主神争いを辞退した豊穣の女神は、人間界で畑を耕すことにしました
神界は、朝からにぎやかだった。
次期主神の座を巡る争いは、ここ数百年で一番の盛り上がりを見せている。雷の神は回廊で雷鳴を轟かせて支持者を集め、海の神は連日の宴で味方を増やし、知恵の神は他の候補の失言を片っ端から書き留めて回っていた。
「フレイ様! どうか我が陣営に!」
「いやいや、豊穣の女神様は我々と! 実りを制する者が民の心を制しますぞ!」
回廊を歩くだけで、左右から神々が寄ってくる。豊穣の女神フレイは、にこにこと会釈をしながら、その間をするりとすり抜けた。
(皆さん、お元気ですねえ)
感心はするけれど、混ざりたいとは少しも思わない。主神というのは、神々をまとめ、世界の理を差配する、とても大変なお役目だ。大地に種を芽吹かせるのが好きなだけの自分には、向いていないと、フレイは思っている。
だから争いには加わらず、自分の庭で花を眺めていたのだが、そこにも使者が来た。次の日も来た。その次の日には、使者同士が庭先で言い争いを始めて、育てていたスミレが踏まれた。
「…………」
フレイは踏まれたスミレをそっと起こして、根もとに土を寄せてやった。
「決めました」
誰も聞いていない庭で、ぽんと手を打つ。
「引退します」
書き置きは、短いほうがいい。長く書くと、きっと誰かが読んで、引き止めに来てしまう。
『引退します。探さないでください。 フレイ』
これを主神の間の机にちょこんと置いて、フレイは神界の端から、人間界へ続く階段をひとりで降りていった。
(豊穣の女神である私が、食べるものに困るはずがありませんもの。畑を耕して、のんびり暮らしましょう)
ふふ、と笑みがこぼれる。神界の喧騒から離れるだけで、胸の中がすうっと広くなった気がした。
雲を抜けて降り立ったのは、初夏の風が吹く、なだらかな丘の上だった。
眼下に、小さな村が見える。屋根の藁は所々薄くなり、畑の半分ほどは草が伸びたまま、使われた気配がない。煙突から上る煙も、数えるほどしかなかった。
それでも、フレイは目を輝かせた。
「まあ! ここは広くていいですねえ。畑も作れそうです!」
風は静かで、空は広くて、土の匂いがやさしい。ここなら、のんびり暮らせそうだ。
丘を下りながら、フレイは段取りを考えた。まずは畑を作る。土を耕して、種を蒔いて……。
足が、ぴたりと止まった。
「…………種が、ありません」
豊穣の力は、芽を育てることはできても、何もない土から種を生み出すことはできない。当たり前のことなのに、降りてくるまで気づかなかった。
それどころか、鍬も、鋤も、水を汲む桶も。
「あらあら……」
フレイは頬に手を当てて、少し考えてから、にっこり笑った。
「では、どなたかにお願いしてみましょう!」
* * *
村の入り口近くの畑で、一組の家族が働いていた。
麦わら帽子の男が、畝のあいだにかがんで草を抜いている。その隣で、日に焼けた女性が支柱を立て、十歳くらいの女の子が小さな桶で水を運び、少し離れた場所では、十四、五歳の少年が土を掘り返していた。
「すみません。少しよろしいでしょうか?」
声をかけると、四人がいっせいに顔を上げて、いっせいに固まった。
丘から降りてきたのは、見たこともないほど美しい女性だった。豊かな髪が陽を受けて淡く光り、身にまとう衣服は、質素なのにやけに品がいい。畑の真ん中にそぐわないこと、この上ない。
「ど、どちら様で……」
「フレイと申します。今日から、この村の近くで暮らそうと思っています。それで、種を分けていただけないでしょうか?」
「種、ですか」
「はい。お金は持っていないので、こちらの腕輪でお願いできたらと思うのですが……」
フレイは手首から金の腕輪を外して、両手で差し出した。
男――ヤコブは、それを見て、ひゅっと息をのんだ。細かな蔦の模様が彫られた腕輪は、素人目にも、ひと財産という代物だった。
「い、いやいやいや! 受け取れません! こんな高価なもの、種なんかと替えられませんよ!」
