケット子爵家は五日間参加するのが恒例の王城舞踏会だが、ゾーイだけは二日間のみの参加に留めておく事が決まっている。身体の負担を考慮した上での決定だ。
朝食後から衣装室にこもり、ドレスや扇、ショール、アクセサリー、靴などを試着していた。途中で母も手伝いに参加し、助言を貰いつつ不備は無いか入念に確認をすすめた。
現在は昼時。
コーイック城は観光時間の真っ只中で、本棟には今日も多くの観光客がやって来ている。
ゾーイは三着目となる予備のドレスからデイドレスに着替えている最中だった。
着替えながらキーナとダンス練習の進捗状況の話をしていて、父とばかり練習していてアルフとはまだ数回しか踊っていないの、と心配事を伝えると、キーナは少しだけ黙り込んだ。
アルフレッド様の事ですが……と、続けてキーナから切り出された言葉が、不満そうな表情をしているという指摘。
アルフレッドと結婚すると決めたのは自分自身。
本当の真実を知ることは諦め、切り替えて前に進むべきと分かっている。たった一つの大きな嘘以外でアルフレッドに対して不満は無い。アルフレッドと会話を終えた途端、表情がわずかにでも歪んでしまっているのは無意識だったが、理由は不満を抱いているからという訳ではない事だけは分かっていた。
自身の感情の波立ちと、切り替えきれない不安定な心に、焦ってしまっているからだ。
「アルフに不満なんてないわ」
「そうでしょうか。いつも少し、険しい表情をされておられます」
「んー……強いてあげるとしたら、アルフはちょっとだけ頑固だと思う。夫婦になって何か意見が別れた時、あっという間に険悪な空気になって、したくないのに大喧嘩になっちゃいそうな気がするの」
「大喧嘩ですか? 喧嘩する姿の方が私には考えられません。お嬢様が言い募って、アルフレッド様は辛抱強く耳を傾けそうな気がします」
「えぇ? キーナは、私の方が絶対に意見を曲げない頑固者って思っているの?」
「いいえ。そのように思っていた訳ではありませんが」
キーナにしては珍しく、少々楽しそうな声音で言う。
アルフレッドがちょっと頑固、という言葉を否定しないのも、キーナもそのような印象を抱いているからなのかもしれない。おかしくなり、ゾーイも結局笑ってしまった。
「喧嘩が繰り広げられたとしても長くは続かないわ。私が耐えられそうにないから」
「アルフレッド様もきっと同じです」
デイドレスに着替え終わると、ゾーイは鏡台の椅子に腰掛ける。キーナの手によって一度髪を解かれて、そのまま丁寧にブラシを通された。
鏡越しに見えるキーナの口角はやはり少し上がっていた。
「ゾーイ、持ってきたわよ!」
見せたい物があるから、と少し前に慌ただしく衣装室を出て行った母がノックも無しに衣装室に駆け込んでくる。
右手には二枚の白と黒の仮面を持ちながら。
「白い仮面はゾーイの、黒い仮面はアルフさんの分ね」
髪をまとめ終えて椅子から立ち上がろうとしたが、良いからそのまま座ってて、と母に言われてしまう。何も置かれていない鏡台の上に、母は二枚の仮面をそれぞれ並べて置いた。
白い仮面と黒い仮面がそれぞれ一枚ずつ。
どちらも装飾がない。覆い隠す場所は顔の上半分だけの作りだ。目元が二カ所、大きめにくり抜かれたように開いている。仮面の両端には、仮面と同色の太めのリボンが通されていた。顔に付けるためには両端のリボンを後頭部に回して結ぶ必要がある。
「王城舞踏会の開催初日は、毎年違ったテーマで簡単な衣装指示が出されるでしょう? どこかに必ず赤色を入れるとか色の指定が大半だけど、たまに花を身につけるとか色以外の指定の年もあるのよ」
「今年の衣装指示は、仮面をつけること?」
「そう! 男性は黒、女性は白の仮面。王城主催の舞踏会で仮面指示は四十年ぶりだそうよ? ゾーイ、つけてみて! サイズとリボンの長さを確認しましょう」
今年の衣装指示は何? とずいぶん前に母に尋ねていた。
準備に時間がかかるため、春には各家当主に衣装指示の発表がされている事はゾーイも分かっていた。しかし、まだ秘密、と両親にはぐらかされ続けていた。試着したドレスにも特段変わったところもなく、ずっと内容が気になっていた。
まさか、仮面だとは思わなかった。
早速、白い仮面をつけてみる。
サイズもリボンの長さもぴったりだ。
鏡に映る自分の仮面姿には違和感しかない。似合っているのかも分からず、つけていてもなんだか落ち着かない。しかし、参加者達全員が同じような仮面をつけて参加するのだ。一目見ただけでは誰が誰だかが分からない状況だが、それすらもゲーム性やイベント感もあり、楽しい雰囲気になるのかもしれない。
舞踏会に参加した事がないゾーイは想像を膨らませた。
「この仮面はアルフのね? 夕食後につけてみてもらって、サイズを確認しておかないと」
ゾーイがアルフの黒い仮面を両手で持ち、眺めながら言うと、鏡越しに母は含み笑いを浮かべた。
「夕食前に確認出来るわよ。アルフさんには午後に時間を作ってもらったから。もともと、午後からはダンス練習の予定だったでしょう? 今日の練習相手はお父様ではなくてアルフさんにお願いしたから」
「アルフに? 予定は大丈夫なの?」
