11 一縷の望み
隣に座るアルフレッドの横顔をちらりと横目で見上げてみる。
肩よりもわずかに長い、一つに結ばれた艶やかな黒髪。髪と同じ黒々とした涼やかな瞳。長い睫毛と、形の良い耳。両親の話を聞いて相槌を打ちながら、凛々しい美しさを覗かせながらも落ち着いた笑顔を浮かべている婚約者。
アルフレッドと共に暮らし始めて三カ月。彼には驚かされるばかりだった。ゾーイだけではない。両親、使用人達も皆、同じだ。
アルフレッドの生家、ヘデン伯爵家は爵位を賜ってまだ七十年程。
百年以上も爵位を保持し続ける貴族達が多数存在するスミナリア国においては新興貴族という立場にあるが、領地を治める仕事や暮らしぶりそのものは他の貴族と何ら変わらない。アルフレッドはごく一般的な貴族紳士だ。いくら全てを覚悟の上で結婚を申し込んでくれたとはいえ、娯楽のある大きな街までは遠く、かと言って山の中にある城からは簡単に離城も出来ず、住まうには不便ばかりなコーイック城での生活だ。多少なりとも愚痴をこぼされても、文句を言われても、音を上げたとしても誰も驚かない。
あまりにも美麗な紳士の登場に、やって来たばかりの時は使用人達は口々に不安をこぼしていた。キーナもだ。
彼は煌びやかな舞踏場や栄えた街で、ワイングラスを片手に社交術を駆使して地位を盤石にしていくような道を歩んだ方が違和感のない貴族らしい貴族紳士にしか見えなかった。
しかし、皆の不安をよそに、クシュケット子爵家が取り組む日々の仕事について、アルフレッドは特段に驚きもせず冷静に受け入れて、まだ婚約者の段階にもかかわらず父と共に少しずつ着実にこなしてしまっていた。
クシュケット子爵家は名門と言われる部類の貴族だが、コーイック城の居住と維持管理をしながら、身分問わず日々訪れる多くの客人達を案内し、王侯貴族などの貴人客のもてなしもする。常識のある貴族ならば、使用人に指示して自らの手では決して行わない清掃や修繕も、使用人達と共に行う。自分たちの顔や髪、衣服が埃や泥、砂に汚れることに躊躇もしない。コーイック城は国から管理を任されている城だ。
自らの手で城に触れ、城を知り、管理する伝統を重んじていた。
アルフレッドは、コーイック城での暮らしを受け入れ、仕事をこなしながら馴染もうと努めているのは誰から見ても明らかだった。文句一つ言わないどころか、大胆不敵にも言いきるのだ。両親に対しても使用人達に対しても、婚約者のゾーイ本人に対しても。はっきりと淀みなく。
早く正真正銘クシュケット子爵家の一員になりたいです、と。
「何か、希望はないかい?」
父からかけられた言葉に、アルフレッドはグラスに口をつけようとした手を止めた。
「希望ですか?」
「アルフ殿が城で暮らし始めて三カ月経ったが、熱意と覚悟はもう充分伝わっているんだ。ゾーイを大事に想ってくれている。感謝しているよ。結婚前に何か、アルフ殿に礼をしたいと思っているんだ。とりあえず、何でも言ってみてくれないかい? 城内で出来る範囲内で」
「あなた。城内じゃほとんど何も出来ないわ」
母が呆れながら隣に座る父に文句を言うと、父は「そうは言ってもなぁ」と申し訳なさそうに顎を撫でている。
皆で夕食を終えたあと、ゾーイと両親、婚約者のアルフレッドの四人で休憩用の広間に移動し、家族団欒の時間をとる事は日課になっていた。テーブルを挟んで向かい合うように置かれたソファに、両親、ゾーイとアルフレッドがそれぞれに横並びで座り、飲み物を片手にくつろぎながら一日の出来事や、思い出話をする。団欒時間は日によってばらばらだが、どんなに短くても必ず家族の時間を確保するというのは、意外にも父の発案によって始まり、続いていた。
ゾーイにとって、食事と家族団欒の時間は、アルフレッドと会話する事が許された貴重な時間だ。この二つの時間以外はアルフレッドとゆっくりと顔を合わせて会話する事も出来ない。ゾーイはゾーイの、アルフレッドはアルフレッドのすべき事や仕事がある。
