一歩
ひとりの帰り道
「いってきます」
四月一日、朝六時。誰にも見送られることなく家を出る。空はとても綺麗にすっきりと晴れていて、四月のわりには少し肌寒い。届いたばかりの着慣れない学ランが歩くたびにぱりぱりと音を立てている気がする。駅まで歩く間に、合格発表の日のことを思い出した。
あの日、高校合格をメールで報告すると、父はメールを返してこなかった。そしてその夜、俺はいつもと似たような夕食を作り、くたくたで仕事から帰ってきた父とふたりで食べた。夕食の後、俺が皿を洗って、父がふたり分のコーヒーを淹れる。いつもの夜。
「壮人」
「はい」
「成績は落とすな。そして大学は必ず、自分の力に見合ったところへ行くと、約束しろ。それができるなら、おまえのこの三年間を見逃そう」
「約束するよ」
会話はそれだけだった。『おめでとう』も『よかったな』もなくて、大学進学への約束だけ。でも、俺はそれで満足だった。この三年間を自分の好きな場所で自由に過ごせるのなら、今、何を約束させられてもいい。
昨日の夜、父が黙ってくれた真新しい定期入れは、完璧主義の父らしい本革のどこかの有名ブランド品で、およそ高校生には似つかわしくない代物だ。その中におさまっている定期券・・・片道970円。学割でも一ヶ月一万円を超える。最初の三ヶ月は買うが、それ以降はすべて自分で買うこと。それでもいい。自由な三年間の代金ならば、安いじゃないか。片道二時間の通学時間も、自由への道なら遠くはない。
ただ広い体育館に並べられたパイプ椅子。配られた紙には、俺のクラス、出席番号、座るべき席が記されている。それと、同級生全員の名前。学区外から受験した俺に、知り合いはいない・・・ただ一人を除いては。
椅子に座り、しばらくすると、教頭先生と紹介された人が、開式の言葉を述べている。でも、俺の前の席は空席のままだ。入学前に、入学をやめてしまう人もいると聞いたことがある。きっと、この前の席の人も・・・。
「悪ぃ・・・」
思っていた先から、小声で謝りながら列をすり抜けてきた学ラン姿がひとり、ふと気づくと、あちこちに似たような声が聞こえる。入学式だというのに、遅刻してきた生徒が、こんなに何人もいるものなのか。
「ごめんなさい・・・」
「ごめん・・・」
その中の一人が、俺の前の席に座った。名簿の名前を確認すると“保志 継亮”・・・一瞬、女の子なのかと思った。でも、ちゃんと学ランを着てる。きっちりと結ばれた短い髪の毛が、女の子かと思わせたのだ。でも、首の太さといい、肩幅といい、やっぱり男だ。
長く退屈で、しかも寒い入学式は二時間に及んだ。終わると今度は各クラスごとに教室に移動。その間におれは、唯一の知り合いの姿を見つけた。
「・・・有里・・・」
遠いから、声はかけなかった。これから三年間、ほぼ毎日会うから今声をかけなくてもいい。
「あの子、超可愛くねー?」
まだなれない無口な人の中で、ひときわ声高に話す声。その声の先をたどると、さっきの長髪だ。
「継亮、声でかいよ」
静かな廊下に、からからと笑い声が響く・・・。あれだけ自由でいられたら、きっと楽なんだろう・・・けど、俺はきっと一生、ああはなれない。
「はい、みんな席に着いたね?」
小柄な女教師。担当は英語だという担任は、このクラスをまとめられるのかと思うくらい頼りない感じだ。俺は一番後ろの席だったから、先生が話す間にクラスを一通り見ていた。入学式なのに、髪の毛染めてるのも何人かいる・・・そのなかのひとりは、センターから左右に黒と金に染め分けてる・・・初日からあんなのありなのか?
「部活は今日から見学できるので、興味のある人は、見ていってください」
クラスメイトを観察している間にホームルームは終わっていた。みんな身軽に帰り支度を整え、元中の顔見知りと戯れながら教室を出て行く。廊下のあちこちで誰かが誰かを呼ぶ声がする。
どうして人は群れるのだろう?廊下を一人で歩いているのは俺くらいだ。誰かと一緒に登下校することも、誰かと一緒に廊下を歩くこともない。いつもひとり。
小学生のときからずっと続いていることがある。それは、俺の成績表にずっと書かれ続けている言葉・・・温厚で優しく、誰とでも仲良く、友達もとても多いです・・・担任が何度代わってもそれだけは決して変わらなかった。だが、それはまったく違うと、俺自身が誰よりもよく分かっていた。
「継亮!真っ直ぐ帰る?」
昇降口で、下駄箱の棚越しに誰かが言った。継亮・・・あの長髪の名前だ。
「部活のぞいてからいくわ!」
「じゃあ、“マリ”で昼飯な!」
「おう!」
話しているふたりの姿は見えない。でも、昇降口から出て行く人だかりの後姿の中に、俺は“継亮”と呼ばれた長髪に呼びかけていた相手を見つけた。声を聞いたわけでもないけど、確信した。なぜだろう・・・直感?
