眠れない夜
「容器と水の話を知ってるか?水は最初はただの水で、容器は心を持っていた。容器は水に心が無いなんて知らなかったけど、それでいて水のことが大好きだったんだ」
「なんか最初からヘンテコな設定の話なのね」
「まあそうだな」
啓介は煙草の煙をゆっくりと吸い込み、天井に向けて吐き出した。啓介が店の自動ドアを開けてから今までにしたことは、喫煙席の香奈を見つけて若いアルバイトの案内を丁寧に断ったことと、一人分のグラスに水を入れて香奈の向かいに座ったことと、分厚いコートを脱いで隣の椅子の背もたれに掛けたことと、煙草に火を付けてゆっくりと吸ったこと、そして今、こうして奇妙な物語を話し始めたこと。それくらいだった。
「やっぱこの話、やめにするか」
「いや、続けてよ。途中でやめられたら気持ち悪くて夜も眠れないじゃない」
「眠れないって理由だけで俺を夜中のファミレスに呼び出しといて、よく言う」
「ふふ、わたしは人遣いが荒いの。まあそれより金遣いの方がもっと荒いから、今日は私が持ってあげるわよ。それでいいでしょ?ねえ、早くさっきの話の続き聞かせてよね」
香奈はメイクを落とした眉毛のない色白の顔を啓介に向けながら、パフェ用の長いスプーンを右手でくるくる回している。
「はいはい、そりゃどうも。…で、どこまで話したんだっけ?」
「水には心が無くて、容器は水が好きだった」
「そうそう。それで、ある時水は心を持ったんだよ。宿った、と言った方が的確かもしれないけど」
「どうして急に心が宿ったの?」
香奈はいかにも興味深そうに聞き返す。啓介はまだ途中の煙草を灰皿に置き、窓の外に見える半月と同じくらいのんびり答える。
「水は恋をしたんだ」
「ちょっと待って。それはおかしいわよ。だって水には心が無いんでしょ?だったら恋もくそもないじゃない。そんな話あり得ない」
「おっとそれはNGだな。そんなこと言い出したら、それこそ今すぐこの話を切り上げるべきだ。そもそもの設定が、容器に心があるって所なんだからさ」啓介は落ち着いている。
「そっか、ごめんごめん。童話なんだから論理的な欠陥なんてある程度見逃せってことね」
「そういうこと。それで、水が恋をするとどうなるのかについてだけど」
「どうなるの?」
「熱を帯びて水蒸気になるんだ」
「ふふっ、おもしろいわね、それ」
「水蒸気になった水は容器のもとを離れてふわふわ飛んで行こうとした。容器はそれを止めた。『待って、行かないでくれよ。ぼくは君のことが大好きなんだ。君に心が生まれる、そのずっとずっと昔から』ってね。でも水は浮かぶのをやめようとしなかった。水はどんどん飛んでいって、もうどうやったって容器の所へは帰れないってくらいになった時、生まれて初めて口を開いた」
「水が、口を開いたのね?」
「そう。こう言ったんだ。『容器さん、今まで本当にありがとう。私は心が無かった時からずっと、あなたが私を好きでいてくれたことを知っています。でも私は行かなくちゃ。だって恋をしてしまったんですもの。けれど容器さん、どうかこれだけは忘れないで。たとえあなたのもとを去ってしまっても、たとえ身体はこんなもやもやの水蒸気になってしまっても、私はずっと私のままだってことを』。そして水蒸気になった水は恋人のもとへ、取り残された容器の方はそのまま机の上にひとりぼっちってわけさ」
啓介は顔の前で組んでいた手を静かに離して、煙草の残りを吸い始めた。普通ならばこんな話は誰も聞き入るような内容ではなかった。それがたとえ、どうしても眠れずに一人で深夜のファミレスに向かい、時間を取りとめもなく潰すような場合であっても。物語は欠陥があったし、設定も抽象的すぎた。それでも香奈がうっかり聞き入ってしまったのは、啓介がそのつまらない物語を、本当にどうでもいいことのように語ったからだった。会話の部分と描写の部分とで、啓介は声の調子を少しも変えようとしなかった。せいぜい間をおいて区切りをつけたくらいのものだった。でも、それが香奈には逆にしっくりきたのだ。どうしてそれほどまでに物語に夢中になれたのか、香奈は自分でもよくわからなかった。それは本当にただの偶然なのかもしれない。