「そうなのですか? 足りないでしょうか。他にも、こちらの飾りが……」
「増やさないで! 逆です! 多すぎるんです!」
ヤコブが慌てて両手を振ると、妻のアンナが、その背中をつついて小声で言った。
「あなた、この方、只者じゃないわよ。あの手を見て。畑仕事なんて、一度もしたことのない手だわ」
ヤコブは咳払いをして、腕輪から目をそらしつつ言った。
「種くらいなら、分けますよ。困ったときは、お互い様ですからね。……それで、どんな種が要りますか?」
「それが、よく分からないのです。一番育てやすいものを、教えていただけますか?」
「畑をやるのは、初めてで?」
「はい! 初めてです!」
元気のいい返事だった。
ヤコブはアンナと顔を見合わせてから、納屋へ行って、小さな布袋をいくつか持ってきた。豆、蕪、人参、葉物の種。袋には手書きの印がつけてあって、フレイは感心して見入った。
「まあ! 袋ごとに、印が違うのですね」
「はは……間違えると大変なので」
「これだけあれば、畑ができます! ありがとうございます! では、畑にする場所を探して、それから、寝る場所も見つけなくては」
「寝る場所? フレイさん、住むところはあるんですか?」
「住むところですか? 大地に寝ようかと思っていました!」
フレイは晴れやかに言い切った。
「大地は広いですし、寝る場所には困りませんから!」
沈黙が落ちた。
女の子が、桶を持ったまま、ぱちぱちと瞬きをする。少年が、鍬を取り落とした。
「大地に寝る? いやいや、それはいけません!」
ヤコブが叫んだ。
「夜は冷えるし、獣も出るんですよ。村の端に、誰も使ってない小屋があります。古いですけど、屋根はあるから、そこを使ってください!」
「まあ! よろしいのですか?」
「いいも悪いもありません! コリン、すぐ掃除に行くぞ!」
「う、うん!」
ヤコブ一家は、突然あわただしく動き出した。アンナは毛布を取りに走り、女の子のパメラは「お花を飾ってあげる!」と叫んで駆け出し、少年のコリンは納屋から古い鍬と鋤を引っぱり出してきた。
フレイはぽかんとして、それから、胸の奥があたたかくなるのを感じた。
(人間の方々は、こんなに親切にしてくださるのですね)
ありがたくて、もう一度、腕輪を差し出した。
「ヤコブさん、ありがとうございます。どうぞ、これを」
「いや、だから……」
ヤコブは困り顔で頭をかき、しばらく腕輪とフレイの顔を見比べていた。
「……じゃあ、こうしましょう。この腕輪は、預かっておきます。種と小屋なんて、お代にもなりませんから。必要なものがあれば、うちで用意しますし、人手も出します。それで、この先フレイさんが入り用になったら、いつでも返しますから」
フレイは、そうなのですね、と素直にうなずいた。
「分かりました。では、お預けします。大切にしてくださいね」
「こっちの台詞です……」
ヤコブは、布に包んだ腕輪を、卵でも持つように、そうっと受け取った。それから、フレイの名前を、もう一度口の中で転がす。
「フレイ、さん……ですか。神様と同じお名前だ」
「そうなのです。昔から、そう呼ばれておりまして」
「…………」
アンナが、ヤコブの袖を引いて囁いた。
「神様のお名前を名乗れるなんて、きっと、とんでもなく高貴なお家の方よ」
「だよな。何か、事情があるんだろう。根掘り葉掘り聞くのは、やめておこう」
ひそひそ話は、フレイには聞こえなかった。フレイは、パメラが摘んできたタンポポを受け取って、「まあ、きれい!」と本気で喜んでいた。
* * *
翌朝から、初夏の陽射しの下で、農作業が始まった。
フレイは小屋の前の、雑草だらけの空き地を畑にすることにした。ヤコブ一家が揃って手伝いに来てくれて、コリンが鍬の持ち方から教えてくれる。
「こう、足を開いて、腰を落として。腕だけで振っちゃだめです。体全体で、土に落とすんです」
「体全体で……こう、でしょうか? えいっ」
ごつん。鍬の先が、石に当たった。腕に、じいんと痺れが走る。