通学時間が長いから、高校では部活に入ろうかどうしようか迷っていた。でも、俺の足は部活を見学に向かっていた。入るなら剣道。空手と並んで小学生の頃から、厳格な父に強いられてずっとやっていたスポーツだ。この高校に空手部はない・・・だから、やるなら剣道だった。
「いい加減・・・この考え方やめたほうがいいか・・・」
癖になったような独り言・・・いつも、話す相手がいないからこうなるんだ。
「っ・・・悪ぃ!」
ぼんやり歩いていたから、俺の脇を通り抜けようとした誰かにぶつかられた。
「あ、いや、俺・・・」
継亮・・・今日、一番気になった相手。きりっと縛った髪の毛、太めに整えられた眉。後姿は何度も見たけど、こんな顔立ちだったんだ。
「なに?」
首を傾げて俺を見る。
「あ、いや・・・」
「俺、保志継亮」
手を差し出された・・・握手をしようということだと気がつくのに、しばらくかかった。変わった人。ま、いっか。
「本田壮人」
「剣道やる人?」
向かう先を見て継亮に訊かれた。やっぱり俺の足は剣道部の部室に向かっていたんだ、無意識に。
「ああ、中学までは」
「どこ中?」
「桝沼二中」
「どこそれ?」
「知らないと思うよ。俺、学区外からきてるから」
定期を見せた。
「遠いな・・・こんな山奥の秋沢に何でまた?」
それには、ちゃんと理由があった。父にも言っていない大切な理由が。
「ん~」
言おうかどうしようか迷った。いつもの俺なら、多分ここでは迷わない。プライベートなことなど、誰にも言わないからだ。でも、いま、継亮にならその理由も言えそうな気もした。
「まあ、いいや。それは今度で」
「今度?」
「今日は友達と昼飯食う約束してるから、さくっと部活見て、帰る」
「そうか」
「幼馴染5人いて、そいつらと一緒なの。すごいだろ?幼稚園入園したときからずっと一緒だぞ?」
にって笑って見せた顔が眩しかった。俺がこいつに惹かれた理由が分かった気がした。この自由さと、幸せそうな感じ。それに、高校まで一緒に受験するほど仲のいい友達。俺が持ってないものを、すべて持ってる。だからさっきの相手もわかったんだ。こいつに話しかけてた相手も、眩しかった。それは、俺が欲しくても手に入れられないものを、全部持ってるからだ。
「ここでもやんの?」
「ん?」
「剣道」
「いや、まだ・・・そっちは?」
考え直そう。いい加減、父の作った檻から出なければ。
「俺も剣道とかかじってたけど、弓道やるんだ」
「弓道・・・」
「面白いかと思って」
どおりで、この髪型も、学ランよりも袴のほうが似合いそうな感じだ。
「面白そうだな」
「一緒にやる?」
「え?」
「いや、おまえとだったら上手くいきそう」
なに?上手くいきそうって?
首を傾げた俺に、継亮はすぐに答えをくれた。
「俺、性格きついし、言葉遣い荒いし、すぐ手出すから、よく喧嘩んなんだよ。だから、幼馴染以外とはあんま付き合わない。女の子は別だけど。男はすぐ喧嘩になるし、怪我するし、怪我させるし、相手にも悪ぃから。でも、本田は心広そうだから」
初対面なのに、よく話す人。最初に顔を見たときは、無口で話さない感じかと思ったけど、人は見かけでは判断できない。
「さあ、どうかな」
喧嘩にならない相手を探してたってとこか。確かに俺は喧嘩とか、したこともない。いつだって、クラス委員や生徒会で、教師から見れば優等生。級友から見れば、便利で使える。でも、友達になる価値はない、つまらない奴。そう思われてきたことは、ちゃんと分かってる。でも、この立ち位置から抜ける方法は、未だに見つけられていない。
「絶対大丈夫。俺、人見る眼だけは自信あるから。言ったろ?幼馴染で仲いいやつが5人いるって」
「ああ」
「おまえは絶対いい奴だ。ちょっと匡弥に似てるしな」
匡弥・・・さっきの昇降口のあいつかな?
「わかった。やるよ」
これで父の作った檻の鉄格子が一本外せた。人の手を借りたけど、俺にしては進歩したと思う。
「じゃあ、入部届け、俺の分も出しといて。一年一組三十二番だから。保志は保つに志し、継亮は、継ぐに諸葛亮の亮って言う字。じゃあ、また明日」
それだけ言い置いて、継亮は帰った・・・。なんなんだ・・・あいつ・・・。どうして俺があいつの分まで入部届けを出さなければならないのか?訳が分からないけど、俺は今までにないくらい、明日が楽しみだった。
今日はいろいろなことがあった。主に継亮のことだけど。話したいことは山ほどあるけど、有里に電話するのは明日の夜にしよう。今日は、少しひとりで考える。
入部届けを二部貰って、一人で駅まで歩く。俺がいつも通る道より、ずっと人通りが少ない。
今日からの自由な三年間の舞台、神奈川県立秋沢高等学校。どの駅からもバス停からも遠く、校舎のすぐ裏手は山。校庭は360度見渡す限り山。格技室の二階部分にある体育館への渡り廊下からは、ものすごく綺麗に富士山が見える。近くに川が流れていて、川は学校の裏庭を通って他の川に合流する。人生の生活範囲がほとんど東京23区内だった俺には考えられないくらい、自然に恵まれている。
小田急線に乗って新宿まで出て、そこからまた乗り換える。新宿まで戻るだけで一時間弱かかるから、乗換えや自宅マンションの最寄り駅からの徒歩を考えると、通学時間はやっぱりどう考えても二時間くらいになる。
