9 別れ
ヘデン伯爵と名乗るアルフレッドの言葉に、ゾーイは頭部を殴らたような衝撃を受けた。
なぜ嘘を?
アルフレッドはゾーイの身体から両腕を離したが、そのまま左腕を折り曲げて差し出してくる。掴まって、と言いながら笑顔を見せる様子はエスコートする紳士そのものだ。
「こんな場所にいてはいけません。戻りましょう。部屋の場所が分からないので、教えて頂きたいのですが」
口ぶりはやはりアルフレッドではなく、あくまでもジークレッドとして話してくる。
しかしゾーイは、彼がどんなに以前の彼らしくない振る舞いをしたとしても、間違いなくゾーイの知っているアルフレッドはこの人が正解なのだと信じて揺らがなかった。
いつまでたっても腕をとることなく、責めるように見上げるゾーイに対してアルフレッドは苦笑を浮かべた。さぁ早く、とそのまま無遠慮に右手をとられ、強制的に彼の左腕を掴むように導かれてしまう。
「奇跡の快方に向かっているというのは真実だったのですね。アルフレッドから聞いていた印象そのままのゾーイ嬢とお会いできて嬉しく思います。部屋は二階にあると聞いていたが、本棟に?」
「……いいえ、東棟です」
ゆっくりと歩き出すアルフレッドに並んで、ゾーイも彼のエスコートに従って左腕を掴んだまま同じように歩き出す。
ざわざわと心が落ち着かなかった。
「アルフさん! なぜ嘘をつくのですか?」
「ジークレッドですよ。私の弟の大切な婚約者に嘘をつくなどあり得ません」
「いいえ。あなたは間違いなく私の友人で、婚約者となったアルフさんです。別人だとはどうしても思えません」
「これは困ったな。双子ではないが似すぎている兄弟というものも」
アルフレッドは首元に手を伸ばす。
チェーンを掴んで取り出したのは、絵入りと思しきロケットペンダント。パチンと表蓋を開けて、中をゾーイの方へと向けてくる。
赤茶髪を美しく結い上げた一人の女性が描かれていた。
「彼女の名はテレサ。私の、唯一人の愛する妻です」
ゾーイの瞳は美しい女性の絵に釘付けになった
本当に彼がジークレッドだと言うのならば、もう一つの信じたくない可能性に辿り着いてしまう。その可能性以外に何も正解が分からない。
初めて会った十年前のあの日から、彼は嘘をついていた。
一緒にいたハルクも。十年間ずっと嘘をつき続けた挙げ句、今もその嘘を明かすつもりがない。
彼は、自分をアルフレッドだと偽り続けたジークレッドだという事になる。
アルフレッドだと信じていた、親しい友人だと思っていたジークレッドの左腕を掴む右手に、ゾーイは少しだけ力を込めた。
「私はアルフさんと……アルフレッド様と、二年前まで手紙のやり取りをしていました。もしかしてジークレッド様が代筆を?」
「とんでもない。代筆をする理由もありません。アルフレッド本人です」
「どうしたらそのお言葉を信じることが出来るか、今の私には分からないのです」
「まだ疑っているのですか? 筆跡がまったく違います。クシュケット卿の元に私が書いた書状がいくつかある筈です。ゾーイ嬢宛に届いたアルフレッドからの手紙と字を見比べてみたら、すぐに違うと分かりますよ」
会ったこともない人を友人と思い込んだまま手紙のやり取りしていた事実に、ゾーイはついに緊張と驚きの糸が切れてしまった。
嘘をつかれていた。騙されていた。
信頼していた友人の二人に。
会ったこともない婚約者となった人に。
真っ先に怒りがこみ上げても何もおかしくはない筈なのに、意外と冷静でいられた。まったく怒っていない訳では無い。怒りの感情以上に、圧倒的に、戸惑いと疑問が大きすぎている。