「あら……! 土の中に、石が隠れていますね」
「そこら中にありますよ。拾わないと、鍬が欠けますから」
石を拾って、耕して、また石を拾う。昼になるころには、フレイの手のひらにぷくりと豆ができて、背中は悲鳴を上げていた。
アンナが、昼食のパンを抱えて呼びに来た。
「フレイさん、お昼にしましょう。さあ、こちらへ」
「私は、お構いなく! お腹は空きませんので!」
「まあ、遠慮なさらなくても」
「いえ、本当に! それより、この畝をもう少し整えたいのです!」
アンナは首をかしげたが、それ以上は勧めなかった。
疲れているはずなのに、フレイは楽しかった。
(これを、毎日やっていらっしゃるのですね)
畑の向こうでは、ヤコブとアンナが、いつもの作業を黙々と続けている。腰をかがめて草を抜き、水を運び、支柱を直す。その手際のよさは、美しいとさえ思えた。
夕方、フレイはぺたんと地面に座り込んで、ほう、と息をついた。
「農民の方々って、すごいですねえ」
「え?」
水を運んできたアンナが、きょとんとする。
「毎日こんなに働いていらっしゃるのですね。土を整えて、種を植えて、お世話をして……。私、作物は種を植えれば育つものだと思っていました。でも、それだけではないのですね。皆さんの手が、作物を育てているのだと分かりました」
アンナは、桶を持ったまま、しばらく黙っていた。それから、少し照れたように笑った。
「そんなふうに言ってくださる方は、初めてですよ」
「本当のことですから!」
日が傾くころ、ヤコブ一家は、畑の端に並んで膝をついた。アンナが、そっと土に手を置く。
「今日も、大地の恵みに感謝します」
短い祈りに、ヤコブとコリン、パメラが、静かに声を重ねた。
その瞬間、フレイの胸に、ぽっとあたたかな灯りがともった。
(……あら)
神界でも、毎日のように祈りは届いていた。けれど、それは遠くの空から流れてくる、薄い霞のようなものだった。こんなふうに、すぐ目の前で、土に向けられる祈りは、初めてだった。
あたたかい。ふんわりと、胸の奥まで染みてくる。
「フレイさん? どうかしました?」
「いいえ! いいえ、そうですね……」
フレイは、にっこり笑った。
「とても、いい祈りだと思ったのです」
アンナは不思議そうに首をかしげたが、「ありがとうございます」と微笑んだ。
翌日も、その翌日も、フレイは畑に出た。種を蒔き、水をやり、雑草を抜く。美しい服は泥だらけになり、髪には藁くずがくっついた。
通りかかった村人たちは、そのたびに足を止めた。
「おい、見たか? あの方、素手で草を抜いてるぞ」
「あんなに綺麗な服で……いいのか、あれ」
「いや、本人が楽しそうだから、いいんじゃないか……?」
村の人々は、遠巻きにその姿を眺めて、首をかしげていた。身分の高そうな方が、自分たちと同じ畑で、同じように汗を流している。そんな光景は、見たことがなかった。
* * *
十日目のお昼のこと。
畑の脇の木陰で休んでいると、パメラが、真っ赤なものを両手に抱えて駆けてきた。
「フレイさん、これ! うちのトマト! 今朝、一番に赤くなったの!」
「まあ、きれいな色ですね! 宝石みたい」
「食べて食べて!」
「食べる……ええと、これを、ですか?」
フレイは、トマトをまじまじと見つめた。
神々は、人間のように食事をしない。供物として捧げられたものの香りと、そこに込められた祈りを受け取るのが「食事」だった。トマトを手に持つのも、口にするのも、初めてだ。ずしりと重くて、陽だまりのようにほんのり温かい。
「実は、食べ物を口にするのは、初めてなのです」
「えっ」
アンナが、手に持っていたパンを落としかけた。
「そういえば、ずっと何も召し上がっていませんでしたね。まさか、ずっと、お食事を……?」
「はい。いただいたことがなくて」
アンナとヤコブは、そっと視線を交わした。きっと、大きなお屋敷の奥で、何かの事情があって、食事を控えて育ったのだろう。そう思うと、アンナは目頭が熱くなって、慌ててエプロンで顔を拭った。
