終電
その日、一人の男が終電に乗った。首からかけられた社員証には名前が載っている。原田圭介。秋田の田舎から上京していまは社会人だ。
俺はブラック企業で働いている。ブラックといっても金はでる。働いた分の給料はでるが、朝は8時出勤で夜は23時を超える。だから、いつも終電で帰るわけだ。
(今日はやけに空いているな……)
腕時計を確認する。時刻は23時10分。このところよく眠れていない。この生活も6ヶ月目にはいる。同僚には「お前は早死にする」と念を押されたばっかだ。だが、手取りは30万円だ。会社のストレスも家で酒を飲めば帳消しにできる。
ふと周りをみると、何人か乗っていた。高校の制服を着た女子高生、シルバーカーを握ってうとうとしているおばあさんに、中年ぶとりした禿げた男性。
(まあ、座れるだけラッキーだ)
俺が車両に座ると電車は発車した。目をつむると眠ってしまいそうなのでいつも電車の外を眺めている。とはいってもこの電車は地下鉄なので、景色がいいわけではない。
目線だけ動かす、正面の右斜め前には女子高生がいた。必死にスマホを苦悶の表情で眺めている。最近は、逆にスマホをもっていない女子高生の方が珍しいくらいだ。目があった気がした。疑いをかけられないようにすぐに目を逸らした。
(こんなところで痴漢冤罪なんて食らってたまるか)
「ほらほら、けいちゃん。いい子にするんだよ。あら、かわいいね。お利口さんだね」
右隣りから声が聞こえた。俺と三人分の間をあけて座るシルバーカーを握るおばあさんだ。
(子供でもいるのか?)
視線をシルバーカーに向ける。俺は以前までこのシルバーカーを乳母車と勘違いしていた。シルバーカーは杖と同じように歩行を助けるものだ。シルバーカーは杖と違って荷物がのせられる。だが、乳児など赤子を乗せられる設計ではないはずだ。俺は目をすぼめてシルバーカーに乗っているものをみようとした。毛布にくるまれた肌色の何か……ここからではよく見えない。
(あれは……人形なのか? このおばあさんは人形に話しかけていたのか?)
こういうのには関わらないほうがいい。関わったら関わった分だけ災いが降りかかる。だから、俺は無視することにしている。
(さわらぬ神に祟りなし、と)
正面には中年ぶとりした禿げた男が座っている。今日はやけに空いているのに、女子高生の隣りに座っていた。痴漢までとは行かないが、目の保養、匂い。若い娘をみたら自然と寄ってしまう。案の定、中年ぶとりした禿げた男は鼻息が荒い。
女子高生はスマホに夢中で気づいていないようだ。
俺は軽蔑の視線で男性をみた。男の気持ちがわからなくはない。俺だってできるならそうしたい。俺は理性で我慢している。だから、理性をすてて欲望のままに行動する人間を心の中で軽蔑している。
(俺もいつか目の前のおじさんのようになってしまうのかな)
それから数分たった。
俺は電車の音に耳を傾ける。ガタンゴトンガタンゴトンキキー。金属がぶつかる音とこすれる音が聞こえた。茫然と外の景色を眺める。電光掲示板に流れる文章を目で追う。いつも終電はこんな感じで過ごしている。とくに趣味もないしやることもない。帰って酒のんで寝て仕事、その繰り返しだ。
何かをあやしているおばあさん、スマホに夢中の女子高生、その隣りの中年ぶとりした禿げた男は眠りこけたのか、女子高生にもたれるように脱力した。女子高生は顔を歪めて嫌がっていた。でも知らないおじさんという恐怖からか顔をこわばらせたまま、どかそうとはしなかった。
(はあ、さわらぬ神に祟りなしだぞ、俺)
俺は大きくため息をついた。
目の前のトラブルもそうだが、俺の隣りではそれ以上のトラブルが起きていた。
「まあ! けいちゃん。あんよがじょうず! あんよがじょうず!」
隣のおばあさんの独り言が大きくなっていた。
(独り言、まあ、本人にとっては誰かと会話しているのかも)
認知症だろう。そういえば俺の祖母も認知症で老人ホームにいたっけ。たしか5歳のころに母に連れられて会いに行っていた。うろ覚えだがそんな記憶がよみがえった。老人ホームに誰かに会いにいっていたのは覚えているが、誰に会いにいったのかは覚えていない。幼稚園のころの記憶なんてそんなものだ。
(なんでいまこんなことを思い出すんだ……)
なんとなくそのおばあさんの顔をみた。横顔だったからよくわからなかった。
「もういい加減にしてください!」
電車の中に若い声が響いた。たぶん、女子高生のものだろう。痺れをきらした女子高生が中年ぶとりした禿げた男に怒っている。そう思って声がした方に目をむけた。女子高生はシートから立っていた。
中年ぶとりした禿げた男は眠っているのか、女子高生が座っていたところに倒れるようにして横になった。
(おいおい、爆睡か?)
「先生、なんで信じてくれないんですか?」
(先生?)
