8
アロイスがつぶやく。その言葉に、マヌは一瞬表情を変えた。動揺――いや、あれは恐怖だ。何を恐れている。
「いつ、あたしが男だと言った?」
マヌは舌打ちをすると、ゆっくり戦闘態勢を解いた。グレーザが彼女を開放した。戦闘の意志はないと判断したのだ。彼女は服を直す。
たしかに、誰も監視を男だとは言っていない。しかし、男二人につける監視役が、まさか女だとは誰も思うまい。それに、彼女はまるで男のように振る舞う。
グレーザはマヌから視線を外さずに、アロイスの後ろに立った。
「貴様も薬を利用するためにやってきたのだろう」
彼女が崩れ落ちるように勢いをつけて椅子に座ると、椅子がギシギシと悲鳴を上げた。マヌはまるで虫でも見るような目でアロイスを見た。
「その言い分だと、今までもそういう輩が来たことがあるということか」
「来たことがある、なんてものじゃない。いつだって、そういう奴しかこんなところへは来ないね」
まあ、そうだろうな――そう言いたくなるのをこらえた。こんな村、もし祖国の高官が見つけたら喜ぶだろう。特に、あの指導者が見つけたら。
家の窓から外が見えた。村人が歩いている。体が紫色をしていて、背中から腕が生えていた。
「ここの村人は、皆、ああいう性質なのか」
「ああいう性質って?」
馬鹿にしたようにマヌが言う。
「醜いって事かい? それとも、あんたのように高貴な四肢を持っていないことかい?」
彼女はポケットから煙草を取り出した。マッチを擦って火をつけると、煙を深く吸い込んで口の端を歪めながら煙を吐いた。紙巻き煙草だ。この世界に来てそれを見たのは初めてのような気がする。
「どっちもだ」
少しも悪びれる風もなくアロイスが言う。マヌは一瞬苦々しい顔をしたが、すぐに表情を戻した。それでも、イライラしたように貧乏ゆすりをする様をアロイスは見逃さなかった。
机の上に放られた煙草入れから、アロイスがタバコを一本抜き取る。マヌは目だけでそれを見ていたが、咎めなかった。まるで自分のもののようにゆっくりとタバコを咥え、マッチで火をつける。祖国にいたときも稀にマッチを使っていたが、普段はオイルライターを気に入って使っていた。
アロイスが不味そうに眉間にシワを寄せる。元の世界で吸ったどの煙草とも違う。一体、何の葉なのか。土の味しかしない。
酸素とともに、深く煙を吸い込む。肺に煙が満ちてゆくのがわかる。肺胞の一つ一つが悲鳴を上げる。こんな異物を持ち込むなと喧々囂々だ。
二酸化炭素とともに深く煙を吐き出す。肺の中から煙が搾り取られてゆく感覚。肺胞がホッと吐息をつく。ホッとしたのもつかの間、再び煙を流し込む。
「美味そうに吸いますね」
グレーザが言う。メガネをくいと持ち上げた。
自分がどんな顔でタバコを吸っているかなんて、想像してみたこともなかった。
手近にあった空の花瓶のようなものに灰を落とす。ふと、マヌを見ると彼女は足元に灰を落としていた。これだから知性のない人間は困る。誰が掃除をすると思っているのだ、とグレーザに同情した。
ロバのような、ヤギのような動物が窓の外を通った。
「この国は独特だな」
祖国に似ている――そこまでは口にしなかった。
「ここは、この世の果だからね」
マヌが煙を吐き出し、机にタバコを押し付けて火を消した。「この世界のすべてから拒絶されたものが行くつく果てだ。ここより下は存在しない。最果ての地だ。想像してみろ、貴様らが捨てたゴミの行き着く先を。それがここだ」
「だから、粗悪な薬に手を出すのも致し方ないと」
彼女が薬物中毒者であることはわかっていた。彼女の瞳孔の開き方、饐えた体臭。常にイライラしている様子も、薬物中毒者の特徴だ。
マヌは床に唾を吐く。
「それも貴様らのせいだろうが。それをここに押し付けて、自分たちはのうのうとその利益をかっさらう……」
「それの何が悪い」
アロイスが彼女の言葉を遮って言う。
「それが我々エリートの特権だ。悔しかったら高貴な血に生まれ変わるんだな」
マヌは唇を噛んだ。
「おまえたちはいつもそうやって……」
マヌは机を殴って立ち上がった。
「もしくは……」
その様子を見て、アロイスは言いかけてやめた。
「なんだよ」
マヌが机に覆い被さるようにして、身を乗り出した。そのままアロイスに噛みつくのではなかろうか、とグレーザは思った。アロイスは彼女を避けるつもりも、それ以上言うつもりはないようだった。
「バカにしやがって」
マヌはアロイスの顔につばを吐き、椅子を蹴り飛ばした。
そのとき、外から大きな音がした。イスを蹴り飛ばしただけで、何か爆発でもしたのかと驚いたが、そうではなかった。隣の家が燃えていた。
マヌがその光景を見て目を見開く。この世の憎しみを凝縮したような表情で外を見た。アロイスが声をかけようとしたが、その前に弾けるように彼女は外へ飛び出していった。
アロイスも外に出てみると、火の玉のようなものが降ってきていた。村人達はわめきながら右往左往している。
「おい、これは何だ」
村人を捕まえて問うてみると「災害だ」と答えた。
災害だと――? 火山の噴火だろうか、と考えている内に再び火の玉が飛んできた。
確信した。これは魔法だ。村人達は魔法を知らないのだろうか。
「これは魔法だ。誰がやっている」
尋ねても、これは災害だと答えるばかりだった。どの村人を捕まえてみても、反応は同じだった。
「一体、何が起こっている」
どこか遠くでマヌの叫び声が聞こえた。火の玉はもう飛んでこなかった。