家に着く前に父からメールが入った。
―――急な出張になった。今夜は戻らない―――
出張先は特に書いていないが、一泊ならば国内だろう。
今日は水曜日。自宅の最寄り駅で降りて、スーパーに寄る。基本的に買い物は週に2回。水曜日と日曜日。水曜は俺が学校の帰りに一人で買い物をする。スーパーは何軒かあるが、大体いつも同じ店だ。少し大きくて、輸入食品の品揃えもいい。日曜日はふたりの予定が合えば父の運転で日用品の豊富なショッピングセンターへ行く。それは、俺が小学生の頃から、毎週決められた行事のようなもの。だが、忙しい父は出勤になることも珍しくないので、ここしばらく、日曜の買い物には行っていない。
「ひとりか・・・」
夕方のスーパーは混んでる。主婦に混じって買い物かご片手に献立を考えながら、ゆっくり一周する。ひとりのときは米を炊くのが面倒だから、パスタやうどんなんかの麺類にすることが多い。父がいる日は、父の好みに合わせて魚を中心に和食にする。
買い物と同じで、料理にも決まりごとがある。平日の夕食は俺、朝食は父。逆に休日の夕食は父、朝食は俺の担当。これもずっと昔から決まっている。男ふたりだけだから楽だし、料理上手な父のおかげで自炊も慣れたものだ。
普段が和食だから、ひとりのときは洋食・・・やっぱり今日はパスタにしよう。麺は買い置きがまだあるから、ホールトマトの缶詰と、冷凍むきエビ。それから土曜までの大まかな食材。野菜を中心に頭の中でぼんやりと献立を組み立てながら買い物かごをレジへと運ぶ。
このスーパーから家までは、歩いて十分かかるかかからないかというところ。まずまず便利な距離といえる。それに、寄るにしても寄らないにしても、駅から帰るときに、絶対前を通る。
「ただいま」
誰もいないけど、いつも言うことにしてる。出掛けるときも、帰ってきたときも。部屋の電気をつけて、買ってきたものをそれぞれの場所へ分ける。それから洗濯物を取り込み、風呂を洗って、洗濯物をたたみ、食事の支度をする。そして食べている間に風呂を沸かし、食器を片付けて風呂に入る。これがいつもの平日のパターンだ。父が帰ってきて一緒に夕食をとるときは、これに食後のコーヒーがプラスされる。でも、今日はひとりだからそこはカットする。こうして考えてみると、なんか主婦みたいだ。
でも、ずっと毎日こうだから結構手際よくこなせる。
ひとりでの食事には慣れている。その世界ではまあまあ名うての建築士である父は一月の間に二度の海内出張が入ることも珍しくない。俺が中学に上がってからのここ数年は特に多く、国内の出張もあわせると、一年のうち半年以上は家を空けている。小学生の頃は父が出張だと、電車で三十分ほどのところにある祖父の家で過ごしていたが、最近はほとんど行っていない。あの家に顔を出すのは、夏休みのお盆の時期と、お正月くらいなものだ。
予定通りに家事をこなし、パスタを食べて、後片付けをして風呂に入った。ひとりでも、風呂は沸かすことにしている。ゆっくりはいって、今日一日を振り返る。
「疲れたな・・・」
でも、いつもよりもずっといい疲れ方だ。入学初日なのに、人と話して、剣道以外の事を始めようとしてる。一瞬だけど、有里の姿も見られた。元気そうで、友達もいるみたいだった。
「それにしても、あいつはなんなんだろう・・・」
継亮のことを考えた。初対面だけど、名字で呼ぶ気がしない。最初に聞いた“継亮”という呼び名が、すごく似合ってる。
「幼馴染ってきっと・・・」
帰りに昇降口で継亮に声をかけていたあいつ・・・それとは他に、俺は気になるというか、目を惹いたものを思い出した。同じクラスにいた3人。
「なんて名前だったかな・・・」
目を閉じてクラスの席順名簿を思い出す・・・あ・・・。
「葵木里成」
髪の毛をセンターで染め分けてたあいつだ。
・・・いうえお・・・お・・・。
「尾野明紘・・・か、き、く、けこ・・・さし・・・」
クラスで一番、目立つくらいに太ってた。
さたなは・・・それに・・・はひふ・・・ひ?
「枚田朝斗!」
鮮やかなオレンジ色の髪の毛で、前髪を女の子みたいにヘアピンで留めてた。
思い出した。教室の中で俺の目を惹いた3人。
今朝一度見ただけの名簿を鮮明に思い出せる。我ながら、この記憶力はありがたいと思う。これは多分、父親譲りのものだろう。実際父は驚くほど細かいことまで鮮明に記憶している人だ。
「昇降口のあいつと、葵木、尾野、枚田・・・あとのひとりは・・・」
抜けない独り言。学校でも特に親しい友達はいなくて、父はいない日が多いから、人と話すことは他の人よりもずっと少ない・・・そんなことに気がついたのはもう、随分前のことだ。
風呂から上がると、携帯が鳴っていた。
「はい」
『壮人か。異常はないか?』
電話は父からだった。時計を見ると、八時半。出張のときは、必ず夜に一本、電話をくれる。国内でも、海外でも。俺が小学生の時からこれもずっと変わっていない。
「こっちは大丈夫だよ。仕事は終わり?」
『ああ、今日は打ち合わせできただけだから。学校はどうだった?』
「まあ、初日だからね。特にどうってこともなかったけど・・・そうだ、弓道をやってみようかと思ってる」
『そうか。じゃあ、新しい袴と弓矢を買わなくてはな』
父は特に反対しなかった。俺が剣を置くことも、予想していたのだろうか?
