約束
父の容態が安定してから、俺はあの人に電話をかけた。
「こんにちは?」
「本田有司です」
「お電話、いただけるなんて!感激です!」
少しぎこちないけど、日本語はとても上手い。
「あのときは、どうもありがとうございました」
「いいえ。あのとき、ヒースローであなたの名前を聞いて、あなたを見たとき、私は、人生を変えるチャンスを見つけました」
「人生を変えるチャンス?」
俺を見たとき、人生を変えるチャンスを見つけた?
「私、何も手がかりないまま、日本へいって、あなた、探そうと思ってました。でも、日本に着く前に、あなたと出会えた」
「どうして、俺を?」
「あなた、私の人生、変えた人だから」
俺は、父を一晩、壮乃華に頼んで、その人と会うことにした。
「こんばんは」
「こんばんは」
ブロンドの髪の毛に、深いブルーの瞳。きりりとしたスーツ姿がとてもよく映える。年はきっと、俺よりひとまわりくらい若い。
「お好きなものを伺おうかとも思ったのですが、大切な人と話をするときは、いつもここなので」
場所は都内のレストラン。大切なクライアントとの打ち合わせは、いつもこの店だ。
「私、嫌いな食べ物ないから大丈夫」
「それならよかった」
「私、あの店で、シェフをやってました」
「それなら、やっぱり店を選んでもらえばよかった」
「ここ、とてもいい店」
彼は褒めてくれた。俺は、自分が設計したあの店で食事をしたことはない。だから、彼がどんな料理を出すのかも知らない。
「お決まりですか?」
なじみのウエイターが来る。
「あ、何にします?」
ウエイターが持ってきた英語のメニューを渡したが、彼は首を振った。
「本田さんのおすすめを」
「じゃあ、いつものコースで」
「かしこまりました」
ウエイターに料理に合ったワインを選んでもらい、乾杯した。
「あの日、席を譲っていただいて、とても助かりました」
「ダブルブッキングの方がいると、アナウンスが流れたとき、最初は、迷いました。でも、機内放送で、あなたの名前がながれたので」
「そうだったんですか」
「私、あなたのいない日本に来ても、意味ないから」
「どうして、俺を?」
彼の話してくれた話は、後悔ばかりしてきた俺に、自信をくれた。
いまから八年前、俺は建築家として少しずつ、名を上げ始めていた。そんな時、国外での仕事が持ちかけられた。それが、あのロンドンのレストランだった。俺は壮乃華や子供達の意見も聞かずに、すぐに返事をして、半年間、ロンドンへ行くことを決めた。仕事は成功したが、その半年の間に、壮乃華からの信頼を失い、帰国後、離婚をすることになった。子供たちには、どちらのそばにいるかを、自分たちで決めさせた。その結果、有里は壮乃華と、壮人は俺と暮らすことになったのだ。
俺が壮乃華と有里を失った頃、十七歳だった彼はロンドンのあのレストランで働き始めていた。料理に興味があったわけではなく、住み込みで働ける場所が、そこしか見つからなかったのだという。彼の家は貧しく、それ以外に生活する方法がなかった。
本当は、建築に興味があったそうだ。休日には教会や城を見に行くのが楽しみ。だが、それはただ見ているだけで、それ以上にできることは何もなかった。
レストランの仕事はきつい下働きから始まり、シェフという名目だったにもかかわらず、手が足りなければ一流ウエイターの役もこなさなければならない毎日。そんな日が七年以上続いた。その間に彼は、店の入り口に飾ってある一枚の写真に興味を持ち始めていた。そこには、できたばかりの店の前で建物を眺めている男がひとり。俺だ。あの写真での俺は後姿だけしか映っていない。
彼はある日、店のオーナーにこの男は誰かと尋ねた。
『彼はこの店を設計した本田有司という日本人だよ』
オーナーは俺のことを少しだけ、話してくれたという。
俺も、最初は建築を専門にするつもりはあまりなかった。ふたり兄弟だったが、兄は俺が高校生の頃に亡くなり、農家である実家をどうするか、両親をどうするか、そんなことが、俺を悩ませていたこともある。
何かやりたいことはないのかと父に問われ、家業を手伝いながら、大学に通い、学んだのが建築だった。もともと建物にも興味があったし、何かを作るのが好きだった。そして何より、建築家になることは、本当は兄の夢だったのだ。兄が俺に残してくれた一番大きなものは、建築家という夢だった。
