おうひさまのかがみ
僕には幼馴染みがいる。
「鑑、鑑」
僕の隣に立って僕の制服の袖を引いているこの子である。
「ねえ、鑑ってば」
ちなみに、連呼されている「鑑」っていうのが僕の苗字だ。
「なんだよ」
振り返ってそう尋ねるけれど、用件は既に分かっている。
案の定、振り返った僕の眼差しを捉えてにっこりした彼女は僕から数歩離れて胸を張った。
「私、可愛い?」
僕は上から下まで彼女を検分した。
学校指定の紺のブレザーとブルーグレイのグレンチェックのプリーツスカートを着こなす完璧なスタイル。元々の癖っ毛を上手くいかした、つやつやしたヘアスタイル。ぱっちりした目許と大きな唇は、ゴールディ・ホーンを思わせる。校則を遵守する彼女のことだから化粧はしていないはずだけど、十分可愛い。身長は百五十二センチのはずだ。一ヶ月前に実施された新学期の定期健康診断で二ミリ伸びたと胸を張っていたのを覚えている。
僕は鷹揚に頷いた。
「可愛いよ、王妃さま」
彼女は拳を握り固め、「よしっ」とガッツポーズ。謙遜しない辺りが素直でよろしい。
僕が口にした呼び方には、彼女の名前への親愛に満ちたからかいが籠められている。もう十年くらいこの返答と名前はセットだったので、今更彼女も突っ込まない。
僕と彼女は同じ高校に所属する。どちらも二年生、僕はあと一ヶ月で十七歳、彼女はあと四ヶ月で十七歳になる。
彼女彼女と言っていると、僕らが付き合っているのではないかと誤解を受けそうだから明言しておく。
僕らは付き合っていない。
幼馴染みオンリーの関係である。……多分。
彼女の名前は林 桜妃という。ご大層な名前である。「おうひ」である。
下手な子に付けられていたならば、名前負け甚だしいと、小学校くらいで苛めに遭いそうなものである。
だが見よ、彼女のこの愛らしさを。名前負けどころか名前が彼女に負けている。
だが、彼女は天性の美貌を持っている訳ではないのである。
クラスどころか学年中で、桜妃の「立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花」っ振りは有名である。
勿論、「このつやつや髪どーやって維持してんの?」とか「肌の手入れどうやってる?」とか、桜妃は訊かれまくっている。
その悉くに、桜妃は真面目に答えるのだ。
「髪の手入れ? つげ櫛使ってるよ。椿油染み込ませたやつ。それとドライヤーにも気は使ってるかな。肌の手入れはねえ、やっぱり洗顔からちゃんとやらなきゃ駄目。化粧水も三回くらい付けて、一回一回きっちり肌に吸い込ませるの。手の甲で頬っぺた触ってひんやりしたらクリーム付けてオッケーってサイン」
てな感じで。他にも、「カロリー摂取は控える」「食事はバランスよく」「寝る前にストレッチ」「三日に一回は腹筋、腕立て」などなど、彼女の努力を挙げていったらキリがない。
そんな彼女も、ここのところは特に努力している。外食するときでもメニューをガン見して身体によさそうなの選んでるし。朝起きた時に窓越しに彼女が見えたときはたまげたもんだ。
「桜妃、いつもより美容とか気ぃ使ってる?」
僕の問いに、桜妃はにまにま笑った。
「分かるー?」
僕は半端な呻きで答えた。
桜妃がいつもより美容に気を使ってることに気が付いたのは、何も彼女がいつにもまして綺麗だったからじゃない。桜妃はいつも可愛い。
で、なんで僕がそのことに気付いたのかっていうのを説明するのには、まず桜妃の生い立ちから説明しなきゃならない。
大仰な彼女の名前であるが、名付けた当人には桜妃に対する愛情など一欠片たりとも存在せず、桜妃が幼稚園に上がった頃に家を出て行った。誰とは言わないが桜妃の母親のことである。
桜妃を押し付けられたのは父親だった。だが、桜妃は俗に言う「非嫡出子」である。結婚をしていなかった父親と母親の間に生まれ、両親が奇跡的なバランスで家庭を築いていたその恩恵のみを頼りに育ったのである。
桜妃の父親はいきなり一人親となり、「おーまいがっ!」と叫んだというが、事実かどうか。取り敢えず彼は己の親族を頼った。具体的には今、桜妃が世話になっている、桜妃の父親の姉ご夫婦である。賢明だった、マジで。その当時桜妃の父親は二十三歳だったというが、そんな若さで、たった一人で子供を育て上げられるのは、本気で子どもを愛しており、かつ立派な人だけだと思うから。