まだ夫婦ではない。
婚約者同士が二人きりになる事は常識として許されない。
アルフレッドは、ひたむきで真面目な人なのだと思う。
こつこつと着々と、確実に両親と使用人達からの信頼を得ながら、コーイック城での暮らしに完璧に溶け込もうとしている。
嬉しい。ありがたい。アルフレッドとの結婚は、クシュケット子爵家にとって大きな幸せ。間違いなく希望だ。
けれど彼は、大きな嘘をつき続けている。
ゾーイは自分が持っていた水の入ったグラスをテーブルに置きながら、横に座るアルフレッドを見た。何を希望するのか確かに興味がある。
アルフレッドも飲みかけのブランデーが入ったグラスをテーブルに置いて、難しい表情で伏し目がちに考え込んでいる。ゾーイがアルフレッドの横顔を見つめ続けていたら、彼の瞳が動いて視線が重なった。
「な、何ですか?」
声をかけられた訳では無い。目があっただけだ。
しかし、驚いて思わず尋ねてしまったら、アルフレッドはくるりと顔も動かして見下ろしてくる。ふっと、小さな微笑を浮かべていた。
「では、ゾーイ嬢。私と握手をしてください」
「握手を?」
「手が冷えてきている気がするので、暖が欲しくなりました」
家族団欒の時間の和やかな空気を決して壊さず、損なうこともない。
組んでいた両腕を解いて、アルフレッドは気軽に右手を差し出してくる。
何も言葉を発しない両親からの視線が痛い。アルフレッドの希望があまりにもささやかで予想外すぎて驚いている。握手? と母がぽつりと呟いた言葉が、かろうじてゾーイの耳に届いていた。
漆黒の瞳を細めながら微笑を浮かべるアルフレッドからの視線に身体が硬直しかけたが、ゾーイはハッと我を取り戻して、負けない位ににっこりと笑顔を見せた。
「握手だなんて、あまりにも希望が小さすぎます。それに今は夏です。本当に手は冷えていますか?」
「確かめてみてください」
アルフレッドの差し出された右手に、ゾーイも右手を差し出した。手のひら同士が触れた途端、ぐっと包むように握られて、ゾーイも反射的に握り返していた。
瞬間。脳裏に過ぎったのは、死神に出会って月日が経った頃に初めて握手をした時のこと。冬に触れる水のように冷たい手の感触を急に思い出して、完璧に作った筈の笑顔が強張っていく。
まったく冷たくない。温かい大きな手だ。
相手はアルフレッド。死神ではない。
それなのに、過去の思い出として封じ込めて、普段は決して考えないようにしている死神の姿が、頭の中で鮮明に浮かんでしまっている。
ゾーイ嬢、と声をかけられてやっと顔を上げると、アルフレッドの顔がすぐそばにあった。
「すみません。あなたに触れる口実が欲しかっただけです」
「――もう終わりです!」
アルフレッドから手を離されてしまう前に、ゾーイから素早く手を離していた。手を離したと同時に脳裏に浮かんでいた死神の姿が消えていく。
「握手はいつでも出来ます。何かもっと別な、もっと大きな希望を考えてください! せっかく両親がアルフさんに何かしたいと言っておりますので」
「大きな希望と言われましても」
アルフレッドは離された右手を首の後ろに添えて、困ったように苦笑する。しかし改めて姿勢を正すと、アルフレッドは笑顔を消して父と母、そして最後には真っ直ぐにゾーイを見つめた。
「大きな希望は、ゾーイ嬢と結婚して夫婦になり、共にコーイック城を護りながら人生を過ごしたい。それだけです」
父の、感動と喜びが込められた息を吐く音。母の、「アルフさん……」と感極まった声。喜びを隠さない両親に、アルフレッドはもう一度顔を向けてかすかに微笑みを浮かべている。
アルフレッドに握られた右手を左手でぎゅっと掴みながら、ゾーイは唇を少しだけ噛んだ。
もう三カ月も経った。三カ月後には結婚式、その後はすぐに夫婦として社交界へ出なければいけない。十分すぎる程に分かった。アルフレッドがどれだけ真剣な想いで、覚悟の上で結婚したいと申し出てくれたかを。