啓介はさっきと同じ煙草を短くなるまで丁寧に吸った。香奈が頼んだパフェの底のシリアルはもうすっかりふやけてしまっていた。
「ずいぶん残酷な童話じゃない。それでおしまいなの?」
「いや」と啓介は言って、火を灰皿に押し付けて消した。「ちゃんとオチがあるよ。それで俺はこの童話を話そうと思ったんだから」
「どういうオチなの?」
「お前にぴったりのオチだと思う」
「ねえ、もったいぶってないで教えなさいよ」
「容器はそのあと、どろどろに溶けちゃったんだ」
「どういうこと?」と香奈は聞いたが、啓介はそれには答えようとせず、別のテーブルに座っていた中年の夫婦の方を見ていた。仕方なく香奈は当てずっぽうで言ってみた。
「もしかして失恋のショックでって言うんじゃないでしょうね?」
「いや違う」
「じゃあ何なのよ」
「容器は氷製だったんだ」
奇妙な沈黙があった。香奈はそれが過ぎ去るのを辛抱強く待ってから、声のトーンを意図的に明るくして、言った。
「つまり全部おんなじ水分子だったんだぞってこと?」
「簡単に言うとそういうことになる」
「水分子について考えさせられる童話だなんて、エリートのおぼっちゃまお嬢ちゃま向けに書かれた童話なのかしら。ふふっ、気に入っちゃったわよ。あんたの言う通り、このお話は私にぴったりってことにしてあげる」
「そりゃどうも」
それからしばらくの間は二人とも黙って、各々の時間を過ごした。啓介は二本目の煙草を吸い、香奈は鮮度の落ちたぬるいパフェを形式的に口に運んだ。思いついたように香奈が話し始めた。
「念のため聞いとこうかしら、私」
「何でもどうぞ」
「そのお話って、何て名前の作家が書いたものなの?」
「書かれた童話じゃないんだ。この童話は、ただ話されることによってのみ存在し続けてる。人から人への口伝え。素敵だと思わない?そういうのってさ」
「確かにちょっと素敵ね。じゃあ、あんたはそれを誰から聞いたの?お母さんとかお父さん?」
「いや、違う」
「誰?まさか、ふふ、琵琶法師とか言い出さないでよ?」
「ははは、いや、まあ、白状するよ。実はと言うと、これは今俺が即興で作ったんだ」
「え、嘘。本当に?いや、嘘でしょ」
「…まあ、どっちだっていいや」
啓介は無造作に答えた。
「うっそ、信じらんない!じゃあ本当なの?全然わかんなかった。即興だったらかなり上手いストーリーじゃないのよ。あんた才能あるんじゃない?」
「夜中の二時にファミレスで論理的に破綻した即興童話を口伝えする才能?」
「そうじゃなくて、…。……。まあ、なんでもない。今のナシ」
どう言っていいのか、香奈は思いつかなかった。
「了解」と啓介は言った。
若いウェイトレスがパフェのグラスを下げにきた。まだ少し残っていたが、香奈はそれを下げてもらった。啓介はついでにホットミルクを注文して、それを飲んだ。
「ねえ、私ちょっと閃いちゃったんだけど」とおもむろに香奈が言った。「あんたのしたお話って、もしかして私を励ましてる?」
「さあ、どうだろう」と啓介は答えた。「そう思うの?」
「違うならいいわよ。感じわるいな。あんたって乙女心がわかんないのね」
「乙女は夜中の二時にファミレスでパフェを食べない」
「うるっさいわね。励ましてるのか励ましてないのか答えなさいよ、このあまのじゃく」
「あまのじゃくでもなんでも結構。俺はただ童話を話しただけだよ。水分子でできた入れ物から水分子がはみ出して、水分子として消えていく」
「どうやっても、どこに行っても、水分子なのよね」
「そういうこと。なんか眠たくなってきた。そろそろ帰ってもいいだろ?」
「うん、ありがと。何か今日は久々に眠れそうな気がする」
「そりゃよかった。じゃあ。ホットミルクと、うまい水をご馳走さま、かわいい乙女さん」
「気にしないで、私のおごりよ。ふふっ」