「バイトして自分で買うよ」
『バイト先を見つけて金が入るまでは時間がかかるぞ。武道の道具くらいは買ってやる』
「ありがとう」
穏やかな父との会話。直接話すときよりも、電話のときの父のほうが穏やかだと思う。
『火の元と戸締りには気をつけろ』
「はい。明日は帰ってくる?」
『・・・明日の視察しだいだな』
「わかった」
『ではな』
「おやすみ」
『ああ』
俺が“おやすみ”というと、父は“ああ”と答え、電話を俺が切る。幼い頃から変わらないやり取り。
父がいれば、ふたりで空手の組み手をしたり、コーヒーを飲みながら映画を見たりするが、ひとりのときは本を読んだり部屋の片づけをしたりする。
「んー・・・」
ひとりの日も、ふたりの日も、テスト期間以外はほとんど寝る間際までリビングで過ごす。宿題もリビングでしている。父も仕事を持ち帰ってくることがあるが、製図を描くとき以外は部屋にこもりきりになることはあまりない。リビングで小さな家の模型を組み立てながら、俺の話を聞いてくれたりする。
お互いに何も言わないが、家の中にいるときはなるべく同じ部屋にいる。寝るときはそれぞれ部屋に戻る。
「そろそろ寝るかな」
火の元と、窓や玄関の戸締り、確認よし。
眠るのは大体十一時。起床は五時。小学生のときからこうだ。朝五時に起きると、ジャージ姿の父が俺に素振り千回をさせようと庭で待ち構えていた。だが、このマンションに引っ越してからは、素振りをするスペースがない。だから、朝練は腹筋・背筋・腕立て各三百回ずつに変わった。父がいてもいなくても、それはやることにしている。
寝る前に一杯のミネラルウォーターを飲んで、ベッドに横になる。
眠りに落ちる寸前・・・暗闇の中で淡いブルーのランプが光り、携帯が鳴った。
「はい?」
『もう寝てた?』
「うん・・・」
『じゃあ、明日にするね』
「いや・・・」
相手は有里だ。
『いいの、また明日ね』
「おやすみ」
『おやすみなさい』
夢現のまま電話が切れて、俺は眠りに落ちた。
「いってきます」
翌日、朝食を作ってくれる父がいない日は、ひとりでお茶漬けにして食べる。一昨日の残りの塩鮭。それに、わかめを入れた。栄養的にはイマイチかもしれないが、手軽な美味しさだ。
スーツ姿のサラリーマンと一緒に、満員電車に乗る。鞄の中には入部届けが二枚はいっている。一枚は俺の、もう一枚は、あいつのだ。でも、どちらも俺の筆跡で、一緒に出して受け付けられるのだろうか?
新宿から離れるにつれて、だんだん自分が自由になる気がする。電車を降りて、学校まで歩く間も、緑の多い景色に、心が開かれる。普段が息苦しいと思っているわけではないが、急に楽に息ができるようになったと思える。
教室につくと、鍵がかかっていた。どういうことだろう?まだ時間が早いから、他に登校してきた生徒はいない。俺は二階へ上がって職員室へ寄った。丁度いいから、入部届けも出してしまおう。
「おはようございます」
挨拶は、言葉をはっきりと発してから、そのあと、四十五度のお辞儀をする。幼稚園の入園前に、父にしつけられたことは、今でも消えることなく身体にきつく染み込んでいる。あの頃は、四十五度が何かさえ、理解できなかったというのに。
「おはよう」
教室のあちこちから、挨拶を返してもらった。でも、どれも心が感じられないというか、父が聞いたら怒りそうな挨拶だった。
「あら、本田君?」
俺の顔を見て席を立って着てくれたのは、高沢先生だ。英語科の担任。小さな花の散ったワンピース。そばまで来た先生を、俺は軽く会釈をして見下ろした。そう、俺の身長は百八十三センチ。百八十八センチと大柄な父に似て、いつの間にか背は高くなり、人を見上げることがあまりなくなった。
「あの、教室の鍵が閉まってて」
「ああ、ごめんね、開けるの忘れてたわ」
先生が鍵を持ってきて、一緒に教室まできてくれた。
「閉めることになってるんですか?」
「盗難が多いから、防止のために一応ね」
俺の通っていた中学では盗難が起こったことはなかった。少なくとも俺は聞いたことがない。私立ではなかったが、公立中学の中でも、品行方正な学校として高名で、俺の家からは、やはり学区外だった。それを父が頼み込んで入れてもらったのだ。あの学校では教師も生徒も、少し異常なくらい礼儀正しくて、俺は息がつまりそうだと、ずっと思っていた。だから、あの場所から早く出たかったのかもしれない。
「学校に来るの、早いのね」
「家が遠いので、早めに出てるんです」
中学のときから、登校するのはほとんどいつも一番だった。部活の朝練があれば、それも一番。遅刻をしたことは一度もない。
「お家、どこだったっけ?」
「都内なんで・・・」
「それじゃあ遠いわね」
言いながら教室の鍵を開けてくれた。
「ありがとうございます」
「いいえ。明日から、本田君が来る前にあけておくようにしなくちゃね」
「あ、俺、取りに行きますから」
「私が忘れてたらそうして。じゃあ、またあとで」
「先生、これ・・・」
二枚の入部届けを出した。入部届けは担任教師に提出することになっている。
「もう決めたの?」
「はい」
「もう一枚は?」
「一組の保志の分です。やっぱり、浅見先生に出したほうがいいですか?」
「ううん。一緒に預かっておくわ。保志君と、仲いいの?」
