団欒
「はい、おまたせ」
父が大きな土鍋をちゃぶ台の上のコンロの上に置いた。
鍋なんて、何年ぶりだろうか。
ふたり暮しだと、こんな大きな鍋なんてないし、何より、鍋なんかしたら、そのあと何日も鍋を食べ続けなくてはならない。だから、おでんとか、シチューとか、ひと鍋にどっと作るものは、あまり作らない。というより、ほぼ、作らない。
「美味しそう」
「有里、ちょっと手伝って」
俺は別の鍋に作られたミネストローネをお椀に盛る。変な組み合わせだが、6人そろいの器がこれしかないから仕方ない。
「何で鍋なのにミネストローネなの?」
「さあ?」
父の考えていることはよく分からない。いつもの父ならこれはこれ、あれはあれ。という具合に和食洋食中華がきっちりと分けられていて、和洋折衷になることはまずない。鍋とミネストローネが同居する食卓・・・まあ、俺はいいんだけど。
「はい、どうぞ」
有里がみんなにミネストローネを配ってくれる。
「あら、美味しそうね」
父だけはこの食卓にちょっと渋い顔をしているが、俺は久しぶりの家族の食卓に満足だった。きっと、父以外はみんなそうだ。食べるものなんて何でもいい、家族で食べられることが、一番幸せなのだから。
「頂きます」
みんなで食べるというのは、とてもいいことだ。食事の間に、誰かに料理を取り分けたり、調味料を取ってもらったり、食事の間に人のことを思いやったり、気を遣ったり、そんなことを、きっと子供は学ぶのだ。だからやっぱり、家族で、それもふたりとかじゃなくて、大人数で食事をするのは大切で、必要なことだ。
「壮乃ちゃん、取り分けてばかりじゃなくて、自分も食べなさい」
「はぁい」
ひととおりみんなに料理を取り分けて、母は最初にミネストローネを口に運んだ。
「美味しい」
やっぱり、すごく美味しそうに食べる。
「やっぱり、ここの畑の野菜が一番美味しいわ」
「そう言ってくれるのは、壮乃ちゃんくらいだよ」
祖父は笑った。でもね、おじいちゃん、言わなかったけど、俺も小さい頃からずっとそう思ってたよ。俺がここで食べるとき、美味しそうに食べられるのはきっと、本当に美味しいからなんだ。
「でも、この足じゃあ、もう畑も無理だな」
祖父は完全に歩けなくなったわけではない。家の中や、庭くらいなら杖がなくても歩ける。でも、遠出は無理だ。それに、畑仕事も、かなり厳しいだろう。今では家で食べる分くらいしか作っていないが、それでも、ずっとやってきたことを、やれなくなるのは辛い。
「有司は継いでくれそうにないものね」
祖母は冗談めかして言う。父に畑仕事を継がせようとは、思っていないのだ。
「今は忙しいから無理だよ」
「じゃあ、私が!」
「え?」
名乗りを上げたのは有里ではない。母だ。
「私、しばらく暇になりそうだから」
有里によれば、ニューヨーク展示会当日キャンセル事件から、母は一度も花を活けていないという。母は何も言わないが、華道家としての久峨壮乃華は、あの日、すべてを失ったのかもしれない。
「壮乃ちゃんなら、お天道様と上手に付き合えそうだな」
「有司よりも向いてるかも・・・でも、お花のほうは?」
母が激しいバッシングに遭っていることは、祖父も祖母も知っている。それが自分達のせいだと、ふたりとも思っているのだろう。でも、本当は俺のせいだ。俺が連絡しなければ、母はニューヨークでの展示会で成功していただろう。
「華道は、やめようかと思って」
思わぬ決断だった。
「すまなかった」
「どうしてお義父さんが謝るんですか?」
「アメリカでの展示会が原因だろう?」
「いいえ。思い出したんです。どうして、華道を始めたのか」
「どうして?」