養育費は払う、誓う、マジで。そんな言葉を並べて桜妃を姉夫婦に押し付け、彼はトンズラした。
そんな訳で小学校一年生のときから、僕と桜妃はお隣で暮らしている。
だがしかし、払われることのない養育費。善意に溢れる姉夫婦としても、子ども一人を養っていくのはそうそう容易なことではない。
そんな訳で桜妃と僕が小学校四年生になったとき、姉夫婦は弟を見つけ出してこのように告げた。
「桜妃ちゃんは可愛いから、これから先もうちで面倒みていくことに異論はない。だが、親としてケジメをつけなさい。養育費は振り込むように」
これに対し桜妃の父親は有り得ない手を繰り出してきた。
すなわち、桜妃の母親を召喚して来たのである。
桜妃の母親は、十センチくらいある赤いピンヒールで桜妃の家を訪ねてきた。
いや~な予感を感じ取ったらしき、桜妃のおじさんとおばさん(桜妃の父親の姉夫婦のことだ)に、取り敢えずお隣で遊んでなさいと家を追い出された桜妃と僕は、二人で僕の家の二階の窓からその様子を眺めていたから覚えている。
うわ、派手だ、近付いちゃやばいタイプの人だ、と悟った僕とは対照的に、「母親フィルター」を通してその女を見た桜妃は「うわあ、お母さんかっこいいー」とか呑気に言っていたけれども。
そう、この日まで、誰一人として母親の真実を桜妃に告げていなかったのである。
お母さんは忙しいからここにいないんだよ、と、幼い桜妃の心を守るために全員揃って嘘をついていたのだ。
そんな訳で、いきなりお隣から飛び出してきたそのピンヒール女がうちを突撃してきたときも、先頭切って玄関のドアを開けたのは、無邪気な笑顔を浮かべた桜妃だった。
「しまった!」という顔をした僕の母さんの顔を、僕は恐らく一生忘れない。
「誰が金なんか払うもんですか! そんなことはあの馬鹿に言ってよ!」
との苦情を、桜妃の母親はうちの母親にぶつけた。なにゆえ。
私に言われても困るのよ、しかも子どもの前よ、ってなことをうちの母さんが言ったが、ピンヒール女は怯まなかった。
「はあ? おたくでもこの子の面倒見てくれてんでしょ? 義姉さんが言ってたわよ」
桜妃、ぽかーん。
僕、ぼーぜん。
母さん、目が点。
「とにかくねえ、私は私の人生再建してる最中なのよー。今更呼ばれても困るって言うかぁ」
母さんが「向こうで遊んできてね」と桜妃を遠ざけようとしたが、遅かった。
「こんな失敗作産むんじゃなかったわぁ。なんか無駄に体型崩れたし」
そんなことをのうのうと、その女は桜妃の前で言ったのだ。
失敗作発言にめちゃくちゃショックを受けた桜妃だったが、立ち直るのもめちゃくちゃ早かった。
次の日だったかに、「可愛いは正義☆」との格言を耳にしたらしき彼女は、「よしじゃあ可愛くなればいいじゃん」と結論したのである。
可愛くなれば、失敗作じゃないと。
ちなみに桜妃の偉いところは、高校生になってバイトが出来るようになってから、自分の美容に使っているお金は全て自分で負担しているところだったりする。中学生のときに使った分も、おじさんおばさんの誕生日祝いと称したりして色々と返していっているようだ。
美容とバイトに明け暮れるギャルだと、桜妃のことを勘違いしないでほしい。
うちの高校は偏差値でいえば大体六十後半から七十くらいだが、桜妃は入試で主席となって新入生代表挨拶をして以来、学年一位の座を誰にも譲っていない。僕? 十位から二十位を満遍なく彷徨っている。
スーパー美少女である。
幼馴染みとして鼻が高い。
で、だ。
なんでこの頃桜妃が美容にいつも以上に気をつけているかと言うと、だ。
会うのである。
母親に。
およそ五年ぶりに。
用件は、あの「失敗作発言」事件以来、鬼の形相で迫る姉夫婦に負けて養育費を払い続けた桜妃の父親が、再び養育費を滞納したこと。その上、「あの女が払わねえなら俺だって!」と言い出したことである。一理ある。
もう裁判起こした方が早いんじゃねえの、と思う僕だが、それはどうも当事者たちが望まない。