そんな俺の話を聞き込んだ彼は、ますます建築に興味を持ったという。
『本田有司・・・』
彼は日本語を勉強し始めた。もともと、料理が好きではなかった彼は、あの店で稼いだ金で、日本へ留学することにしたのだという。目的は建築を学び、俺に出会うこと。そしてあの日、たまたまあの飛行機に乗り合わせていた。
「あの写真の中のあなた、とてもかっこよくて、最初はどこかの映画俳優かと思ってました」
「後姿だけなのに?」
「ええ。お客さんも、よく訊いていました。“あの人は誰?”って。あのお店、あの通りで一番お客さんたくさん来る。どうしてか、わかりますか?」
考えるまでもなく俺は首を振る。
「その理由、あなたが建築した店だから」
「まさか」
「あのあたりで一番有名な日本人の名前“本田有司”。日本人のお客さん、すごくたくさん来る。インターネットで調べました。あなた、有名な建築家」
昔よりは、俺の名前を知っている人も多くなったのかもしれない。でも、俺はいつも自信がなかった。臆病で、新しいことは何もできない。そんな俺を、兄は夢枕に立って、しばし激励する。それは今でも時々起こる。兄に激励されたあとの仕事は、いつもうまくいく。あの店のときもそうだった。兄は俺の神様なのだ。生きていた間も、亡くなってからも。
「私、いつかあなたと仕事がしたい」
「俺と?」
「建築を勉強して、あなたの隣に並んで、あなたと仕事をする。それが、いまの私の夢」
俺と仕事をすることが夢だといってくれる人がいる。兄貴、俺、こんなこと言ってもらっていいのかな。
「夢は、もっと大きく持たないと」
俺の言葉に、彼は首を振った。
「これ、充分大きい私の夢」
「どうもありがとう」
「こちらこそ、どうもありがとう」
レストランを出て、別れるとき、彼は言った。
「また、会えますか?」
「いつでも」
俺が頷くと、彼は軽く手を上げて真っ直ぐ歩いていった。でも、すぐに振り返った。
「天国のお兄さん、あなたのこと、一番の自慢ね?」
「そうなれるように、努力します」
俺がいることの意味を思い出させてくれた彼に、俺はゆっくりと頭を下げた。
「ではまた」
「おやすみなさい」
努力は必ず報われる。俺はそうは思っていない。もしもこれが本当なら、人生で報われなかった人間は、努力しなかったことになってしまうから。俺の兄のように。兄は自分の夢のために、精一杯の努力をしたが、生きている間に報われることはなかった。でも、努力をしないことと、努力をすることで、変わることは確実にある。兄が努力していたから、俺はその兄の努力の先に見えるものを掴もうとした。努力すれば、理想に近づくことができる。そう考えると、努力することには、やはり、大きな意味がある。
ゴールデンウィーク明けの翌週、日曜日。歩くことはあまりできなくなったが、車椅子のまま、父は退院した。退院の日、壮乃華と有里も一緒に来た。
「どう?久しぶりの家は?」
築何十年なのか定かではない、俺が生まれるよりもずっと前、父が生まれたときから住んできた家だ。どっしりと重い柱やあちこち鶯になりかけている廊下。
「ああ、やっぱり、ここが一番だ」
段差に気をつけながら、壮乃華が車椅子を押す。やっぱり、ふたりが父娘にみえる。
「しばらく見てやらないうちに、畑も荒れたな・・・」
「あの野菜、片付けないと・・・」
縁側から見える畑。父が倒れたときのまま、誰も手を入れていなくて、地面に野菜が散らばっている。久しぶりにこの家に来た。最近は盆の墓参りの挨拶も、正月の挨拶も、壮人一人に任せることが多かった。この家に入るのは、三年ぶりくらいか。
「お兄ちゃん、なんか作って」
有里は落ちた野菜を拾い集めてきた。
「もう腐ってるよ」
壮人が野菜を品定めする。どれもこれも、食べられそうにない。
「壮人、食べられるもの、とっておいで」
母にかごを渡され、壮人と有里が畑に出て行く。
「壮乃ちゃん、一緒に行っておいで」
父が車椅子を押していた壮乃華を見上げる。
「やった」
壮乃華は、畑に出るのが好きだった。それは、今も変わらないらしい。
「有司は、どうする?」