「いえ、昨日初めて話しました」
「そう、たくさん友達が出来るといいね」
「そう願います」
先生が職員室に帰ったあと、一人で教室に残る。教室の窓の外では、桜の花弁が舞っている。ホームルームが始まるまで、まだ四十分以上ある。読みかけの本を開き、続きを読む。通学時間が長いとその間が暇だから、本を読むのが習慣になった。本はいろいろなことを教えてくれる。読み始めると、その世界にはいれるし、誰かが話しかけてくることもない。
「おはよう」
すっと影が落ち、顔を上げると有里だった。
「おはよう・・・早いな」
「早く来てると思ったから、早く来たの」
「そうか・・・昨日は、ごめん」
「ううん、寝る時間だなーって思いながら電話したから」
「有里は、部活決めた?」
「まだ迷ってる・・・華道を続けるか、でも、茶道をやるのもいいかなって」
「俺は弓道にしたよ」
有里が少し驚いたように目を大きく開く。
「剣道はいいの?」
「うん。父さんにも言ってある。武道の道具なら、そろえてくれるって」
「良かったね」
こんな近くで話したのは久しぶりだ。改めてじっくりみる。大きな瞳に、長い睫毛。細い鼻梁と、きゅっと尖った頤。ふわりとした髪質に暗めの染色と、ゆるいパーマがかかっている。
「なぁに?」
「別に・・・昔から変わんないなーと思って」
「何が?」
「顔」
「どういう意味?子供っぽいってこと?」
どうだろう?いや、多分その逆だ。昔から、大人っぽい顔立ちだったのだ。それが今、だんだんと歳相応の顔立ちになり始めているだけのこと。
「昔から年よりやや上な感じの」
「そっちだって」
俺もそうだ。昔から年より上に見られることが多い。身長のせいもあるかもしれないが、中学の時だって、大学生に間違われることもよくあった。
「お父さんに似てる」
「有里だって、母さんに似てるよ」
自分でもよく思う。俺は父に似ている。母から貰ったのは、父にはない手先の器用さ。性格面で言えば、母に似ているのかもしれない。でも外見は完全に父に似ている。切れ長の目も、太めの眉も、手の形さえも父に似ている。
「でも、性格はお父さん似よ」
「そうだな」
久しぶりでも、何も変わらずに話せる。そばにいて、一番気が楽な相手だ。そばにいて、一番安心できる。俺にとっての有里は、そういう存在なのだ。
「そろそろ行くね。また夜電話する」
始業開始まであと二十分。ひとりふたりと登校してくる。
「今夜は俺がかけるよ」
「じゃあ、待ってる」
手を振って教室を出て行く。後姿でもすぐに分かる。俺の目はどこへ行っても、有里を探している。買い物に街へ出ても、たまに有里に似た後姿を見かけると、別人だと分かっていても、はっと立ち止まってしまう。これもきっと、幼い頃からの癖なのだ。
「入部届け、ありがとな」
放課後、弓道部をのぞきに行くと、継亮がいた。
「ああ」
「あの人、すごくね?」
継亮の視線の先には、ひときわ背の高く、がっしりとした体格の、弓を握った袴姿の一人の男。黒に金のメッシュの入った短髪。胴衣の上からでも分かるほどに鍛えられた体躯。父がここにいたら、ぜひ目標にしろといいそうな人物だ。
「さっきからずっとみてんだけど、外さねーの」
継亮が言っているのは的のことだ。三十メートル先に的が張ってある。黒、白、黄、赤、黒・・・あの人の前の的は、矢がびっしりと刺さっていた。地面に落ちた矢は見当たらない。百発百中ってやつか。
「はい!集合!」
その人の号令で、部員がその人の前にきっちりと整列する。
「今日は、早速新入部員を確保した」
みんなが拍手をする。部員は男ばかり十七人。その中に、見覚えのあるふたり・・・。振り返ったメッシュの人も、俺は見たことがある。
「おいで」
手招きされて、隣に立つ。父以外で俺よりも背の高い人に、久しぶりに会った。しかも、少し見上げなくてはならないくらいの身長差・・・五センチくらいかな。この人、絶対見たことある。
「俺は主将の鬼藤興輝だ。顧問の先生はいるけど、弓道は出来ない人だ。だから、実質的に俺がここを預かってる。さ、まず自己紹介からしてもらおう・・・継亮!」
「はい!」
知り合いのようだった。
「一年一組保志継亮です。出身校は鬼藤先輩と同じ桜音です。今までの専門は剣道。弓道は素人ですがなにとぞご指導ご鞭撻のほど、宜しくお願いします!」
きりっと頭を下げた。荒くも使えれば、礼儀正しくも使える。継亮の言葉は不思議だ。
「次、壮人!」
「・・・はい!」
返事をするのが一拍遅れた。名字で呼ばれると思っていたから、“壮人”という言葉にぴんと来なかった。最近では俺を名前で呼ぶのは父しかいないから。
「一年二組、本田壮人です。出身は都内、桝沼二中。中学までは空手と剣道をやっていました。保志と同じく、弓道は素人です。宜しくお願いします」
「よし!武道経験があるなら大丈夫だ。継亮は知ってるだろうから、あえて言わないが・・・壮人!俺は鬼のように厳しいぞ」
じっと俺を見据えたその目は、大きくて、ネコ科の猛獣のようにきらきらと楽しそうに光っていた。ギリシャ彫刻のようにきりりと整った顔立ちの中で、目だけが戦闘的だ。この人はきっと、闘うことが好きな人だ。そして、必ず勝利する。そう、俺の父のように。