桜妃のことを厄介者と思っている両親であっても、そのことは重々分かっていても、桜妃そのものを厄介者として祭り上げるような真似はしたくない、だから裁判沙汰にまで持ち込みたくないというのが、おじさんおばさんの線引きらしかった。
己の実父の「あの女が払わねえなら俺だって!」との魂の叫びを受け、桜妃が挙手した。
「居場所教えてもらえるなら、私が行って話してくる!!」
アホ。
行くに事欠いておまえはない。
そんな反論にもめげず、桜妃は主張した。「私が行く」と。
どんな紆余曲折があったかは知らないが、結果的に桜妃が母親に会いに行くことになったのだ。桜妃は意気込んでいる。
日程は一ヵ月後だ。朝っぱらからジョギングしてたりする。朝から窓の外に彼女を見掛けたのはそのせいだ。
あんな女に会いに行くのに、そこまでしてやる必要ないのに。
こんなに可愛くなった私を見て。
ほら、失敗作じゃないでしょう?
そう訴えたがっているのが痛いほど分かるから、僕としては沈黙するしかない。
そんなわざわざ傷付きに行くことないじゃないか、と言ってやりたいが、それも言い出せない僕は所詮第三者。
「ねえねえ、それより知ってる?」
桜妃が言ってきた。
今は通学途中なのである。朝一番の「私、可愛い?」発言がその証である。
「ん?」
「転校生来るんだって。公立の高校で、珍しいよね?」
首を傾げてそう言った桜妃は、「どんな子かなぁ」と眼差しを遠くに向けた。
************
結論から言おう。
転校生はめちゃくちゃ可愛かった。
名前は「白崎 由紀」。僕と桜妃と同じクラスになったその子は、めちゃくちゃ美少女だった。
美白の二文字を体現する白い肌。色素の薄い髪と目が、透き通るような可愛らしさを醸し出している。唇は小さく控えめで、だけど笑うと笑窪が出来て華やかな顔になった。
「うっわあ、可愛いー!」
真っ先にそう言ったのは桜妃で、由紀はそれに可愛らしく頬を染めた。
「そんなことないって……」
「ううん、すっごく可愛い。なに、この髪質とかどうやってキープしてるの? 肌キレイ~、洗顔なに使ってる?」
矢継ぎ早の質問に、由紀ははにかんで笑った。
「えっと、特に何もしてないけど……」
「ホントに!?」
そう言って桜妃は仰け反った。
「これは……、うん、もっと可愛くならないと」
拳を固めてそんなことを言う。
「なに言ってんの?」
と僕が突っ込むと、桜妃は真顔で言った。
「今は由紀ちゃんの方が可愛いから、私の努力ってなんなの? って思っちゃうでしょ? だから、私の方が由紀ちゃんより可愛くなって、やっぱ努力は報われるなあ、って思えるようにならないと!」
「本気で言ってる?」
僕としては、「本気で白崎さんの方が可愛いと思ってる?」という意味で言ったのだけれども、桜妃はどうやら誤解したようで、
「可愛くなれるもん、努力は報われるもん」
と、唱えるように答えたのだった。
分かってないな!? と内心で突っ込んでいると、教室の片隅から声が聞こえてきた。
「学校一可愛いとか言われて調子に乗ってたから、いい薬なんじゃないの?」
桜妃は可愛い。
外見だけじゃなくて性格も。
けど、嫉妬というのはどこにでもあるのだ。
間もなく行われた中間試験で、学年一位を由紀が鮮やかに掻っ攫い、万年一位だった桜妃を二位に蹴落とした事実は、学年全体に激震をもたらした。
余計なお世話である。
部外者の僕は思う。
二人の点数がたったの三点差だったことを、僕は知っているのである。
桜妃、次は数学頑張るんだぞ。
一部の女子が桜妃と由紀の名前をもじって、教室に二人いる絶世の美少女を、「継母と白雪姫」と呼び始めた。
桜妃も由紀も気にせず、二人で「確かにねえ」「嵌まってる名前だしねえ」と言っていたが、それも由紀が転校してきてから一ヶ月が経つまでだった。
桜妃の様子がおかしくなった。
思い当たる節ならある。
あのピンヒール女のせいだ。
「ねえ、鑑。私、可愛い?」
ピンヒール女に会った翌日も桜妃はそう言ってきて、僕はいつものように彼女を検分してから答えた。
「可愛いよ、王妃さま」
「世界一?」
桜妃が今まで一度たりともしてこなかった念押しをしてきて、僕は驚いた。
鏡よ鏡、鏡さん。
世界で一番美しいのはだあれ?
