Stop the clocks
もう何もかもがどうでも良くなってしまった。
何も起こらないままに無意味に時だけを重ね、気がつけば取り返しがつかないところまで来てしまっていた。夜を彩る煌びやかなイルミネーションも、今はただ哀しいだけ。
けれども部屋に帰るのも嫌で、どこへとも無く街をトボトボとさまよっていた。
そんな気持ちでいたからだろうか。
「お嬢さん、そんな哀しそうな顔をしてどうしたんだい?」
普段なら気にも留めないはずのその声に思わず立ち止まってしまったのは、きっとあまりにも寂しくて誰かと話していたかったから。
「なにか辛いことでもあったのかい?」
目深に被ったフードのせいで顔は見えないけれど、声を聞く限り老婆だろうか。
「逆よ。私には何も無いの」
あと数時間、今日が終われば私は三十歳になる。女としての私の人生はもう終わったも同然だ。
「ああ、それは身軽で良いね」
そんな私の気持ちを見透かしたように、老婆はふっと小さく笑った。
「良かったらみていかないかい? 欲しいものがあったらサービスするよ」
言いながら手元を示す。その老婆はどうやら露天商のようだった。小さなテーブルいっぱいに、何の価値があるのかも分からないガラクタが雑多に置かれている。
「……これは?」
私が何気なく古ぼけた腕時計を手に取ると、老婆は大きく頷いた。
「そうだね。今のお客さんにはそれがピッタリだろうね」
「……どういう意味?」
「なんだっていいさ。さあ、さっそく付けてごらんよ」
私が戸惑っているうちに、老婆は強引に私の腕に時計を巻いてしまう。その時計は不思議と腕になじむようで、いまさら突き返す気も無くなってしまった。
「……これ、いくら?」
「いくらだと思う?」
なるほど、そういう商売なのか。
「そうね……五千円くらい?」
「なら、三千円でいいさ。おまけしておくよ」
財布からお金を取り出して老婆に渡す。そうして、帰ろうと踵を返しかけたとき、
「まいどあり。それじゃあ、良い誕生日を」
えっ、と振り返るけれど、もう老婆の姿はどこにも無い。
不思議に思って、買ったばかりの腕時計に目を落とす。けれど壊れているのか、時計の針はピクリとも動いていないのだった。
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いつの間にそんなに時間がたったのか、老婆と話しているうちに終電がなくなっていた。仕方なく私は歩いて部屋に帰ることにした。無駄な出費があった分を少しでも浮かそうとタクシー代をけちったからだ。
深夜遅くに部屋に帰りつくと、すぐにスーツを脱いだ。姿見に映った自分の姿に目が止まった。気がつけば三十代に突入していた自分の姿。
けれど、随分長い距離を歩いてきたのに、思った以上に活き活きとした顔がそこにあった。
いつもならこんな時間、もうとっくに寝ているのに、何故か眠気も疲れもまるで感じない。
不思議に思いながらも、とにかく部屋着に着替えようとしたとき、ふと、あの壊れた時計を付けっぱなしにしていたことに気がついた。
身体に馴染むようで、ずっとはめていたことも忘れていたくらい。これで壊れてなければ、お気に入りになったかもしれないのになと、私は苦笑しながらそれを外した。
すると、途端にずっしりと体が重くなった。
「なに、これ?」
慌ててつけ直すと、一瞬でまた体が楽になる。
「うそでしょ?」
信じられない気持ちで私は止まったままの時計を見た。
……止まったままの時計?