しばらく無言のままうつむいて歩いていたゾーイは、やっとジークレッドを見上げる事が出来た。何の罪悪感も抱いていない様子の彼と視線が重なると、ペンダントをしまいながら、彼はやはり人好きの良い笑顔を浮かべてこちらを見下ろしてくる。
十年間も知らなかった。
この人がこんなにも人懐こく笑う人だったなんて。
「……あの」
「何でしょう?」
「ご結婚。おめでとうございます」
彼は面食らったように反応したが、すぐに先程と変わらないような明るい笑顔を浮かべた。
「ありがとう」
幸運な事に誰にも見られることなく部屋の前に到着し、ゾーイは借りていた上着を脱いで彼に手渡した。彼も手持ち燭台をゾーイに返そうとしたが、ゾーイは断った。
「ヘデン卿は昔から自由奔放なお方でしたね。アルフレッド様からもお話を聞いていましたよ? こどもの頃、アルフレッド様はちゃんと控えの広間で留守番をしていたのに、ヘデン卿は一度も私の前にお姿を見せる事がありませんでした。今も、お部屋を出たのは夜のコーイック城の探索をしたかったからですか?」
「ああ、やはり。私の楽しみを知られてしまっていたのですね?」
「灯りも無しに歩くのはさすがに危ないです。持っていて下さい。お父様達には秘密にしますから、今こうして二人きりでお会いしてしまったことも……」
「無かった事に。明日の朝にお会いする時こそが、本当の『はじめまして』で良いですね?」
「そうしていただけると助かります」
「私もだ」
二人はひとしきり苦笑しあったが、やがて彼は笑顔を収めてゾーイを見つめた。
「アルフレッドの妻となってくれる人があなたで良かった。私からゾーイ嬢に、心からの祝福と感謝を」
姿勢を正し礼をつくし、祈るように言葉を述べている。
ゾーイはぎゅっと唇を噛み締めながら少しだけ顔を伏せてしまったが、すぐにまたジークレッドを見上げて微笑んだ。
「ありがとうございます」
足早に立ち去っていく彼――ジークレッドの背中を、その姿が見えなくなるまで見送る。視界から完全に消えたあと、ゾーイは自分の私室に入って静かに扉を閉めた。扉に背中をもたれさせて、そのままゆっくりと床に座り込んでしまう。
真っ暗な部屋で見上げた先にあるのは、飽きる程に長い年月、見つめ続けた天井。しばし見上げ続けたゾーイは、両膝を折り曲げて両腕で抱え込んで、身体を丸めて目を閉じた。
十年間も嘘をつかれた挙げ句、その嘘を貫き通す姿勢を見せられてしまったのにも関わらず、恨む感情が湧いてこない。
真実を知り、改めて本人の口から結婚の報告をされた時。
自分の口から伝えた言葉は素直な祝福だった。
おめでとう、と心から思えた。
ジークレッドもハルクも、会ったことのないアルフレッドのことも、誰も恨めず、嫌いになる事も出来ないとゾーイは悟ってしまっている。
蘇る記憶は幼い頃の楽しかった日々。
手紙をのやり取りで救われた日々。
嘘つきな彼等によって笑顔でいられた。生かされていたのだと、ゾーイはそう思ってしまう。騙され続けていたという真実に自分自身が傷付きたくないから、都合の良いように解釈しているだけなのだろうか、とも考えた。
しかしやはり、そうではない。
はじめて会った瞬間から、ジークレッドが己をアルフレッドだと名乗る嘘をつき、最後まで頑なにその嘘を認めようとしない態度が、どうしても気になってしまう。その嘘を、ゾーイ以上に彼との関係性が深く、親しくしていたハルクが協力者になっているという点も気になる。
何か事情があるのかもしれない。
その事情のせいで、嘘を明かすことが出来ないのかもしれない。
ヘデン伯爵とベスティリ侯爵が裏で悪い意味で繋がっていて、クシュケット子爵家を陥れようとしていた?
単純な嫌がらせ?
ただただ幼心にからかおうとしていて、後に引けなくなった?