僕は辛うじて冗談めかして答えた。
「さあ。世界中の美女を見たことがある訳じゃないしね」
そっか、と答えた桜妃には元気がなかった。
教室でも彼女の様子は変だった。
いつものように「継母」とからかいを籠めて呼びかけられると、滅多にないほど怒りを露わにしたのだ。
「うるさいな、いつもいつも。そんなに暇なの? 馬鹿みたい」
言った方も呆気に取られる態度の変化だった。
由紀もびっくりしたらしく、おずおずと尋ねた。
「桜妃ちゃん、そうしたの……? なんかあった?」
桜妃は由紀のことも睨み付けた。
「うるさい。いっつも馬鹿にしてきてるくせに!」
「はあ?」
「ええ?」
僕と由紀の声が重なった。
いつも楽しそうに喋ってるくせに、なにゆえ、この変化。
あのピンヒール女、桜妃になに言ったんだ?
桜妃は放課後までずっとつっけんどんな態度で、何を訊いても碌に答えもしなかった。
僕は桜妃の幼馴染みで、私生活ほぼフルオープンってくらいにお互いのことは知っている。
なのになんだ、この態度は。
なにを言われたにせよ、こっちはそれを慰める心の準備だってあったのに。
勝手に傷付いて勝手にこっちを敵視して、もうどうしろって言うんだよ。
学校が終わると、桜妃は風のように素早く帰宅していった。
いつも一緒に帰ってる僕としては、マジでぽかんとするしかない。
「桜妃ちゃん、どうしたのかな?」
由紀が眉間に皺を寄せた。
「結構仲良くしてたつもりなんだけど」
こっちから見ていても仲良くしてらっしゃいました。
「さあ……」
僕もカチンときてたので、しばらく桜妃の顔は見たくない気分だった。
由紀としばらく喋ってから帰って、桜妃のことは頭から追い出して、その日は寝た。
ところが。
あんな態度を取っておいて。
翌日、家を出たところで会った桜妃は、いつもどおりにこっちに訊いてきた。
「鑑、鑑。ねえ、私、可愛い?」
鏡よ鏡、鏡さん。
世界で一番美しいのはだあれ?
「鑑、ねえ、鑑ってば」
いつものように急かされて、僕ははあっと大きく溜息を吐いた。
「ああ、可愛いよ」
「世界で一番?」
また訊かれた。
鏡よ鏡、鏡さん。
世界で一番美しいのはだあれ?
「いいや」
そう答えて、なぜかびっくりしたような顔で固まる桜妃を一瞥する。
「少なくとも、白崎さんの方が可愛いかな」
投げつけるようにそう言って、立ち尽くす桜妃を放って歩き出した。
************
桜妃と喧嘩らしき状況になったのは、初めてのことだった。
次の日もその次の日も、桜妃は僕や由紀に話しかけてこなかった。
教室は冷戦の気配を敏感に感じ取って、学校一といっても過言ではない美少女二人の様子を静観する者と、ちょっかいを出す者とに分かれた。
見た感じ、桜妃の不機嫌さが敵を量産していた。
苛めに発展するかもしれないと思っているのに、僕は何ら行動を起こさない。
桜妃は、
桜妃は、
桜妃は、
――桜妃のことが分からない。
鏡よ鏡、鏡さん。
世界で一番美しいのはだあれ?