「華道は、高校生の頃、父に勧められて始めたの。最初は嫌いだったわ。でも、何もかも中途半端にしていく私を、父は許せなかった。父は厳しくて、華道はやめられなかった。でもね、初めて父に褒められたことでもあったの。大学のときの展示会で、私、優勝したのよ」
この間祖父が持ってきてくれたアルバムの中に、華道部の母の写真があった。きらびやかな振袖姿で、大きく豪快に生けられた花の前での写真。あれがおそらく、そのときの写真だ。
「それから華道にのめりこんだわ。私が賞をとればとるほど、有名になればなるほど、父に褒められて、認めてもらえると思ってた。だから、誰も使わない材料を集めて、誰もやったことないような方法で、次々新しいことをしたわ。そうするたびに、みんなが注目してくれた」
奇抜で斬新、それが華道家としての久峨壮乃華の評判だった。
「でも、私は本当は、有名になりたかったんじゃない。父も、私を有名にしたかったんじゃない」
母はいつも忙しそうだった。でも本当は、のんびりと、何にも縛られずに過ごしたかったのかもしれない。雑誌の取材を受けながら、世界を飛び回る人じゃなくて、近所の人しか名前を知らないような普通の人でいたかったのかもしれない。
「私の夢は、優しい人と結婚して、頼もしい息子と、可愛い娘を産んで、みんなでこんな風に、楽しく夕食を囲むような家族になって、家族が仕事や学校に行ってる間に、自分の家で、小さい華道の教室を開くこと。活ける花も、そんな高い花じゃなくて、教室のみんなが持ち寄ったり、私が自分で育てた花で、気取らない、どこでも手軽にできる華道をやりたかったの・・・それはむしろ、華道なんて、大それたものじゃなくて、ただ、きれいな花を飾る家に住みたかっただけ・・・かな」
もしこれが、本当に母の夢なら、母は掴みかけた夢を(俺が頼もしい息子で、有里が可愛い娘であるという仮定の元だが)諦めたことになる。もしもふたりが離婚していなかったら、母の夢は、いま頃叶っていたのかもしれない。
「じゃあ、壮乃華は、かなり早い時点で夢を諦めてた?」
「どうして?」
「俺を結婚相手に選んだ時点で、理想と全然違うじゃないか」
そうだ。確かに。母はまず、第一に“優しい人と結婚して”ということが達成できていない。
「そんなことないわ」
自分が間違っていると認めたくないのか、それとも・・・。
「ならいい」
「それなら、壮乃ちゃん、夢はまだ、叶えられるんじゃないの?」
祖母の言葉に、母は頷いた。
「でも、どこから始めたらいいのか・・・」
母の疑問に、祖父は答えをくれた。
「まずは、花を育てるところから・・・それから、小さな教室を開けばいい」
「じゃあ、場所と部屋を借りなくちゃ」
「それはもう、揃ってるさ」
祖父がゆっくりと立ち上がった。杖をついてゆっくりと歩き、居間から縁側のほうへ。縁側に面した、二間続きの和室・・・有里と俺が泊まっていた部屋だ。その襖を、ゆっくりと開け放した。
「あの畑で花を育てて、ここで教える。それが壮乃ちゃんの、夢の第一歩では、どうかな?」
「お義父さん・・・」
「あの畑は日当たり良好、ちょっと田舎だけど、うちは駅まで歩いて十分よ」
祖母が言うとおり。この家は、駅まで歩いて十分。田舎といえど、なかなかの好立地だ。
「でも・・・」
母が父の顔を見る。一度壊れた家族に、驚くほどの急展開だ。
「壮乃華がよければ」
「本当に?」
「ああ」
「やった」
父の答えに、母は父に抱きついた。びっくりだ。いきなり抱きついた母を、父は受け止めきれずに後手に畳に手をついた。でも、右手は母の背中をぽんぽんと叩いた。本当に、家族は元に戻れるのかもしれない。
「まるで昔のふたりに戻ったみたいね」
「お母さん、可愛い」
祖母と有里の言葉に、母はぺろりと舌を出した。
「あまりにも素敵な考えだったから」
この子供のような母が、父には一番合っている。
