XX 18 XX 真珠の涙(中編)
「ルチアーノ……」
シアンの研究室の黒い机の上には、相変わらず何だか分からない論文の数々と、大量のメモ書きがあり、それに手を付けないようにローラー付きの黒い丸イスに座り、シアンと膝を付き合わせるようにした瞬間、彼が苦しそうに私の名を呼ぶ。
研究室に入る前、彼の手が震えていたのは知っている。
もしかしたら、過去のトラウマを思い出して私にまで嫌われてしまったらなどと怯えているのかもしれない……
(よし、ここは私がしっかりしてシアンのトラウマネガティブ思考を吹っ飛ばしてやらなくっちゃ!!)
まるでお姉さん的な思考のもとで決意を固めていると、不意に窓の外の影が目の端に映った。
何の気なしに私の上着を頭に被ったままの彼から窓の外へと視線を移すと……そこには、さっき捨て置いてきたはずの金髪金眼の青年――シェロンが満面の笑みで手をひらひらと振っている!?
その姿を確認した瞬間、半ば条件反射的に足に魔力を込め、一気に窓辺へと跳躍し、乱暴に窓を開ける。……多少鍵を開けるのに手こずったのは見なかったことにしてもえるとありがたい。
「やあ、ルチ――」
「ストーカーは引っ込んでろッ――!!!」
何かを言いかけていたシェロンの横っ面を全力で殴り、再び窓を閉め、ついでとばかりに暗幕も引っ張る。室内の明かりが、ダイレクトに入ってきていた太陽光から魔薬に優しい光がキラキラと舞う空間へと一瞬で変わる様子を見ながら、思わずかいてもいない汗を拭う仕草をしてしまう。
(ふう――って、あ……反射的に殴り飛ばしちゃったけど、やりすぎちゃったかな……別に窓さえ閉めてれば防音効果もあるんだし、殴り飛ばさなくっても良かったかもしれ――)
そこまで思考を巡らせた瞬間、あることに気付き慌てる。
(花達は!?)
思わずもう一度暗幕を引っ張り窓に引っ付いて彼が飛んでいった左方向を見ると、彼は裏庭の大樹と今私がいる研究棟の間の地面にめり込んでいた。顔からもろに突っ込んだらしく、両手を地面に付き、顔を上げようとしている後姿が見える。そんな彼の横で、元気に咲き誇る水色の花々がふわりと揺れていた。
(ああ、良かったあ……)
花々の無事な姿を見つけ、ホッと胸をなでおろす。昨日完成した魔薬はちゃんとシアンの手によって花達へと届けられたようだということも確認でき、二つの意味での安堵が体を包む。ここは二階に位置するので少々遠巻きにではあるが、生き生きとした花々の現在の姿が見れて自然と温かい気持ちになる。香りこそ届かないが、あの花々のささやかで儚い甘い香りが感じられるような気がした。
(せっかく、シアンのおかげで助かった花達が私のうっかりのせいでシェロン突っ込ませてダメに――なんてなったら目も当てられないところだったよ)
花々の健全な姿をしっかりと心に刻み、再び暗幕を閉めた私は、クルリと室内へと体を向け――目の前に広がる光景に呆然とした。
「……えっと? シアンは――何してるの?」
「…………あえて言うならだけど、飛び込みに失敗した――かな? アハ、アハハ――はあ……かっこ悪いなあ、ほんと……」
「飛び、込み――?」
現在のシアンは、先程私が座っていた黒い丸イスにお腹から乗り、力なく両手足を床に垂らしている状態だ。もうどうでも良くなってしまっているのか、彼はため息をついてそのままだらりとしている。彼が座っていたイスの上には、私の上着が抜け殻のように乗っかっており、彼が勢いよく飛び出したのだということがよく分かった。そして、彼の言葉に考えを巡らせた瞬間、ハッと閃きが降りてくる。
「ああ、飛び込み!!」
私は納得を示すように軽くパンと手を合わせた。
「???」
私の明るい声にシアンは顔だけを上げ、困惑した視線を私へと向けてきた。その視線を受けながら、私は合わせていた手をバッと広げ、満面の笑みを作る。
「私の胸ならいつでもかすよ!」
「は――い?」
「胸に飛び込もうとしたんでしょ? もう、言ってくれれば全力で受け止めたのに! ほらほら、いつでもどうぞ?」
ポカンと口を開けたままの彼に、私は両腕を上下にパタパタと動かし、彼が飛び込んで来るよう急かす。
「え――いやいやいや、ぼ、ぼぼぼ、僕が君の胸に飛び込むとか、そ、そそそ、そんなこと! そ、そもそも、ルチアーノ、き、君はもう少しちゃんと考え――ッイダ」
シアンが顔を真っ赤にしながら跳ねた瞬間、うっかりイスごと後ろに倒れ、思いきり頭を机に打ち付けてしまった。受け身も取れないままだったため、見ていた側としてもかなり痛そうだ。彼がうめき声を上げながらなんとか上体を起こすのに合わせ、私も彼の前にしゃがみこみ、彼がぶつけた個所を優しく撫でる。
「ああ、もう、大丈夫?」