事情は、まるで違うのだが、フレイは気づかない。意を決して、トマトにぱくりとかじりついた。
じゅわっ、と果汁が広がる。
甘い。それから、ほんのり酸っぱい。口の中いっぱいに、夏の陽射しが弾けたようだった。
「…………!」
フレイの目が、まん丸になった。
「おいしーい!」
叫んだ拍子に、果汁が顎を伝った。慌てて袖で拭おうとすると、アンナがそっとハンカチを差し出してくれた。
「これが……これが、おいしい、ということなのですね! 香りだけでは、分かりませんでした! こんなに素敵なものだったなんて!」
「喜んでもらえて、よかったですよ」
ヤコブが、ふっと笑った。それから、思い出したように、腰の小袋を探る。
「フレイさん、よかったら、これも。塩を振ると、もっと甘くなります」
「塩? お清めに使うものでは?」
「お清めにも使いますけど、料理にも使いますよ」
フレイは半信半疑のまま、塩を少しだけつけたトマトを、もう一口かじった。
甘みが、ぐんと引き立つ。さっきよりも、ずっと深い。
「もっと美味しーーい!」
手を頬に当てて、ぶるぶると震えるフレイを見て、パメラがけらけらと笑った。コリンも、つられて吹き出す。
フレイは、残りのトマトを大切に味わって、ほう、と満ち足りた息をついた。
「塩は、お清めだけではなかったのですね。人間の方々は、なんて素敵な知恵をお持ちなのでしょう」
「大げさですよ」
「いいえ! 本当に、すごいことです!」
食べ物のおいしさを知ってしまったら、もう、楽しくて仕方がない。
その午後、コリンが畑の隅で、新じゃがを掘り出していた。土の中から、ころころと丸い芋が出てくる。
「まあ! 土の中に、こんなに!」
「新じゃがです。蒸かして、バターを乗せると最高ですよ」
フレイは、掘りたての芋を一つ手に取って、しげしげと眺めた。土の匂いがして、ほこほこと温かそうに見える。
「このお芋も、そのまま齧れますか?」
「え?」
フレイは、口を大きく開けた。
「待ってー!!」
パメラが全速力で突っ込んできて、フレイの腕にしがみついた。
「フレイさん、待って! お芋は生で齧るものじゃないの! お腹が痛くなっちゃう!」
「まあ! そうなのですか!」
「蒸かすの! 茹でるの! 焼いてもいいの!」
「蒸かす、茹でる、焼く……! なんて奥が深いのでしょう!」
フレイは真剣な顔で、パメラの言葉を復唱した。パメラは、フレイの手から芋をむしり取って、ほっと胸を撫で下ろす。コリンは、腹を抱えて笑っていた。
その晩、ヤコブ家の食卓には、蒸かした新じゃがが載った。バターが溶けて、湯気とともに立ちのぼる香り。フレイは、一口食べて、しばらく声を出せなかった。
「…………生で齧らなくて、本当によかったです」
「でしょう!」
パメラが、得意げに胸を張った。
* * *
村に来てひと月が過ぎたころ、フレイは、ヤコブに連れられて、村長の家を訪ねた。
村長のヘクターは、六十を過ぎた、白い眉毛の老人だった。古びた机の上に、黄ばんだ羊皮紙を広げて、腕を組んでうなっている。
「ああ、ヤコブか。……そちらが、噂のフレイさんかね」
「お邪魔します。フレイと申します」
深々と頭を下げたフレイは、机の上の羊皮紙に、ふと目を留めた。
「まあ、古い書体ですね。昔の王国の公用文字でしょうか」
「ええ。先代から預かった、この村の古い記録でしてな。倉の奥から出てきたのですが、誰も読めんのです。近ごろは水路が詰まりがちで、何か昔の知恵でもあるまいかと、探しておったのですが」
「拝見してもよろしいですか?」
羊皮紙を受け取ったフレイは、さらさらと目で追った。
「あら、この村には昔、決まりがあったようですよ。年に二度、春と秋の初めに、村の皆さんが揃って水路の泥をさらう日があったようですね」
「水路の……ほう」
ヘクターは顎をさすって、遠くを見る目になった。
「そういえば、先代が小さい頃、水遊びの後に祭りをしたと聞いたことがあるような……」