「少し前から相談していて調整してもらっていたから心配いらないわよ。仮面が今日出来上がることも伝えてあるから、実際に仮面をつけてダンス練習してみると良いわ。本番の予行練習にもなるから」
「そう……ね」
「お父様と私がいない空間でアルフさんとお話出来る唯一の機会じゃない。思いっきりイチャイチャしちゃいなさいな」
「お母様!? もう、からかわないで!」
婚約者同士の完全な二人きりは許されない。両親がいなくても、必ず使用人が一人はそばにいるのだ。少々ムキになって注意すると、母とキーナは目線を合わせて、肩を震わせて楽しそうに笑っていた。
*
準備を整えたゾーイがダンスのレッスン室に入ると、まだアルフレッドの姿はなかった。代わりに室内にいたのは、ヘデン伯爵家から唯一やってきた使用人。アルフレッドの付き人をしているルイだ。
父との練習は二人きりで行うが、婚約者同士の二人きりを避けるために、アルフレッドとのダンス練習時は必ずルイかキーナが立ち会ってくれる事になっている。今日は父との練習を予定していたため、キーナは既に別の仕事が入っていた。立ち会いはルイが行う事になっている。
ゾーイが姿を見せると、窓際に立って外を眺めていたルイは振り返り、姿勢を正して礼をとった。
三十五歳の彼は、アルフレッドが幼いころからヘデン伯爵家に仕えている使用人だという。
茶色の短髪はきちんと整えられていて、温厚そうな顔付きをしている。
ルイはコーイック城に住まう人々の中で一番口数が少ない印象がゾーイにはあった。挨拶と必要な連絡のやり取り以外に会話をした事がほとんどない。たまに話しかけてみても、ルイは慇懃に返事をしてくれるだけで、決して心を開いてくれている訳ではなさそうな印象が拭えないまま今に至っている。コーイック城に仕える使用人達全員と気兼ねなく話す事が出来るゾーイだが、ルイ相手にだけはほんの少しだけ身構えてしまう。ルイという人のことを、まだきちんと知る事が出来ていない。
「アルフレッド様から伝言がございます。案内が長引いており、少々遅れてしまうとの事です。終わり次第早急にこちらに向かわれますが、お嬢様の用事や体調が思わしくないようでしたらご無理はなさらないようにと」
「私は大丈夫よ。ダンス練習を入れた日は、その後は用事を入れないようにしているの。ゆっくり復習しながら待っていると伝えておいて」
「かしこまりました」
ルイはもう一度一礼して顔を上げたが、その場から動かなかった。
「お嬢様にもう一つ、お伝えしたい事がございます」
「他にもアルフから伝言?」
「いいえ。私が個人的に、お話が」
初めてのことに、ゾーイは驚きに目を瞬かせた。
二枚の仮面が入った小さな籠に埃除けの布を被せて暖炉の上に置くと、ルイのそばへと歩み寄った。
「もちろん聞くわ。どうしたの?」
見上げながら尋ねると、ルイの小さな目がさらに細くなる。温厚そうな顔付きに険しい色が浮かんでいた。
「お嬢様。アルフレッド様は、十三年前に――」
「ルイ」
言葉を遮るように鋭くルイの名を呼ぶ声がした。
扉付近に立っていたのはアルフレッドだ。ルイを見据えるアルフレッドは、ゾーイが困惑してしまう程、感情の見えない表情を浮かべている。
しばらくの間、アルフレッドとルイが互いを無言のまま見合っていたが、やがてルイは眉間を寄せてそのまま顔を伏せてしまう。アルフレッドも短く息を吐きながら額を右手で押さえた。
「練習の立ち会いは予定通りルイに任せたい。だが少し、室内でゾーイと二人にしてくれ」
「……お二人だけにする訳にはいきません」
「ルイが今言おうとした事を、俺がゾーイに話すよ。あの時の事だけな。頃合いを見てまた戻ってきてくれ。その後に練習を始める」
ルイは弾かれたように顔を上げた。
何かを思案している様子でゾーイとアルフレッドをそれぞれ一瞥すると、もう一度無言のまま一礼した。静かな歩みで扉へと向かい、アルフレッドの横を通り抜けようとしたが、ルイ、とアルフレッドが呼び止める。
「兄さんの為じゃ無い。何度も言うが、俺は自分の意思でここにいる」
ルイがどんな表情で退出したのか、ゾーイからは何も見えなかった。
呼吸をする事すら躊躇ってしまうような張り詰めた空気感が漂っていたレッスン室は、アルフレッドと二人きりになって少しだけ和らいだ。
しかしルイの事が気掛かりで仕方ない。いつも柔和な表情を崩さないルイが、あんなにも苦しそうな表情を浮かべていた姿を初めて見た。
「ルイを一人にして大丈夫なの? 辛そうだったわ」
扉を閉めたアルフレッドが、立ち尽くしたまま動く事が出来ずにいたゾーイの隣にやってくる。アルフレッドの視線は閉じられた窓の外、よく晴れた昼下がりの青い空へと向けられていたため、ゾーイも同じように窓の外の空を見た。
「心配ない。少しは安心してる筈だ」
「安心……」
「俺が代わりに話すと言ったからな」
そのまま急に黙り込んだアルフレッドに、不思議に思ったゾーイは空ではなくアルフレッドを見上げた。
代わりに、何を話すのだろう?
アルフレッドは空を眺めているというよりも、どこか違う、もっと遠くを見つめている様子に見える。
「ルイがゾーイに話そうとしたのは、十三年前に俺と兄、ルイの三人が巻き込まれた馬車の滑落事故の件だ」