「……そんな、まさかね」
そんなはずはないと自分に言い聞かせながらも、結局その日は時計をつけたままで眠りについた。
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「先輩、化粧水とか変えました? お肌とかすっごい綺麗ですよね、最近」
「うふふ、そうかしら?」
「ええ、ホント羨ましいくらい。そんなお肌、まるで十代みたいですよ」
「まあ、いろいろやってるから」
「えー、エステとかですかぁ? 良いお店あるなら教えてくださいよー」
「そんなんじゃないの。自己流なのよ」
「うっそー! それでそんなにって、信じられない!」
後輩の女の子たちの間でも噂になっているらしい。
全てはこの腕時計のおかげ。時計を付けている間、時が止まる。それどころか、針を過去に戻せば、私は若返る事だって可能だった。
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ある日、私だけになった深夜のフロアでパソコンに向かっていると、部長から声をかけられた。
「お疲れ。最近頑張ってるようだな」
「あ、お疲れ様です。いえ、私なんてまだまだですよ。ただがむしゃらに仕事するだけで精一杯です」
「ははは、若いってのは良いな。私も昔はそうだったが、今となっては身体がついていかない」
私は内心ほくそ笑みながら答える。
「私、そんなに若くもないんですよ? それに、それを言うなら部長だってこの時間まで残って仕事してるじゃないですか。まだまだお若い証拠ですよ」
部長の、眼鏡の奥の瞳が、うっすらと細まった。
「どうだ。今夜はもう切り上げて、飯でも食いに行かないか」
来た! と思った。
「はい」
と笑顔で応えた。
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部長の計らいもあってか、私はあっという間に出世した。疲れない私は他人の何倍もの仕事をすることができたので、文句を言ってくる人もいない。普段から真面目だったこともあって、同僚や先輩社員がその異例の人事を口々に祝福してくれた。
「やったな! お前はいつか大成するやつだと思っていたよ」
「ありがとう」
「これからも俺たちを引っ張っていってくれよ。期待してるからな!」
「ええ、もちろんよ!」
私は、満ち足りた気持ちでいっぱいだった。
そのころ私には、新しく恋人ができていた。今年新卒で入ったばかりのその男の子は、私のことを心酔したような目で見つめてくれる人で、私はそれが可愛くてたまらない。
仕事も恋も、全てを手に入れた私は、このまま永遠に幸福なのだろうと、そう信じて疑わなかった。
それなのに──
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「別れよう」
そんなことを突然言われたのは、彼と付き合いはじめてからもう五年がたったころ。初めは年下だった彼もいつの間にか私の年齢を追い越していた。
なかなか結婚を言い出してくれないことに私はヤキモキしていて。だから、大事な話があると呼び出された時も、内心では期待していた。
けれど、そんな期待はあっさりと裏切られた。
「いやよ」
予想外の出来事に、私は子供のように駄々をこねることしかできない。彼はそんな私を蔑むように笑った。吐息が酒臭い。酔っているのだろうか。
「ねえ、お願い。私に不満があるなら、直すから言って」
「不満? そんなものないさ。君はいつだって完璧だった」
「だったらどうして」
「どうしてだって? だからだよ。そんなのは間違ってるからさ。長所もあれば短所もある。それが人間ってものだろう?」
「完璧なことのなにがいけないの。誰だって私を憧れの目で見るわ。その期待に応えられるように、そんな風に生きることはいけないこと?」
「それが間違いだった」
「どうして今更……」
「気付いてしまったんだ。同僚が少しずつ年をとり、家庭を築いて、子供が生まれて。そんな風に誰かと共に歩いていくことこそが自然なことだって」
「そんなのは不幸よ! 永遠に若々しく、衰えることも無い。仕事も美貌も、私は手に入れたのよ」
彼は話を打ち切るように、何度も首を振る。
「どれだけ一緒にいても、本当の意味で君と同じ時間を過ごしたことは一度も無かった。そんなこと、僕はもう耐えられない」
「待って!」
扉が閉まり、彼の姿が見えなくなると、私はがっくりと膝をついた。
何もかもを手に入れたと思っていた。それはこの時計のおかげ。でも何もかもを失ったのも、この時計のせい。
何年たっても決して傷つかない、動かない魔法の時計。
私は震える手で、ゆっくりと時計を外す。
途端、体から急激に力が抜けていって、私は床に倒れこんでしまう。今まで塞き止めていた分の時間が、一気に逆流してきたのだろう。
狂ったように順回転をし続ける時計の針を眺めながら、私はいつの間にか笑いを漏らしていた。
その声は、どこからどう聞いてもしわがれた老婆の物で、
もしいつか、彼が心変わりして戻ってきたとしても、もうそれが私だということに気付くことは無い。