「まあ。他の村でも、水路の手入れをした後に、みんなで食事をしたりしますので、それでしょうかねー」
「他の村でも?」
「はい。昔、川沿いの村で見たことがあります。皆さんで泥をさらって、終わったらにぎやかに食事をして。子どもたちも、楽しみにしていましたよ」
ヘクターは、羊皮紙に目を落として、しばらく黙っていた。
「昔の、習わし……。そういえば、倉にはまだ、手つかずの箱がいくつかあったはずだ」
独り言のようにつぶやいてから、顔を上げる。
「他にも資料がないか、探してみますでな。何か分かったら、また相談に乗ってもらえますかな」
「はい、もちろんです! 私でよければ、いつでも!」
フレイは、嬉しそうに引き受けた。
「……いやあ、本当にお詳しい。フレイさんは、どこでそんな知識を身につけられたんです?」
「長いこと、いろいろなことを見聞きしてきましたので」
フレイにとっては、知っていることを話しただけだ。けれど、ヘクターは「なるほど……」と何度もうなずき、帰り際、ヤコブにこっそり囁いた。
「いやあ、やはり高貴な方なのだろうなあ。あの教養は、そこらの学者以上だぞ」
「俺も、そう思います」
ヤコブは、深々と同意した。
* * *
その日の夕暮れ、村の井戸のまわりには、いつになく人が集まっていた。
鍛冶屋の親父に、粉屋のおかみさん、羊飼いの青年、洗濯物を抱えた老婆。ヤコブも、水桶を提げて加わっている。話題は、もちろんあの人のことだった。
「なあ、あの方、絶対に高貴な方だよな?」
「絶対に高貴な方だ!!!」
全員が、声を揃えた。
「文字も読めるし、村長の相談にも、ちゃんと乗ってたんだろう?」
「ああ、ヘクターさんが、感心しきりだったよ」
「それなのに、俺たちと一緒に、泥だらけで畑を耕すんだよ」
「この間なんか、俺が通りかかったら、『こんにちは、鍛冶屋さん! いつも立派な鍬をありがとうございます!』って。俺の仕事も、ちゃんと覚えててさ」
鍛冶屋の親父が、ぐすっと鼻をすすった。
「あんなに綺麗な方が、あんなふうに言ってくれるなんてなあ」
「偉ぶらないしなあ。世間知らずなところは、確かにあるけど」
「お金の使い方も、ご存じないみたいですよね」
粉屋のおかみさんが、くすりと笑う。
「まあ、高貴な方だから仕方ないなあ」
「だな。高貴な方だから、仕方ない」
村人たちは、うんうん、とうなずいた。それから、羊飼いの青年が、ぽつりと言った。
「……何か、事情がおありなんでしょうね。あんな方が、こんな寂れた村に来るなんて」
井戸端が、少し静かになった。
「詮索は、しないでおこう」
最初に口を開いたのは、ヤコブだった。
「いつか話したくなったら、話してくださるさ。それまでは、俺たちの村で、のんびり暮らしてもらえばいい」
「そうだな。それがいい」
「畑のことなら、いくらでも教えてやる」
「うちの粉も、持っていってもらおう」
それぞれが、さも当然のように、そう決めた。誰も、見返りなど考えていない。ただ、あの笑顔が曇るのは嫌だった。
「……あ、そうだ。大事なことを忘れてた」
ヤコブが、ぽんと手を叩く。
「先日、うちの子どもらが見たんだが。フレイさん、掘りたての芋を、生で齧ろうとしたらしい」
「ええっ!?」
「生で!?」
「まさか、そのままで!?」
「パメラが止めた。ぎりぎりで」
粉屋のおかみさんが、胸に手を当てて、天を仰いだ。
「……ああ、本当に、目が離せないねえ」
「でも、芋を生で齧ろうとするのは、止めてやらないとな!」
鍛冶屋の親父が、真面目な顔で言い、一同は、今夜いちばんの笑い声を上げた。
* * *
それから、季節は巡った。
夏の盛りには、フレイの畑にも豆が実り、蕪が太った。初めての収穫のとき、フレイは泥だらけのまま、籠いっぱいの豆を抱えて、ヤコブの家へ駆けていった。
「ヤコブさん、アンナさん、見てください! 私の、私の畑の豆です!」
「おお、立派じゃないですか!」
「でも、これは、皆さんが教えてくださったおかげです。石の拾い方も、水のやり方も、全部」