俺は眉をひそめて女子高生をみる。
女子高生はシートから立って、空中に向かって話していた。
一人で会話していた。
「本当なんです。……はい。そうですけど……」
(はあ。この娘もさわらぬ神に祟りなしだ……)
女子高生は、その場に立ったまま顔を伏せる。だらりとした髪が女子高生の顔を隠した。電車に突っ立ている女子高生は顔を伏せたまま、つり革さえもっていない。電車の揺れにあわせて、ゆらゆらと揺れていた。いつ倒れてもおかしくなかった。それでも、奇妙なくらいにバランスを保っていた。
よくみるとその制服は俺が通っていた学校の制服だった。はっきりいって母校の制服なんて覚えていない。女子の制服なんてなおさらだ。男の友達はいたが、女の子の友達はいなかった。たまに行事で話すくらいだった。
あいにく俺がいたグループは隠キャの集まりだった。モテない男たちが集まって、ゲームの話やらアニメの話をした覚えがある。
異性に興味がなかったわけじゃない。思春期の俺でも好きな女子はいた。でも、最終的に話かけることさえできなかった。
(てか、なんでいまごろ思い出すんだ……)
異性と仲良くしたのは中学が最後だった。小規模な田舎の中学で、2クラス程度しか生徒がいなかったから自然と女子と話せた。下心ない純粋な会話をしていた。男子に向かって馬鹿言うように女子に向かって馬鹿言っていた。それでみんなで大笑いした。
高校に上がるにつれ、俺は変に異性を意識しはじめた。中学で仲良かったやつらはみんな別の高校へ進学したから、高校の初期は孤独だった。
(そういえば俺と同じ高校に進学した女子がいたな。中学でもあんまり話さなかったから高校でも話しかけなかったけど)
高校では、俺はなんやかんやあって隠キャグループに溶け込んだ。けど、一緒の中学だったあの子はどうだったんだっけ? 時折、廊下ですれ違うくらい。中学で顔見知りでも俺から声をかけることはなかった。
(確か自殺したんだっけか)
次にあの子の顔をみたのは遺影だった。自宅で首を吊っていたらしい。
きっと孤独だったんだろう。知り合いのいない教室で、孤独を感じたあの子は、時折、廊下ですれ違う俺という顔見知りに希望をみていたのだろう。でも、それは叶わなかった。俺が話しかけなかったからだ。
友達もつくれず、顔見知りにすら無視されたあの子は居場所を失って学校に来なくなった。それだけじゃなく、あの子の裏でトラブルがあったのは噂できいた。でも、何かあったらしいくらいの情報しか知らなかった。
そして、あの子は首を吊って自殺した。
(学校で俺が声をかけたら何か変わっていたのかな)
いまごろになって昔のことを思い出す。俺はそうとう疲れているらしい。ガタンゴトンガタンゴトンと電車の走る音が聞こえる。
何かをあやしているおばあさん、突っ立ってゆらゆらと動く女子高生、眠りこけたのかシートに横になる中年ぶとりした禿げた男性。
(ってか、まだ着かないのか? もうそろそろ駅についてもいいころなんだけど)
腕時計を確認する。時刻は23時15分。電車が出発してから五分しか経ってなかった。
そこでようやくおかしなことに気づいた。茫然と眺めていた外の景色は同じ光景を繰り返している。電光掲示板には、おなじ文章が永遠と流れていた。
(あれ? ちょっとおかしくないか?)
俺は気が動転した。いつもの帰宅なのにいつもと違う。
中年ぶとりした禿げた男が電車の揺れでひっくり返るようにシートから転げ落ちた。その顔は青白く、泡を吹いていた。
(おいおい、まじかよ。あれ死んでるんじゃないか?)
そのとき、俺はようやく気づいた。俺は目を見開いた。むしろ、なんで今まで気づかなかったのかとさえ思った。
そのおばあさんは、俺が幼少のころ老人ホームであっていた祖母の顔だったと。あやしていたけいちゃんとは俺のことだと。
その女子高生は、高校のとき俺が話しかけなかったあの子の顔だったと。ゆらゆらと動くのは何かに吊られているのだと。
そして、なにより、その中年の男性の顔は俺のよく知っている顔だったと。
車窓に反射して映った自分の顔をみる。
「けいちゃん」
「けいすけくん」
「圭介」
ガタンゴトンガタンゴトンキキー。金属がぶつかる音と、こすれる音が電車内に響き渡った。
「お客さん! お客さん、ちょっと!」
俺は揺り動かされるようにして車掌に起こされた。
(夢? 寝てたのか? いつも終電で帰っても電車で寝ることはないのに。やっぱり、俺はそうとう疲れているのかな。明日、上司に休暇の相談してみるか)
その日、一人の男が駅にて死んでいた。第一発見者は駅の車掌であった。終点にもかかわらず、眠りこけた男性を揺り起こしにいったとき、泡を吹いて冷たくなっていたという。男性の身元はすぐにわかった。男性の首にかけられた社員証に名前が載っていた。
原田圭介。
死因は過労による心臓発作だった。