アルフレッドと良い夫婦関係を築きたい。
彼とならばきっと出来る。
だからこそ――
「お父様、お母様。お願いがあるの」
ゾーイはソファから立ち上がり、正面に座る両親に立礼した。
「非常識だとは重々承知の上ですが、どうしても確かめたい事があるんです。いつでも構いません。結婚式を挙げる前に一度だけでも、アルフさんとふたりきりでお話する時間をいただけませんか?」
室内は静寂に包まれたが、それはほんのわずかな時間だけだった。
ゾーイ、と父に呼ばれて顔を上げる。
きっと注意されてしまうと思っていたゾーイの予想に反し、父はにこやかに笑っていた。母までも、なぜか嬉しそうに破顔して、両手で口元を隠してしまっている。
「いつ以来だ? ゾーイが私達に対して頼み事らしい頼み事をするのは。病を患う前……子どもの頃以来か。なぁ?」
父が母に同意を求めると、母はすぐに大きく首を縦に振った。あなた、と父の袖をつまむと、父も頷いて、そのまま二人は立ち上がった。
「あまり夜遅くならないように。アルフ殿、部屋に戻る時はゾーイを送り届けてやってください」
アルフレッドの瞳が大きく見開かれる。しかしすぐに立ち上がったアルフレッドは「はい」と返事をした。
まさか両親に一言も注意されることなく承諾が貰えるとは思わなかったため、ゾーイは少々狼狽えてしまった。
「お父様、本当に良いの?」
「もちろん。結婚式まであと三カ月だ。何か心配事でもあるのなら、きちんとアルフ殿に相談しなさい。二人きりは確かに許されるものでは無いが、ここは王城でも他の屋敷でもなくコーイック城で、相手がアルフ殿だからこそ私達も許すことが出来る」
それだけじゃないわ、と母はゾーイに向けて片目を瞑って言葉を続ける。
「ゾーイは真剣に未来を見据えて、考えているのよね。私達の前ではどうしても、こどもの頃の友人の感覚になってしまうのでしょう? アルフさんはゾーイの体調を常に気に掛けてくれているわ。あの心配性のキーナが、アルフさんの事を心配性な人って言う位によ? そんなアルフさんが、ゾーイの体調や心に負担をかけるような行いはしないって、私達は信じているから」
母はゾーイの元へと歩み寄ると、額にキスをした。
おやすみ、とにっこりと笑った後、アルフレッドに対してゾーイをよろしくお願いします、と声をかけた。
両親が退出し、ゾーイは閉じられた扉を立ち尽くしたまま呆然と眺めていたが、ゆっくりと顔を動かして横に立つアルフレッドを見上げた。
アルフレッドも立ったまま両親を見送っていた。やがて、扉に向けられていた視線がゆるやかにゾーイへと下ろされていく。
「確かめたい事というのは何でしょう?」
いきなり核心をつく質問をされ、ひゅっとゾーイは息を呑んだ。アルフレッドはそれ以上、何も喋らない。静かにゾーイの言葉を待ち続けている。
耳鳴りがしている。
訪れた機会。今夜分かる。アルフレッドの考えが。
このまま嘘を突き通した上で結婚するつもりなのか。
それとも嘘を嘘と認めて、理由を明かしてくれるのか。
どちらの選択をされても、ゾーイの意思は変わらない。アルフレッドと結婚するという決断を覆すつもりはない。覚悟は決めているのだから。
けれど、叶うのであれば。
アルフレッドという人を心から信頼したい。
「私がこどもの頃に王城で一緒に遊んでいた友人は、アルフさんではなくお兄様のヘデン卿です。なぜ、ヘデン卿もハルク様も、アルフさんも、私に嘘をつくのですか? 事実は誰にも他言していませんし、婚約を破棄するつもりもありません。嘘をつかれた事に対して誰も恨んでいません。ただ、理由を知りたいだけなんです」
アルフレッドはゾーイの視線から離れるように、一瞬だけ目を伏せた。
しかしすぐに向けられた瞳からの眼差しは、一点の迷いも葛藤も無い。まっすぐな、いつもの彼らしい力強さを宿していた。
「誤解しています。昔、王城で共に過ごしたアルフレッドは私です」
一縷の望みは、あっけなく崩れ去っていく。