「厳しさには慣れています」
小学生の頃からの空手の師匠も、中学のときの剣道部の顧問も厳しかったが、俺はいまだかつて、父ほど厳しい人に出会ったことはない。
「ならば、手加減しないぞ」
「はい」
「じゃあ、ふたりとも上着を脱げ」
言われるままに学ランを脱ぐ。ワイシャツの袖をまくり、次の指示を待つ。
「弓の重さを測るから、俺が渡すものから順に射ってみろ」
「はい!」
継亮と並んで渡された弓を引いてみる。あ、これ、すごい難しい・・・全然的に当たんないもんなんだ・・・。俺の放った矢は真っ直ぐに的の外に刺さった。次も、その次も別々の重さの弓を次々に渡されて、十回くらいやったが、的に当たったのはたった一度。それも、一番外側の黒い枠ぎりぎりに刺さっただけ。
「うーん・・・壮人のほうが力はあるな。継亮のほうが的の狙い方は上手いけどな」
ふと隣の的を見ると、継亮は十矢中、五本を的に当てていた。そのうちの一本は、見事にど真ん中だ。
「まぐれ当たりですよ。落とした矢も多いし」
俺のは的を外れても、すべて壁に刺さったが、継亮のは届かずに落ちた矢もある。
「入部初日でど真ん中に当てた奴は初めてだぞ」
「センスあるな」
俺の言葉に、継亮は肩をすくめて笑った。
「十矢全部壁まで届かせた奴も初めてだけどな」
「馬鹿力だな」
「褒めてないだろ?」
「いや、褒めてる褒めてる。ね、鬼藤さん」
「ああ、センスがあっても、力がないと的に当たんないからな」
「力があってもセンスがないと的に当たんないけどな」
結局、俺たちは一人一人ではだめらしいということがわかっただけだった。そのあとは基礎的な練習に費やされ、いちにちはあっという間に終わった。部活が終わる午後八時。もう、屋外の練習場では的が見えないくらい真っ暗だ。
「先輩、俺、片付けます」
先輩たちがそれぞれの矢を拾い、片付け始めた。
「自分のものは自分で片付ける。それがここのやり方だから、ふたりは今日は特に片付けるものもないから、先に帰んな」
鬼藤さんと並んで背の高い洲鎌さん。ふたりとも三年生で、とても仲が良さそうだ。
「洲鎌さん、ハーフですか?」
普段は思ってもあまり人に話しかけない。でも、思わず訊いた。左目だけが青く見えて、最初は染めているのかと思った髪の毛も、よく見れば西洋人のようなブロンドに近い。鬼藤さんより華奢な印象だが、この人もギリシャ彫刻のような顔をしてる。
「半分フランス人ね」
「綺麗な目ですね」
「ありがとう。でも、男に褒められてもどうしようもないな」
「ですね」
「気をつけて帰んな」
「はい」
継亮とふたり、鞄を持って弓道場を出た。
「継亮」
「ん?」
「幼馴染みの五人って、葵木里成、尾野明紘、枚田朝斗、半沢匡弥、我妻和騎?」
昨日昇降口で見かけたのは我妻和騎だ。最後の一人は、昼間に見かけた背の高い一組の生徒、半沢匡弥。継亮が昨日、俺と似ているといった人。継亮のほかに俺の目を惹いたのはこの五人だ。
「よくわかったな」
「当たり?」
「完璧だ。おまえはすごいな・・・じゃあ、俺、チャリだから」
自転車置き場へ向かう継亮と別れて、今日も一人で帰る。学校から駅までの道は部活帰りの秋沢高生でいっぱいだ。ひとりで歩いているのは、俺くらいかもしれない。
「本田君」
呼ばれて振り返ると、有里だった。有里に“本田君”と呼ばれるのが、とても不思議だ。でも、きっとこれから三年間はそう呼ばれるのだから、慣れないと。
「今帰りか?遅いな」
「茶道部に体験入部してきたの」
「茶道部?」
「弓道場の藤の広場の反対側にお茶室があるでしょ?あそこでやってたの」
まだ教室と職員室と体育館と弓道上場くらいしか足を踏み入れてないからどこがどがどこかはいまいちピンと来ないが、とりあえず有里の話を黙って聞く。有里は茶道部について話し続けている。昔はいつもこうだった。話し続ける有里の言葉に、じっと耳を片付ける。懐かしい感じだ。
「じゃあ、また明日」
駅前のバス停で、有里が立ち止まる。
「あ、そうか・・・」
無意識に、このまま一緒に家まで帰ろうとしていた。そんなことは、もう二度とないのに・・・。
俺はバス停に並んだ有里の隣に立った。
「どうしたの?」
「バスが来るまで待つよ」
「いいよ。帰るの遅くなっちゃうでしょ?」
有里が俺の後ろに回って、両手で俺の背中をゆっくり押す。小さい頃を思い出す・・・ふたりで遊びに出掛けて、暗くなっても俺が帰ろうとしないと、有里はいつもこうして俺の背中を押してた。あの頃も思ってたけど、有里の手は、やっぱり小さい。
「電車行っちゃうよ」
押す力がだんだん強くなる。これも小さい頃と同じ。
「いいから・・・ほら、バス来たぞ」
俺は有里の手をそっと掴んで離し、有里をバスに乗せた。有里がバスの中から手を振る。俺は黙って頷く。そして、バスが発車して、ロータリーから見えなくなるまで見送った。ここからまた、ひとりの帰り道だ。
今日は買い物もないから、真っ直ぐ帰ろう。夕食は、鯵の開きと、鯖のみぞれ煮と、どっちがいいかな・・・祖父の家からたくさん届いた人参と大根を入れて煮物にして、わかめと油揚げの味噌汁・・・なんて、主婦みたいに夕食の献立を考えながら帰るのが癖になってる。どうしようもないな、これは。
「ただいま」
「お帰り」