************
桜妃が、黒板消しを由紀の頭の上に落とした。
************
幸い、直撃はしなかった。由紀は「ワオ」とだけ言って、目の前に落ちてきた黒板消しを見てたらしい。
で、見上げれば僕らの教室(三階)。
窓際に桜妃。
目撃者多数。
桜妃がすぐに、「落としちゃった、ごめんっ!」とでも騒いで謝れば、また展開は違ったのかも知れないが、桜妃はぼんやりしてただけだった。
大騒ぎになった。
怪我人は出てないけどこれ未遂だよ! とか誰かが言い出して、「先生呼んで!」の流れになった。
桜妃はきょとんとしてたらしい。
あれよあれよと言う間に桜妃に呼び出しが掛かり、昼休みの教室は興奮に包まれた。
『継母、遂に白雪姫に毒りんごを盛る!』って感じの見出しで、新聞でも出そうな空気だった。
桜妃らしくない。
たぶん桜妃は黒板消しの汚れが気になって、窓から身を乗り出して壁に黒板消しをばふばふ叩き付けてただけだ。
僕はそのときは教室の外にいて喋ってたから知らないけれど、そのことが分かる。
目撃者とか言ってるクラスメートも、そのことを分かってるはずだ。
面白がって事件っぽくしてるだけだ。
気持ちは分かる。
それにいよいよ事が大きくなってきたら、誰からともなく言い出すだろうということも分かる。
だけど。
今頃桜妃は、先生に問い詰められて困ってるだろう。
黒板消しを壁に叩き付ける行為は、危ないのと校舎が汚れるのとで禁止されている。
だから素直に自分の行動を語れなくて、言葉を選びながら困っていることだろう。
だけど、クラスの空気は明るく刺々しい。
桜妃を的にして、苛めだって始まるだろう。
高校生は心が狭い。被害者が可愛い女子であればなおのこと。
桜妃の態度がここのところ、敵を作りやすかったんだからなおのこと。
「由紀ちゃん大丈夫?」
「うん、大丈夫。多分事故だから、気にしないで」
「事故って言ってもさあ、下くらい見るよね、普通」
「狙って落としたとか?」
「えー、陰険ー!」
「違うと思うよ、ぼんやりしてただけだと思うよ」
「由紀ちゃん優しいから」
「そうそう、優し過ぎるのも良くないよ」
桜妃は、
桜妃は、
桜妃は、
************
「桜妃!」
僕が教室を飛び出したのは無意識で、職員室を出て来たところらしく、校舎の正面玄関辺りにいた桜妃に声を掛けたのも無意識だった。
桜妃はびっくりしたように僕を見て、なんだか懐かしそうな顔をした。
「――鑑」
それから疲れたような、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「怒られちゃった。黒板消しでも重力加速は侮れないね。物理の先生に言われたら納得するしかないよ」
僕は何を言っていいか分からなかった。
これから桜妃が教室で居た堪れない思いをするだろうこと、ここ最近の自分の態度、桜妃があのピンヒールクソ女に何を言われたんだろうってこと、そんなことが頭をぐるぐる回って、結果としてこんな言葉が出て来た。
「桜妃、ちゃんと勉強しよう」
「…………」
たっぷり二秒沈黙し、桜妃ははたと手を打った。
「そうだね! そろそろ期末だもんね! また一位取るよ!」
一瞬、「そうだな! 頑張れ!」と言いそうになって、僕は違う違うと首を振った。
「違う! そういう意味じゃないんだ。――ええっと、頑張って勉強して、いい大学に行こう」
「…………?」
「東大とか一ツ橋とかさ! ここの生徒が滅多に行かないような難関!」
そうすれば、桜妃は安泰の大学生活を手に入れられる。
ある意味で斜め上に突っ走った僕の考えを、桜妃はくすりと笑って頷いて聞いてくれた。
「ん、そうだね」
玄関先である。
いつ生徒や先生が通るか分からない。
そんな中で、迂闊にも僕は訊いていた。
なんだか、今しかないと思ってしまったのだ。
「――あの女に、なに言われたんだ?」
桜妃の目が泳いだ。泳ぎまくった。
「……なにも」
「嘘だ」
白を切ろうとした桜妃の目をじっと見ると、桜妃は気まずげに目を逸らし、ぼそりと言った。
「――結婚するんだって」
「…………」
「お父さんとのことは、戸籍に残ってない。私が生まれたってことは残ってるけど、相手の男の人には、もうきっちり縁は切ってあるって言ったって」