「アワワワッ――!?」
「え、泡出るくらいヤバイの!?」
シアンの反応に、今度は私が半ばパニックに陥るが、彼はそんな私の肩を掴み、グイッと自身から遠ざけるように押しのける。その行動にちょっとばかし傷ついたりもしたが、まあ、彼の羞恥心を思うと触れられたくないところなのかもしれないと納得する。
(うん、イスから転げ落ちるって恥ずかしいよね)
「あ、こ、これは、別に嫌とかじゃなく、ち、近ッ――じゃなくて、その、心の準ッ――とか!」
「???」
私が一瞬だけした傷ついたような顔に気付いてしまったのか、彼がバッと私の肩から手を離し、一生懸命言葉を連ねる。しかし、その言葉の意味が良く分からず、私はその状態のままコテンと小首を傾げてしまった。そんな私の様子を見た彼は、深い深いため息をつき、困ったように笑う。
「ああ、うん、君ってば、本当に色々と――もう……」
「えっと――ごめん……って言うべきところ? でも、理由も分からないまま謝るのは私の流儀に反するんで、そうなった理由だけでも教えてもらえないかな?」
「ううん、ルチアーノ……謝らないで――むしろ、謝るのは僕の方、だから……」
彼は弱々しい声でそう言いながら、自嘲気味な笑みを作った。
「――本当に、僕ってダメダメだ。ダメすぎて……嫌になる。変わらなきゃって、変わろうって――そう、思ったのに……全然変われてない。あんなに、思ったのに、今日――思ったばかりなのに、すぐに気持ちが揺らいじゃって、マイナス思考全開で――本当、かっこ悪すぎる」
彼はだらりと腕を下げ、実験机の側面についていたたくさんの引出しにそっと背中を預けた。そんな彼の姿を見て、私は床へと腰を下ろす。ひんやりとした床はチリ一つ落ちてなく、シアンの掃除が行き届いていることが分かる。机の上にあるメモ書きや論文の束の乱雑ぶりとは違うそんな彼の一面を発見し、なんとなく心がほんわかした。
「シアン……変わるってことは、すんごく大変なことなんだと思う。でも、自分のダメなところが自分で分かってて、それを変えようと努力することは――かっこいいことだと思うよ」
横座り状態でそう言うと、彼がハッと息を飲んで恐る恐る顔を上げた。その瞳としっかり向き合い、私は優しく語り続ける。私自身にも言い聞かせるように……。
「なりたい自分に変わるっていうのはすごく良いことだよ? だけど、変わろうって思った瞬間にポンッと思い描いた自分になれるようなことってないと思うんだ。変わるっていうのは、自分の内側と向き合って、それを取り込んで、昇華して……なりたい自分に変わっていくことなんだと思うから――その道のりって、けっこう――いや、かなり大変なんだと思う。だって、こうするぞって思っても、それってもう自分に染み付いちゃってるものだから、なかなか取れないじゃん? だから、何度も何度も目の前の変わらない――変えられないって思うその壁にぶつかって、ぶつかり続けて、まあ、時には心が折れそうにもなるけど、そんな時は少し休んで、またその壁に挑戦して、そこでようやくその壁を壊して変われるものなんだと思う」
彼の群青色の瞳から一滴の魔力の結晶が零れ落ちる。
「だからさ、まだまだこれからだよ、シアン。決意したのに変われないって嘆くのは早いよ。諦めないで壁に挑戦していけば、変われるんだから」
「僕は――変われる?」
「うん、変われるよ」
「ッ――」
ポロポロとパラパラと床に落ちていく魔力の結晶が飛び跳ね、転がっていく。
「ル、ルチアーノ、ご、ごめッ――ごめんなッさ――僕は、君をッ――だ、から……」
シアンが嗚咽交じりに何かを伝えようとしているが、良く分からない。でも、私に何かを謝ろうとしているのは分かった。
「うん、なんだか分からないけど、良いよ。大丈夫、大丈夫だからね、シアン」
泣きじゃくる彼の頭を軽く伸びて優しく撫でやると、彼は首を横にフルフルと振りながら、なおも泣き続けたのだった。
★ ★ ★
「ごめん、ルチアーノ……みっともなく大泣きしちゃって……」
再び丸いイスに座り、私の上着をしっかりと上からかぶった彼は身を縮こまらせながら小さな声でそう呟いた。
「さっきも言ったでしょ、泣きたいだけ泣いて良いよって。他にもシアンが抱えてること全部吐き出していいからね。ちゃんと――聞くから」
おそらく、これはシアンのトラウマネガティブ思考を吹っ飛ばすいいキッカケなんだと思う。ここで綺麗さっぱりなくせれば、昨日からの連続コンボのおかげでネガティブ思考の全てを打破できるかもしれないという思いから、シアンからどんな返しがきても対応できるように覚悟を決める。
「……ありがとう。やっぱり、ルチアーノは――すごいね」
「へ?」
(どこが? 何が!?)