珍しく、父が先に帰っていた。鞄を置いて、着替えてリビングに行くと、父はエプロン姿で料理をしていた。今日は俺の担当なのに。
「ごめん、俺代わるよ」
エプロンをしてキッチンに乗り込む。
「壮人、狭いぞ」
「俺やるってば」
マンションの狭いカウンターキッチンに男ふたりは狭い。特に大柄な父と俺では、なおさらだ。ほとんど身動きが取れない。
「今日の晩飯は出張先からの土産なんだ」
「何買ったの?って言うか、どこ行ってきたの?」
俺が見ようとすると、父が邪魔をする。
「壮人は風呂にでも入って来い。その間に完成するぞ」
父は楽しそうに笑った。誰よりも厳しいけれど、誰よりも楽しい人。それが、俺から見た父の印象だ。洗濯や料理をするときは楽しそうに歌を歌い、買い物に行けば、子供のようにくだらないものばかりに目を向ける。
「じゃあ、土曜の夕食は俺ね」
「わかったから早くはいれ!」
交代の約束を取り付けて、俺は風呂に入った。バスタオルをはじめとする洗濯物はどれもきっちりと畳まれ、風呂は蛇口やシャワーヘッドまでぴかぴかに磨かれ、シャンプーもボディソープもしっかりと補充されている。我が父ながら完璧だ。
「・・・いったい何時に帰ってきたんだ?」
身体や髪の毛を洗い、最後にゆっくりと湯船に浸かっていたら、父の足音がして、風呂場のドアが開いた。
「壮人、できたぞ!早くあがれ!」
さっきは早く入れといい、今度は早くあがれという。父はせっかちで短気なのだ。そこが俺と父の似ていないところだと思う。
「ちょっと待ってよ」
「上手くできたぞ」
何かを見せて早く褒められたい子供のように得意げな父。
「すぐあがるよ」
「はやくな!」
「はいはい」
「返事は一回!」
子供みたいだと思っていたら、急に大人に戻ったりする。
「はい」
急いで着替えて髪の毛を乾かす。でも、ドライヤーのスイッチを入れて三分もたたないうちに父に呼ばれる。
「壮人!」
「今行くよ」
生乾きの髪の毛のままリビングに戻ると、一風変わった食卓が用意されていた。ひとりずつに小さな七輪のようなものがついていて、その上に網、さらにその上に掌くらいの大きな植物の葉が乗っていて、その上で何かがいい匂いをさせて焦げ始めている。
「岐阜名物のほうば味噌だ。これをご飯にのせるのが最高に美味いぞ。ほら、熱いうちに食おう」
「頂きます」
食べながら父はほうば味噌の歴史や岐阜の観光や歴史、名物名産について事細かに話し始めた。やたら詳しいが、特に何かをみながら俺に説明しているわけではない。父はいつもこうだが、旅先や出張先で見たり、聞いたり、体験したりしたことを、そのまますべて記憶しているのだ。
「どうだ?」
「すごく美味しい」
「そうだろう」
満足そうに頷く父。実際今日の料理は、とても美味しかった。父が作ってくれるのは洋食が多いが、それは多分、俺の好みに合わせてくれているからだろう。でも本当は、俺も洋食よりも和食のほうが好きかもしれない。
「そういえば、早く帰ってきたってことは、視察はいい結果だったんだ?」
父はあまり仕事のことは話さない。話すのは、出張先での変わった出来事、見たもの、聞いたこと、買ってきたお土産について。出張に出掛けると、必ず名物をお土産に買ってくる。父も俺も甘いものはあまり食べないから、買ってくるのは今日のような郷土料理の食材ばかりだ。
「いい結果といえば・・・そうだな・・・」
箸を置いてしばらく考え込む。
「そういえば、月末から二週間、ロンドン出張になった」
「最近多いね」
最近の父はヨーロッパ方面の出張が多い。特にロンドンは今年になってから三度目だ。でも、ロンドン出張のときはいつもの出張よりも決まるのが早い。いつもは間際に、突然の出張になることばかりなのに、今回はまだ三週間近くもある。
「ああ、そういえばそうだな」
「何日から?」
「具体的な日にちは決まってない。今の会議の結果が出て、品物が揃い次第だな」
父が具体的に何を設計し、建築しているのか、俺は未だに聞いたことはない。父が設計したという建物を見たこともない。仕事のことは、あまり言わない人なのだ。実際、一級建築士でありながら、自分はこんな平凡なマンションに暮らしているのだから、自分の住む建物にも、さしたるこだわりもないのだろう。仕事については、特に聞く気もしないし、ただ、いつも設計図を片手に忙しく働いている人だと思っている。そしてその上で、上手に人生を楽しんでいる。
「今年こそはゴールデンウィークが過ごせると思ったのに」
ここ二、三年はゴールデンウィーク時期に海外への長期出張が重なり、父はいつも留守だ。そうなる前は、よくふたりで旅行に出掛けていたが、ここ最近は父のまとまった休みが無いせいもあって、ふたりで旅行に行くこともほとんどない。
「でも、出張から帰ったら、少しはまとまった休みが取れるんでしょ?」
また箸を止めて考える父。
「どうだろうな・・・」
「忙しそうだね」
「今のところはな」
ゆっくりと話しながらの夕食を終えて、俺が皿を洗っている間に、父がコーヒーを淹れる。
「学校のほうはどうだ?」
「どうっていっても、まだ二日目だからね」
答えながら、父には何を話そうかと考えていた。弓道のこと?眩しく見えた継亮と幼馴染みのこと?それとも・・・有里のこと?