あの女、想像以上に腐ってた。
「だから、もう邪魔しないでって。私みたいな失敗作は、人生に残しときたくないんだってさ」
はあ、と上履きの爪先を見て溜息を零した桜妃に、僕は思わず言っていた。
「いいじゃん、もうあんな女のことなんか気にしないで」
まったく見る目のない女である。
「桜妃のどこが失敗作だよ」
いっそ哀れになるくらいである。
僕が桜妃の父親だったなら、娘離れが出来なくてウザがられる保証があるというのに。
「桜妃、もうちょっと美容、手ぇ抜いても絶対可愛いままだよ」
余計なことまで言ってしまった。
桜妃がこの世で最も苦手とするところが、物事を為すに当たって手を抜くということなのだ。
「僕もめっちゃ頑張って成績上げて、同じ大学行くからさ」
話題が飛んだ。
いや、まずここ最近の態度を謝らねば。
もう何を言っていいのか分からん。
あたふたしだした僕をちらりと上目遣いで見て、桜妃が呟いた。
「鑑ぃ……」
「いやたまには名前で呼べよ」
謝ることも忘れて突っ込んだ僕に、桜妃が目を潤ませた。
「誠……」
ずっと我慢してたんだろう。
泣いたら目が腫れるから。
そういうことを気にするようになってしまった子だから。
「すごく……すごく頑張ったのに……おしゃれして会いに行ったのに……まだ要らないって……もう会いたくないって言われて……」
「うん」
「そんなに駄目な子なのかなって……不安で不安で仕方なくなって……みんなに当り散らしちゃって……」
「いや、分かってあげられなくてごめん」
ううううう、と肩を震わせて泣き出した桜妃に、僕は慌てて駆け寄って傍であたふたした。
こんなときどうすれば!?
ハンカチ!? ない!!
人通りもないことがせめてもの救いである。
「誠ぉ……」
ぼろ泣きしながら名前を呼ばれて、僕は大きく頷いた。
「うん、僕は、誠実に、真実をちゃんと映す鏡だよ。だからほら、僕を見ていつもみたいにちゃんと訊けよ」
桜妃が顔を上げた。ぼろぼろ涙が零れていて、正直にいうとぐちゃぐちゃな顔だった。
だけど、
だけど、それがなんだという。
桜妃は、
桜妃は、
桜妃は、
――鏡の前に立ってる王妃さまは、
『鑑よ鑑、鑑さん、』
「誠、誠。私、可愛い?」
数千回繰り返してきた自己確認の儀式に、僕は大きく頷く。
僕は誠実な鏡だから、僕に映ってる真実が、ちゃんと桜妃にも伝わってるはずだ。
この鏡の前に立ってる王妃さまは、どっかの兄弟が書いた童話と違って、人に毒りんごを盛ったりはしない。
そんなことは考えもしないいい子だ。
鏡の前に立って、自分がそこにどう映ってるのかを気にしてしまう、健気な子だ。
「ああ、可愛いよ、お姫様」
桜妃が窺うように尋ねた。
「世界一?」
声は随分と小さくて、この一連の遣り取りが文面どおりのものではないことを、痛いほどに感じさせた。
私、可愛い? と訊かれる度に、僕には彼女の声がダブって聞こえるのだ。
私、いていい? と。
桜妃の小さな問い掛けに、僕は首を振った。
「いや、それはどうとも言えないけど」
なにしろ世界を見て回ってなんていないから。
「けど桜妃は、僕にとっては一番可愛いよ」
この鏡にとっては、白雪姫なんかメじゃないのだ。
『あなたにとって一番美しいのはだあれ?』
桜妃の顔に、久しぶりに見る満面の笑みが登った。
曙光のように顔を輝かせたそれは、泣き笑いの表情であってなお、今まで見たどんな笑顔より可愛らしい。
「誠、なんでいつもみたいに王妃さまって言わないの?」
笑いながら指で涙を拭って指摘され、僕はなかなか見事に狼狽えた。
「なんでって、そりゃあ……」
首を傾げる桜妃に、ちょっとだけかっこ良く見えるように胸を張って、僕は答えた。
「まず僕がどっかの王様にならないと、桜妃を王妃さまにしてやれないだろ?」
これからの人生には色んな日がある。直近に起こるだろうことを言えば、多分巻き起こるであろう桜妃バッシングの嵐とか。
今のこのときのことでさえ、多分数年したら忘れていく。
だけど今だけは、これからのことも、何もかも上手くいく気がして、
だからこうして綴ってみたくなったんだ。
僕が少し勇気を出して、彼女の中での地位を変えてみせたこの日のことを。