このままうまく行けばいい。このまま父と母が仲直りして、また結婚して、家族で暮らせたら。有里と俺は顔を見合わせた。考えてることは、昔から同じだ。
「さて、そろそろ片付けるか・・・壮乃華、いい加減にどきなさい」
父は母をゆっくりと離した。
「片付けは、私と壮人がやるわ」
料理をする人と片付ける人。今日で言えば、料理は父と有里。片付けは母と俺。4人で暮らしていたことはいつもそうだった。母はちゃんとそれを覚えていたのだ。
「父さんと有里は、ここで一緒にテレビでも見てて」
俺と母のふたりで食器を片付ける。
「あっ!」
「おっと!」
母が落とした皿を床に落ちる前に受け止めた。
「ありがと、有司」
「俺は壮人だけどね」
「やだ!」
ふたりで顔を見合わせて笑う。
「昔よく、お皿落として、いまみたいに有司に拾ってもらってたの」
母は昔からちょっとぼんやりしていたらしい。
「ねえ、母さん」
「なぁに?」
「本当にここで、花を育てて教室を開く?」
「うん。もちろん。夢はまだ、叶うと思ってるもの」
夢は叶うと思ってる。でも、母さんの夢を叶えるためには、優しい結婚相手と、頼もしい息子が必要なんだよ。それで、楽しく夕食を囲む家族にならなきゃいけないんだよ。その夢も、まだ叶うと思ってる?
「壮人の夢は?」
「え?」
「夢もないの?」
「急に言われても・・・」
「可愛いお嫁さんを貰って、お嫁さんに似た可愛い娘と、自分よりも優しい息子を持って、みんなで毎日楽しく夕食を囲む家族になって、幸せに暮らすこと」
「それって、母さんの夢の男版じゃないか」
「違うわ。これ、有司の夢よ」
「うそ」
あんなに忙しい父が、こんな平凡な夢の持ち主だとは・・・。父の夢はもっと、世界で通用する建築家になる。とか、世界一立派なホテルを設計する。みたいな、大それたことかと思っていた。
「でも、有司の夢だって、叶うと思うわ」
「どうして?」
「だって、必要なものは揃ってるもの。あとは、組み立てなおすだけよ」
母さんも、もう一度家族になれると思ってる?
「さ、そろそろ帰らなくちゃ」
「そうだね」
居間に戻ると、祖父と祖母、父と有里、4人でお茶を飲みながら、のんびりとテレビを見ていた。普通の家族じゃないか。でも、俺の目にはこの光景が、何よりも幸せなものに見える。普通の家族。俺が手に入れたいものは、ただ、それだけなのかもしれない。
「では、また伺います」
別々の家に帰る俺たち。いつか、一緒の家に4人で帰るようになる日が、また来るのかな。それとも、この家から“帰る”ことがなくなる日が来るのかな。
「何かあったらすぐ電話して」
父の言葉に、祖母は首を振った。
「有司は頼りにならないから、壮乃ちゃんに電話するわ」
「ぜひ、そうしてください」
母は笑顔で頷く。
「じゃあ、みんな気をつけて帰るのよ」
「はい」
母のライムグリーンの軽自動車にふたりが乗って出発するのを見送ってから、父と俺も父のワインレッドのステーションワゴンに乗り込む。
「父さん」
「なんだ?」
「父さんも、今でも夢が叶うと思ってる?」
「壮乃華さえ、頑張ればな」
「違うよ、自分の夢のこと」
「なんだ、俺の夢って?」
「覚えてないの?」
そんなはずない。だって、俺の知っている誰より、記憶力がいいんだから。
「どうだろうな」
「それとも、俺じゃあ、理想の息子として不足だった?」
「理想の息子?」
「自分よりも優しい息子がほしかったんでしょ?」
「それなら、充分叶ってる」
「ならよかったけど」
それ以外のことだって、充分叶ってるじゃないか。設計図はできてて、材料は揃ってる。あとは、組み立てるだけだよ。でも、組み立てるのは、父さんの苦手なことだね。だから、できることは、俺も手伝うよ。