フレイは籠を抱えたまま、何度も頭を下げた。
ヘクターは、倉の奥をひっくり返して、古い記録をさらに見つけ出した。ときどきフレイを訪ねては、読めない箇所を一緒にのぞき込み、そのたびに「ふむ、なるほど」と、うなずいていた。夏の終わりには、ヘクターの号令で、昔のやり方にならって、村中で水路の泥をさらう日が設けられた。終わったら、みんなで焼きたてのパンを分け合った。長いこと忘れられていた習わしは、はじめ照れくさそうだった村人たちの顔を、いつの間にか、笑顔にしていた。
不思議なこともあった。今年の村の作物は、どれも、やけに育ちがいい。
「今年は、天気に恵まれたなあ」
「雨も、ちょうどいいときに降ったしな」
「それにしても、南瓜の大きいこと」
村の人々は、首をかしげながら、嬉しそうに畑を見渡した。誰も、それがフレイの力のおかげだとは、微塵も思わなかった。フレイ自身も、ただ「皆さんの努力が実りましたねえ」と、にこにこしていた。
フレイの力が、ほんの少しだけ大地を撫でたのは、確かだった。けれど、その力を呼び起こしたのは、毎日の祈りと感謝を惜しみなく向けてくれる、村人たちのほうだった。
やがて、風が冷たくなり、畑が黄金色に染まる季節がやってきた。
ある晩、村長の家で、ヘクターがぽつりと言った。
「……今年はやれそうだな。収穫祭を」
集まっていた村人たちが、はっと顔を上げた。
収穫祭を開けなくなって、もう何年になるだろう。食べるだけで精いっぱいで、祭りに回せる余分な作物など、どこにもなかった。それが今年は、倉の中に、確かに余りがある。
「やれるのか?」
「やれるさ。なあ?」
「やりましょうよ!」
ヤコブが身を乗り出し、アンナが目を潤ませ、鍛冶屋の親父が「樽を出す!」と叫んだ。
準備は、あっという間に進んだ。粉屋は大きなパンを焼き、羊飼いは羊を一頭分けてくれ、女たちは林檎や南瓜をずらりと並べた。子どもたちは藁で飾りを編み、パメラは、フレイの腕を引っぱって広場へ連れていった。
「フレイさんも、手伝ってね! ここに、花を飾るの!」
「はい! お花は、得意です!」
フレイは、いそいそと花を並べながら、胸をふくらませていた。
(お祭り……! 神界のお祭りは、見たことがありますけれど、人間のお祭りに参加するのは、初めてです)
そして、収穫祭の日が来た。
広場に、長い長い食卓が並んだ。焼いた南瓜、茹でた秋の芋、林檎のパイ、羊の肉の煮込み、焼きたてのパン。真ん中には大きな樽が据えられ、村人たちが、杯を手に集まってくる。
ヘクターが、杯を高く掲げた。
「今年の実りに! そして、この村に来てくださった、新しい仲間に!」
「乾杯!」
歓声が上がり、杯が、あちこちでぶつかり合う。フレイも、林檎の果汁の杯を、おずおずと掲げた。
「か、乾杯です!」
「フレイさん、これ食べて! うちの南瓜!」
「こっちの肉も!」
「焼きたてのパンもあるぞ!」
あちこちから料理が回ってきて、フレイの皿は、あっという間に山盛りになった。一口食べて、また一口。そのたびに、フレイの目がきらきらと輝く。
「南瓜、甘いです! パンも、ふかふかです!」
「ははは、そりゃよかった!」
笑い声が広場いっぱいに響く中、誰かが笛を取り出した。軽やかな音色に、太鼓がとんとんと拍子を刻み始める。広場の真ん中に、踊りの輪ができた。
パメラがフレイの手をつかんで、輪の中に飛び込む。
「フレイさん、踊ろう!」
「ええっ、私、踊ったことが……きゃっ」
足がもつれて、フレイは転びそうになった。それを、コリンがさっと支える。
「大丈夫です。足を合わせるだけ。みんな、適当ですから」
「まあ、適当でいいのですか!」
ぎこちなく、くるくる回るフレイを見て、輪の中の誰もが笑った。馬鹿にする笑いではなかった。嬉しくてたまらない、という笑いだった。
やがて、誰かが言った。
「フレイさん、歌は? 歌えるかい?」
「歌、ですか?」
「祭りには、歌がつきものだ。何か歌ってくれよ!」