私がそうやって混乱していると、シアンはより小さな声でため息をつくように何かを呟いた。力は多少抑えられているとは言え、種族が獣人だからこそ聞こえた『危うく全部ダメにするところだったよ……』という彼の言葉に、私は余計に首を傾げてしまう。
(うん? もしかして、ネガティブ要素全開でまた自分の殻の中にでも閉じこもろうとしたのかな?)
「ああ、その……とりあえず、何度も驚かせちゃってごめん……もう、分かってるとは思うけど、僕――人魚なんだ」
(突然の涙&大泣きっていうのには驚いたけど、人魚なのは知ってました、すみません……)
心の中でそんなことを思いながらも、口には出さない。種族を知ってた方が色々とまずいし……。
「人魚ってさ、その、自分で言うのもあれだけど、き、希少種だから……こうして講義に出ないで引きこもってても何も言われないし、特別待遇で僕のためだけの研究室ももらえてるんだよね……」
彼は私の上着の端をキュッと掴み、下を向いたままポツポツと話してくれた。彼の話に合わせるように、棚のガラス越しに置かれた白い花瓶の中で可憐に咲き誇る水色とマゼンタ色の花がフワリと揺れる。あの中には風が吹いていないことを考えると、もしかしたら目には見えない花の精霊が何かしているのかもしれない。
(うん、シアン――上着の端掴むとかいうその行動は非常に可愛らしいよ? でも、やっぱりかなーりネガティブ入ってきちゃってますよね?)
ドヨーンとした負のオーラMAX状態のシアンを前に、思わず苦い顔をしてしまう。
「……あのね、シアン。人魚だからってだけで特別待遇なわけじゃないと思うよ」
私の言葉が理解できなかったのか、彼はコテンと首をかしげた。
「シアンが有能な学生だから、こんなふうに施設を用意してくれてるんだよ」
設定では神をも殺す毒薬をその血から生み出せる天才魔薬学者――別名マッドケミカリストだった彼だ。(マッドは余計だが)有能でないはずがない。それに、もし、彼が有能じゃなかったら、とっくの昔に追い出されている。この学校は、そういう学校だ。能力や力が全てものをいう学校。種族の地位は関係ない。ただ、優秀な者を集め――優秀でない者は躊躇なく切り捨てる。
「有能って――僕は、何も……」
「私と花達を助けてくれたじゃん!」
「あんなの、僕じゃなくても……」
「ううん、シアンじゃなきゃできなかったよ。私はぶっちゃけ解毒の知識なんてなかったし、シアンがいなけりゃ死んでたかもしれないんだよ? それに……シアンじゃなきゃ、花達を助けようともしなかったんじゃないかな?」
「でも…………」
苦しげに呻いた彼は、少し戸惑った後、諦めたように息を吐く。
「あれは全部――僕のせいなんだ」
「だからそれは――」
「ルチアーノ、聞いてくれないかな? 君には――君にだけは言いたくないとも思ってたけど……でも、やっぱり、君だからこそ、言わなくちゃいけないんだとも思う、から……僕が変わるためにも、きっと向き合わなきゃいけないこと、だから……聞いてほしいんだ。僕の――体質の、話を……」
彼は被ったままだった私の上着をスルリと自身の肩へと滑り落とし、顔をあげた。彼の目元は涙を止めようと擦ったせいで少し赤くなっていたが、群青色の瞳には今までにないほどの真剣さが見てとれ、私は紡ごうとしていた言葉を飲み込み、コクリと頷く。
「――うん。分かった」
私の反応に彼は悲しげに笑い、ありがとうと言うと、そっと――まるで懺悔でもするように話し出したのだった。