「部活は?」
「今日、いってきたよ。試しに弓を引かせてもらったけど、俺にはセンスないみたい」
「まだ一日めだからな。壮人は何でも上手くやるから、そのうちに弓も上手くなる」
確かに自分でもそう思う。なんでも人並みにはこなせる。ただ、得意になるものがない。なにが得意?ってきかれたら、俺はたぶん、答えられない。スポーツに限ったことじゃなく、勉強も同じだ。どの教科もいつだって平均点以上ではあるけど、どれも一番になることはなくて、結局得意科目なんかない。
「だといいんだけどね。でも、力はあるって褒められたよ」
「そりゃあ、俺がずっと鍛えてきたからな」
「感謝しております」
確かにこの体力は父の厳しい鍛錬のおかげだとは思う。
「さて、俺も風呂にでも入るか」
「ごゆっくり」
ふたり分のコーヒーカップを片付けて、俺はソファに身を沈める。リビングには昨年買い替えたばかりの40インチのテレビがある。が、俺も父もそれほどテレビを見るわけではないので、あまり活躍していない。夜は父はリビングにパソコンを持ってきて仕事をしたりインターネットで調べ物をしたりしている。俺はとりあえず主要教科の予習復習をしたり、本を読んだりする。
「・・・眠いな・・・」
眠い・・・今日は疲れたのだろうか?でも、まだ九時だ。眠るには早い。3人掛けのソファに横になる。足は伸ばせないけど、座っているよりは疲れが取れる・・・。
「壮人、起きろ」
はっと気づくと、父に揺り起こされた。時計を見ると、十一時。いつの間にか眠ったんだ・・・。
「うん・・・」
「このまま寝たら身体が固まるぞ」
「うん・・・」
起き上がって足を伸ばすと、もう変な感じにしびれていた。無理に足を縮めていたからだ。
「眠っているまま部屋まで連れてってやりたかったが、今のおまえじゃもう無理だ」
小さい頃はそんなことしてもらってたときもあったね・・・。
「うん・・・」
「俺ももう寝るぞ」
「おやすみ」
「おまえもちゃんと部屋で寝ろ」
「ありがとう」
「おやすみ」
歯を磨いて部屋に戻ると、とたんに目が覚めた。
「・・・眠れないじゃん」
そういえば、小さい頃もよくリビングのソファで眠りそうになって、父に起こされたものだ。そしてやっぱりあのときも、そのあと目が冴えて眠れなくて、“早く寝ろ”と父に怒られたものだ。怒られなくなった分、大人になったかな・・・。
「こんな夜中に何しようかな・・・」
貰ったばかりの新品の教科書を捲る。国語の教科書の最初に載っていた宮沢賢治の“なめとこやま”を読んだ。不思議なことが書いてあった。宮沢賢治の物語は、不思議な力がある。読み出すと、その話の光景がはっきりと見えるような、世界に引き込まれるような不思議さ。これを読んでいる間は、現実のことをすべて忘れてもいい。俺は勝手にそう思っている。
「そういえば・・・」
小学生の頃の教科書にも宮沢賢治の話が載っていた。あれもすごく不思議な話だった・・・題名は・・・。
「・・・注文の多い料理店・・・」
クローゼットの奥底に仕舞っていた古くてぼろぼろの教科書。小学三年生・・・あの一年は、俺にとってとても特別な年だった。ある意味で、人生の転機だった。あの年、俺は持っていた何もかもを捨てた。おそらく父も同じだった。今考えると、小学三年生の持っていたものなんて、父が持っていたものと比べれば、全然たいしたことのないものだった。それでも、あのときの俺にはどうしようもなくて、父も同じだったとおもう。すべてを捨てることを最後に決断したのは父だったが、俺はそれでいいと思った。
あの年、俺は一生分とも思える本を読んだ。友達はいなくて、帰りの遅い父とふたりの生活では日中はいつもひとりで、朝早く出かける父とは、同じ家に住んでいても、平日は朝起きてから夜寝るまで、会わない日が続くこともあった。
俺はひとりの時間を多すぎるくらい持っていたが、父はその逆だった。休日は必ず遊びや旅行に連れて行ってくれた。平日は仕事に費やし、休日は俺のために出掛け、父には自分のために使う時間など、一分もなかった。
「・・・料理はもうすぐ出来ます・・・」
俺は何度も読み返すうちに、いつの間にか眠った。有里に電話するのを忘れた・・・。