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「何事だ」
突然、背後から兵士が現れた。兵士と言っても、汚い革鎧を着て剣を差しているだけの青年団のようなものだ。髪の毛は脂にまみれ、手や顔は泥にまみれている。これが祖国であれば、このような身なりの兵士はすぐに粛清されるだろう。
グレーザが地下への入り口の扉を閉めるのと同時だった。すでに、子供もモニトルも地下室である。
「悲鳴のようなものが聞こえたようだが」
アロイスは振り返って、努めて穏やかに言った。
「ちょっとたき火をしていただけだ」
「なんだこれは」
兵士が磔刑台を見て言った。
「これは、我が国の神だ。こうやって祀るのがしきたりでね」
「ふうむ」
この国の兵士は、兵士とは言えないようなチンピラ然とした男たちだ。それにしては、宗教色が強いことを知っている。でなければ、ただの女郎屋とはいえ、あの背中から腕の生えている男が生きていられるはずがない。このような閉塞したコミュニティの中で迫害を受けずに済むはずがないのだ。それは祖国が証明している。気に入らなければ民族ごと浄化されるのである。
「だめだな」
兵士は汚らしく顎に伸びた無精髭をなでた。
この目を知っている。下卑た目だ。
「司令官にご報告しなくちゃあなあ」
舌舐めずりをして、アロイスを見下ろすように見る。
アロイスはため息をついた。
「賄賂……か」
「まあ、そういうこった」
「あいにくだな。私はこの国の金を持っていない」
「ああ?」
兵士は眉間にシワを寄せた。
まずいな――そう思った次の瞬間、衝撃を顔面に感じた。痛みを感じたのは地面に這いつくばったあとだった。グレーザは地下室にいるのだろう。今は自分を守る盾がない。
続けて腹に衝撃。先の尖った軍靴である。靴だけはまともなものを履いているらしい――などと感心している場合ではなかった。いやというほど足蹴にされた。
「つまんねえなあ」
ようやく蹴り飽きてくれたかと思ったが、兵士はうずくまっているアロイスの襟首を掴み引きずった。抵抗を試みるも、アロイスの細腕では、未開の地の兵士をやっているような荒くれ者に対抗することは不可能だった。
クソ――まだモニトルから話を聞いていないのに。ようやく奴の心を折ったというのに。これからが本番だというのにこんなことをしている場合ではない。
果たして連れて行かれのは、荒くれがたむろする酒場だった。店中に質の低いアルコールの臭いが充満していた。
「おい、いつからそんな趣味になったんだ?」
筋骨隆々な男が兵士に向かってグラスを持ち上げた。周りの男たちが下品に笑う。
「お前たちのために新しいおもちゃを持ってきてやったんだぜ」
兵士がアロイスを放り投げる。起き上がろうとすると、兵士が横から蹴りを入れたので、再びアロイスは床を筋骨隆々な男の足元に転がった。男がアロイスの尻を撫でる。
「おい、ムスケル。丁寧に扱えよ」
ムスケルと呼ばれた筋骨隆々の男は、舌舐めずりをした。慌てて飛び退くが、丸太のように太い彼の腕に捕まえられると逃げられない。
「俺は気に入ったものは丁寧に扱うぜえ。いっつも壊しちまうのはお前のほうだろう、グエン」
ムスケルがアロイスの頬を舐め回す。生臭い息が鼻先をかすめる。吐き気がした。
なるほど、こういう嫌悪感を与えるというのも相手を苦しめる方法の一つだな――アロイスは呑気に新しい拷問について考えていた。
戦争をしているとき、軍服を着ていてもいなくても、荒くれ者の標的になることがあった。彼らは軍人への深い憎しみと嫉妬を秘めている。汚れ仕事ばかりやらされるからだ。そんな彼らの鬱屈した標的になるのは、二等兵などの若者だった。そんな彼らの気持ちは、きっとこんな感じだったのだろう。
理不尽だ――。そう、理不尽なのだ。世の中は、人生は理不尽だ。
「あ?」
ムスケルが素っ頓狂な声を上げる。脚から力が抜け、その場に崩れ落ちた。彼の腹にはハサミが刺さっていた。先程モニトルの妻をバラしたハサミだ。
「てめえ」
それまでにやけた顔で眺めていた観衆が、にわかに殺気立つ。
「理不尽だ」
「なんだと?」
「ああ、理不尽だ。そう思わないかね」
アロイスがもう一本ハサミを取り出し、その切っ先に指を這わせる。鋭利な刃は指の薄皮を綺麗に裂いてゆく。
「何いってんだこいつ」
男たちが酒瓶を割り、その切っ先をこちらに突きつける。
理不尽だ、ああ、理不尽だ――歌うようにアロイスはつぶやく。まるでそこがステージの中心であるかのように、軽快に脚を進める。
ポケットから小瓶を取り出した。
「これにて、閉幕」
男たちが飛びかかってくるのと、アロイスが小瓶を床に叩きつけるのとが同時だった。一瞬にして、その場が耐えきれないほどの臭気で満たされる。炭酸アンモニウムだ。そのあまりの臭いの強さに、彼らの戦意は一気に消え去ってしまった。慌てて全員が我先にと店から飛び出してゆく。
アロイスが高笑いをする。もちろん、涙目になってすぐに咳き込む。しかし、彼らよりも少しばかりの耐性はある。
「卑怯かもしれないが、私には戦闘力がないのでね」
誰もいなくなった店の中で呟く。




