始まりのキーワード
始まりのキーワード
「やっほぉ…レイちゃん毎度のことながら憂鬱してるぅ?」
店のドアベルが鳴り、そしてなんとも気怠そうな声が雨の音と共に僕の耳に聞こえてくる。
憂鬱してる。そう言っているキミが一番憂鬱そうと言いたくなるような人物が本日のお客様。
僕の十数年代の付き合い。
世間で言うところの、幼馴染。
雨の日には来るくせに、晴れの日は、曇りの日は、来ない人。
変わってる。
美人で、どんな男性も虜にできる容姿も知性も持っているのに…
僕以上に変わってる。
髪はカラスの羽のような艶やかな漆黒で、雨の日なのにさらりと背中に流れるまっすぐな長い髪は、彼女の動きに合わせて揺らめく…陶磁器のような真っ白く長い手足に、すらりと背の伸びた姿態はまさに、モデルみたいなのに…
彼女は自分を魔女という。
彼女は自分が魔法を使えるという。
僕は…まだ…彼女が魔法を使うところは見た事がないんだけれどね。
けれど、彼女は自分の事を魔女という。
でも、そんな事は実はどうでもいい。彼女が誰であろうと、どうでもいい。
僕は彼女が好きだ。それは時がどんなに移ろうとも、今の僕の変わる事無い普遍的な思い。
昔も…今も…多分…これからも…
でも、本人には言わない。
まだ…言わない…
「真矢は?」
僕は店のカウンター越しに彼女が…真矢がいつものように、僕の目の前にある椅子に座るのを眺める。
滑らかなその動作には、まったくの無駄な動きがない。
「もちろんよ。絶不調!」
真矢は僕の眼前数センチ前に顔を近づけて、ニヤリと笑う。
お互いの呼吸が感じられる距離。どちらかが顔を動かせば唇が触れられる距離。
真矢の左目を覆うアンクルから垂れ下がったダイヤ型のチェーンが小さな金属音を鳴らす。
真矢の右目は漆黒の闇のような澄んだ瞳が緩く湾曲してる。
多分…きっと…これを…『息を呑む』というのかもしれない。
凄く…怖いほどに…飲み込まれてもいいと思えるほどに、綺麗な漆黒が僕を見てるから…
僕は顔を動かさない。
真矢も動かさない。
微妙な距離を互いで確かめて、楽しむ。
「…そう…。で、今日はどうしたの?」
なんとなくは、予想が付く。
なんとなくは、理解してる。
彼女が訪れる理由。目的。
でも、いつものように、決まりごとのように、僕は言う。
それは、真矢も分かってる。
でも、いつものように、決まりごとを守るように、真矢は言う。
それが、僕たちのスタンス…
それが、二人のスタイル……
今も昔も変わらない。きっと、これからも……
「お話を書きに来たの。レイちゃんの観る時計のお話…憂鬱を直す媚薬を頂戴?」
真矢と僕との境に一つの古びた懐中時計が振り子のように、現れる。
お互いの唇に触れるのは、古びた金属の香りと冷たさ。
今回の雨の日の物語。
今日の暇つぶしの物語。
でも、僕らは互いの瞳を見入っている。
でも、僕らは互いの内面を探っている。
お互いの息吹を肌で感じる距離。
お互いの温もりを共有できる距離。
でも、触れない。
だから、触れない。
触れたら負け。
もう…落ちるだけ…
お互いが…お互いに…堕ちるだけ…
「さぁ…始めよう…君と僕の物語を記す遊び…」
その言葉と共に、真矢は懐中時計を落とす。
僕はそれを受け止める。
それが…始まりの合図…
そして、本のページを捲る様に、時計の針の音を『捲る』のだ。
そして時計は針の音と共にいくつもの物語を奏でる。
そして、僕は時計の中のたった一つの物語を選び、言葉に乗せ音になす。
そして、その言葉を真矢が文字に直す…それが…雨の日の楽しみ方…