「ここにいるよ」
俺は縁側に座って、きゃあきゃあ騒ぎながら収穫する有里と壮乃華、真面目に食べごろを探す壮人を見ていた。これが俺の家族・・・本当なら。
「有司」
「ん?」
「もう一度、壮乃ちゃんと一緒に、やり直すことは、できないの?」
母に訊かれたことは、俺自身がずっと思ってきたことだ。もう一度、壮乃華と一緒に・・・。
「壮乃華がどう思ってるか、わからないから」
「壮乃ちゃんがいいって言ったら、そうするの?」
「どうかな・・・衝突しないで、穏やかに暮らせる自信が、まだない」
俺は臆病だ。そんなこと、誰よりも自分がよく分かってる。
「考え込むのが、悪い癖かもしれないぞ」
父の言うとおりなのかもしれない。
「有司、これで、何か作って」
壮乃華が野菜いっぱいのかごを俺に突き出す。
「なににしようか」
野菜たっぷりのミネストローネ。俺が作る料理の中で、壮乃華が一番好きなもの。
「有司に任せる」
「じゃあ、6人で夕食にしようか」
「うん」
壮乃華と壮人は買い物に出て、有里と俺は本田家の古い台所に立った。ここで料理をするのは、本当に久しぶりだ。まだ、壮乃華と結婚する前以来・・・。あの頃はふたりでよく、ここで騒ぎながら料理をしてた。
「何作るの?」
「壮乃華と壮人は何を買ってくるかな?」
「んー・・・」
メインを肉にするか、魚にするか、それさえ相談し忘れた。壮人がついていったから、俺はなんとなく魚を買ってくる気もしたが、壮乃華が肉だといえば、壮人はあっさり壮乃華に譲る気もする・・・。
「おじいちゃんたち、和食のほうがいいかしら?」
「いや、そんなことはないと思うよ」
「じゃあ、きっと、白身のお魚買ってるわ」
「バターソテーにでもするか?」
「そこはお父さんに任せるわ」
「有里は料理しないのか?」
壮乃華もどちらかといえば料理は苦手だった。
「お兄ちゃんみたいに上手にはできないけど、少しはできるわ」
有里と料理をすることがあるなんて、思ってもみなかった。
「何がくるかわからないから、とりあえずスープだけ」
畑で取れたての野菜を刻んで、冷蔵庫に残っていたベーコンと一緒に炒めて煮込む。
「有里、壮人にトマトの缶詰、買ってくるように電話して」
「トマトならあるじゃない」
「缶詰のトマト」
性格のそっくりな有里と俺は、しばしば言い合いになりながら料理を進める。といっても、肝心の材料が揃っていないから、あまり進まないのだが。
「ただいま」
「お帰りなさい。まあ、こんなにたくさん」
玄関で出迎えた母の驚いた声。
「みんなが何食べたいか訊くの忘れちゃって・・・いろいろ考えてたら、こんなになっちゃった」
失敗だった。優柔不断な壮乃華と壮人を行かせたせいで、買い物袋は車から二往復しなければならない量になっていた。
「さあ、有司、何かできた?」
「出来てないよ。野菜しかないんだから」
壮人が台所に次々食材を運んでくる。いったい何を作る予定なのか、まったくわからない。台所の床中に並べられた買い物袋。肉も魚もある。スーパーの棚ごと買ってきたかのようだ。
「肉か魚くらい、どっちかに決めてこいよ」
「だって・・・」
自分たちが食べるだけなら即断即決だが、みんなのことを考えたら、迷ってしまったのだろう。でも、迷った食材を全部買うところは、いかにも壮乃華らしい。豪快というか、潔いというか。
「さ、なにしたらいい?」
襷をかける壮乃華。そう、今日も壮乃華は着物だ。
「あらあら壮乃ちゃん、汚れちゃうわよ」
母が慌てて割烹着を持ってきた。
「ありがとうございます」
「早くしないと、みんなおなかすいちゃうわ」
昔ながらの台所は広い・・・でも、4人は狭い。しかも、買い物袋のせいで、ほぼ身動きが取れない。これじゃあうちの狭い台所で壮人とふたりで料理をするようなものだ。
「壮人」
「はい」
「やっぱり魚にしよう」
「赤身と白身あるよ」
「それもどっちも買ったのか?」
しかもパック入りの切り身じゃなくて、尾頭付き。
「って言うか、牛肉と豚肉と鶏肉もあるよ」
「それも全部買ったのか?」
壮乃華と壮人が壊れた人形みたいに頷いてる。
「・・・今夜は、鍋にしよう」
今ある食材を最大限に活用できる料理は、俺には鍋しか思いつかなかった。