どれも全部違う気がする。
「姫、ここで寝るな」
「! 寝てないわ!」
勢いよく顔を上げて、ハッとゾーイは口をつぐんだ。
普段では絶対にあり得ない程近くの場所に、フードを深く被ってマントで全身を包み込んだ死神が、暗い室内に溶け込むように立っている。小さな歩幅で一歩踏み出してしまえば触れてしまえる距離に。
死神のマントの裾を見て、少しずつ視線を上へと動かす。
高い位置にある仮面の二つの穴はゾーイを見下ろしていた。
「一日に二回も姿を見せてくれたのは初めてね。本当にずっとそばにいてくれたの?」
「……」
「否定しないのね」
「……」
「死神さん? 近いわ。熱くない? 苦しくはないの? 大丈夫?」
死神は何も喋らなかった。
無言のまま跪き、そのまま前合わせのマントの隙間から両腕を伸ばしてくる。ゾーイの言葉には返事をしないまま、驚くゾーイの背中に死神の両手が触れた。
ゾーイはそのまま死神に抱きしめられていた。
息苦しさを感じてしまいそうな程に力強く。
以前、死神の手を握っただけで、そのあまりの冷たさに驚いてしまった事を思い出す。しかし今は何も感じなかった。温もりも冷たさも。
人が相手ならば感じるであろう筈の香りや鼓動も何も感じない。
頬に触れるマントの布の感触だけが、ゾーイにとっての死神の存在の全てだった。
「し、死神さん?」
想いを寄せる相手に抱きしめられているのに、ゾーイは焦ってしまっていた。あまりにも死神らしからぬ行動に酷く動揺している。
押し寄せてくる感情は喜びでは無い。
言葉に出来ない恐怖心。
漠然と、嫌な予感がして、ばくばくと胸の中が早鐘を打っている。
「どうしたの? 今日はずっと変ね」
夏の暖かな季節が嘘のように空気が冷たく感じている。
死神からはまったく体温が感じられないにも関わらず、こうして強く抱きしめられているのに、冷たく寒く、痛くて苦しい。
「私に触れても死神さんは苦しくなくなったの? それなら私もよ。前は冷たくてびっくりしたのに、今は全然冷たく感じないの。不思議ね」
駄目。まだ。私のそばからいなくならないで。
最期の瞬間まで毎日、あなたの姿をちゃんと見せて。
ゾーイは声に出して言いたくても、そうは出来なかった。
もしも本心を悟られてしまったら、アルフレッドとの縁談を祝福してくれている死神を困らせてしまう。そもそも彼にとっては対象者でしかない人間に告白されるとは、想像もしていない筈だ。
ゾーイの両手は、自然と死神の胸元のマントを強く掴んでいた。
普段通りを心がけて明るく話しかけているつもりだが、情けなく声が震えそうになっている。
嫌な予感だけが大きくなっていた。
「姫を死後世界に導く役目は、私ではなくなった」
死神は告げる。
ゾーイを抱きしめる両腕の力が弱まる事は無かった。
「……ど……どうして?」
「死期が一ヶ月後ではなくなったからだ」
「死期は定められていて、変わらないんじゃなかったの?」
「本来はそうだが、最初からおかしな事だらけだった。対象者の姫に姿を見られ、会話も成立し、感じるはずのない熱を感じていた。私にとっては、本来ならば起こり得ない事ばかりが姫に出会った時から常に続いていた。死期が変わったとしても今更もう驚かない」
「い……嫌。死期が早まっても遅くなっても、私は死神さんに魂を導いて欲しい」
「魂は迷わない。新たな死期に別の者が姫の魂を導く」
「違うわ! 私が言いたいのはそうじゃなくて……!」
死神の両腕の中でゾーイは全力でもがいた。
消えてしまわないようにマントを掴んで離さないまま、仮面がくっついた青白い顔ときちんと対面して話がしたかった。しかし、死神の身体が全力で拒んでいる。顔を見せようとしない。
力強い抱擁を解く気配がない。
こんな状況でなければきっと浮かれていた。喜んでいた。心惹かれた存在に抱きしめられたら嬉しいに決まっている。
それなのに、こんなにも。
「私は死神さんが! あなたが……」
あなたが好きなの――言うことが、やはり出来ない。
「ゾーイ」
背中に回されていた死神の右手が動いて、ゾーイの後頭部を包み込むように優しく触れた。
「ありがとう。出逢えて良かった」
噛み締めるように告げられた言葉を聞いた瞬間、マントを掴んでいた筈の両手が、死神の身体をすり抜けていく。ゾーイの身体は前のめりに床に倒れこんでいた。
慌てて上半身を起こして、両手は床についたまま周囲を見渡す。立ち上がりたくても、足が震えて立つことが出来ない。すぐ近くにいてくれていた筈の死神の姿は完全に消えていた。
「死神さん!」
姿を見せる事もなく、返事もない。
死神を呼ぶゾーイの声だけが虚しく室内に響いている。ただただ真っ暗な部屋の中は、不気味な程に静かだ。
当たって欲しくは無かった嫌な予感がその通りになってしまったのだと理解出来るのに、時間はかからなかった。
「どうして……!?」
ずっと呼んでほしいと思っていた名前を、お別れの餞のように、最後の瞬間に呼ぶなんて。
ありがとう? 何のこと? 結婚を決めたこと?
もう二度と死神には会う事が出来ない現実は、ゾーイを絶望へとあっけなく突き落とす。泣きたくなる時があっても泣かずに笑顔でいられた自分は、死神が消えてしまった瞬間にいなくなっていた。
視界が揺らぐ。
大粒の涙が溢れ、ぼろぼろと頬を伝い落ちていた。