8mmの温度
とても短いお話です。また後悔している男の話なので寂しい話になりますのでご了承くださいませ。
いつも前向きな彼女が突然かけてきた電話はたった一言、―疲れちゃった―だった。いつもより頼りなさげな声だったけれど同僚たちの手前長く話をするわけにもいかず、一言二言会話をしてじゃあゆっくり休んでと何か言いたげだった彼女からの電話をさっさと切り上げてしまった。家に帰ってから話を聞いてあげればいいか程度にしか思っていなかった僕はそれが最終宣告だったなんて気づくはずもなかった。
皆で飲みに行って上機嫌で帰宅したのは午前をとうに過ぎた時刻だった。いつもなら彼女がちょっとふてくされながらも起きていてくれるのに。今日は寝てしまったのかと自分で部屋の明かりをつけると居るはずの彼女と彼女の荷物は綺麗さっぱりなくなっていた。何の冗談かと思ったけれどクローゼットをいくらひっくりかえしても彼女の服もバッグもいつもソファの真ん中においてあるちょっぴり間の抜けた顔をした彼女お気に入りのウサギのぬいぐるみもなかった。その事実が頭から指の先までを一気に冷たくしていった。
いろんなものが引っ張り出されて散らかった部屋の真ん中に力なく座り込んだ僕は、彼女と付き合いだした梅雨の明けた空がまぶしい頃の事を思い出していた。あの頃はそれこそ担任の髪の分け目がいつもより右にずれていたとかくだらないことから希望ばかりの将来の話までたくさんしていた。どんな話でもうれしそうに彼女は僕の隣で聞いてくれていた。それが僕はたまらなく愛しかった。今じゃお互い仕事の話が中心でたまに上司の愚痴だったりそんな会話がはずむはずもなかった。彼女のまぶしいまでの笑顔はずっと前のものしか浮かんでこなくて鼻の奥がつんと痛んだ。
ぼんやりと床を見やれば携帯が一件の不在着信を知らせていた。そのまま床に伏せるように携帯をとり耳にあてると、温かみのないそれからは心地よい彼女の優しいソプラノが聞こえてきた。彼女の存在が消え去ったこの部屋で今の自分と彼女を繋ぐのはこの冷たい小さな機械ひとつだけ。言葉にならない想いがない交ぜになってはあふれ頬を濡らしていった。