沈かな朝
ここの朝の静けさは
杣人が大木に斧を叩きつけた後の木霊が
真空にも似た潔さが
淀んで終に失われるより
新に少し
澄んでいるようにも思われて
寝間着姿の愛し人が
たとえ滂沱の涙を拭わなかったとしても
破られることのない堅い約束を
嗄れた胸に秘める老女のような
決然とした和やかさで
白雪に変えてしまうのでした
朝の群青の中で
仄々と白んでゆく月の光が降るよりも
窓から零れる雪は
悠繰りと
初めて家の外に出たことが
堪え切れなく嬉しくて
丘を転がる狐の児が目を奪われるほど
旋風と遊ぶ樅の梢が息を呑むほど
爽やかにはしゃぐ幼女のように
清廉に舞う姿さえ
象れるつもりで
くすみのないままに下りていくのでした
もちろん純潔の結晶は
夜半に菜の葉へ降りた露が
紋白蝶の誕生を告げるような色に光るまで
寂寞の眠りの温度を湛えて
待っていたのですから
青い林檎の欠けらを
味わってしまった過ちに
それでも薄布を身に着けていた愛し人は
肌に真珠をちりばめながら
檻に絡む野茨を
毒を吐き出す蕁麻さえを
甘くするような息を
吹きかけてくれるのでした
そうした朝も
もう亡くなって
いつも
暁と思えば極夜
かじかむ爪先に
灯火は揺らぎ
いつ雪が止むか
知らぬ侭
ここの夕の温かさは
弦楽の震えが時間を凍らせた後のしじまが
裏切りにも似た緊迫が
風吊りと途切れて失われるより
夜庭に少し
間違っているようにも思われて
散らかった毛布のしわを伸ばしていると
黄昏の松葉に纏わる靄のような
偶然を装っているつもりの涙だけが
やはり一夜を過ごしたとしても
朝になることはありませんと
笑い皺を伝って知らせるのです
砂の数の星が番うことなく流れ
地平に行き着くまでに燃え尽きるような
煤だらけの時間は
白稀りと
毛布の匂いが知っていて
御伽噺になりたかったはずの
やはり小さな火は
瞼を閉じるだけで
消えてしまいそうな
窓枠に泊まる燕しか友のいない姫が
育てるさぼてんに霧を吹くように
やりきれない温度を
もっと欲しがっているのです
火の色はやがてあせゆき
幾夜の先もまた同じ
ぬるい蝋が流れ切るまで
繰り返しあせる色も知っていて
やがてその脈拍を
嫌いになる夜はあるでしょうか
磨かれない石英のような
卵の殻を砕いたような
麻痺するほどに苦い色を
乾き切った舌の上に転がして
塔のベランダから見る光景は
最後に月が昇った時と同じようなのです
だから夕は
もう失って
それでも
夜と夜の隙間
痩せ細った爪先が
松明に灯した
揺らぐ水は
活き続く
豊かに喋るせせらぎは
いつの間に意味を忘れて
濾過されてきた温もりと
雪解けなどとうに混濁した
のたうつ川蛇の溜息のように
叶う未来の無い声を
淡いままに響かせます
残りの息の泡沫は
雲母を沸騰させたように
渦巻いて天に溜まるので
雨粒が紫陽花の萼を撫でて
あたかも柔和にくぐもるように
漸く知ったその青ならば
もう一度たゆたいませ
振り仰いで
藍壺へ溺れる体を
底で迎えてくれる海月
蕩浮りと
漆を垂らして染まる空を
捧げた両手でお掬いなさい
穏やかに過ぎる思案と
逢いようのない透明を
吐露りと溢して汚しましょう
然らば
この沈かな朝へ
ようこそいらっしゃいました