「まあ! では、少しだけ」
フレイは、輪の中心に進み出た。みんなの顔が、篝火に照らされて、こちらを向いている。ヤコブも、アンナも、ヘクターも、鍛冶屋の親父も、粉屋のおかみさんも。そして、パメラとコリンも。
不思議と、緊張はしなかった。
フレイは、そっと息を吸い、大地を撫でるように歌い始めた。
それは神界に昔から伝わる、芽吹きの歌だった。意味を知る者は、人間の中には誰もいない。けれど、その旋律は、春の朝の風のように柔らかく、広場を満たしていった。
最初に気づいたのは、パメラだった。
「……あ」
足もとの地面が、ほのかに光っている。
淡い、あたたかな光だった。歌に合わせて、息をするように、ゆっくりと明るくなったり、暗くなったりする。広場の土が、フレイの歌に耳を澄ませているようだった。
誰も、それ以上、声を出さなかった。ただ、歌に包まれて、立ち尽くしていた。
最後の一節が、夜空に溶けていくと、光は、ふうっとやわらかく消えた。
静寂。
「……なあ。篝火のせいか? 地面が、光って見えたんだが」
鍛冶屋の親父だった。目をこすりながら、きょろきょろと足もとを見回している。
「親父さん、酔っ払ってるんじゃないですか。もう三杯目ですよ」
羊飼いの青年が笑うと、粉屋のおかみさんが、肩をすくめた。
「あんなに綺麗な人が、あんなに素敵な歌を歌ってたら、そりゃあ、何だって光って見えるさ」
「……ああ、美しい」
鍛冶屋の親父は、うっとりと夜空を仰いだ。
「女神様だ……」
「本当に、神様みたいでしたね」
アンナが、胸に手を当てて、しみじみと言う。
「違いない! 神様みたいだ!」
「酔っ払いにも、ありがたい歌だったなあ!」
どっと笑いが起きた。拍手が起きて、杯が掲げられ、誰かが「もう一曲!」と叫んだ。
フレイは、頬を赤くして、ぱちぱちと瞬きをした。
「光ですか? まあ、篝火がきれいですものね。それより、皆さんと一緒に歌えて、とても楽しかったです!」
誰も、本当の神様だとは思ってなかった。ただ、そう言いたくなるほど、歌が美しくて、心があたたまったのだ。
フレイ自身も、ただ歌っただけのつもりだった。けれど、胸の奥には、これまでにないほど、あたたかく満ちたものが宿っていた。村人たちが一人ひとり向けてくれる、感謝と親しみ。それが、静かに、静かに、フレイの中へ流れ込んでくる。
(皆さんが、一生懸命に育ててくださったおかげですね)
フレイは、そっと胸に手を当てた。
「私も、一緒にお祝いできて、嬉しいです!」
* * *
翌朝。
フレイは、小屋の窓から差し込む光で、目を覚ました。
昨夜は遅くまで、みんなで歌って、笑って、ようやく布団に入ったのは、月が高く昇ったころだった。それなのに、不思議と体が軽い。
小屋の中は、すっかり住まいらしくなっていた。パメラが摘んでくれた野の花が、窓辺で揺れている。アンナが縫ってくれた布団。コリンが直してくれた戸棚。ヤコブが運んでくれた、小さな机。
「ふふ。いいお天気です」
フレイは頬に手を当てて、にっこりした。それから勢いよく起き上がり、髪についた藁くずをささっと払って、壁に立てかけた鍬を、ひょいと肩に担いだ。
扉を開けると、朝の空気が、ひんやりと頬を撫でた。
畑は、いつもどおり、そこにある。昨夜の祭りの余韻など微塵もなく、朝露をまとって、静かに光っていた。
「さあ、今日も畑仕事を頑張りますよー!」
ぐっと拳を握って、意気込む。
「フレイさん、おはようございます!」
声のほうを見ると、畑の向こうの小道を、アンナが籠を抱えてやって来るところだった。後ろには、ヤコブとコリン、パメラの姿もある。
「おはようございます、アンナさん! 皆さん!」
「おはよう、フレイさん。昨日は、遅くまでお疲れさま」
「いえいえ、とても楽しかったです!」
「そりゃよかった。……でも、フレイさん」
アンナが、くすっと笑って、籠を持ち上げて見せた。ふわり、と焼きたてのパンの香りが広がる。
「畑仕事の前に、まず朝ごはんですよ」
「朝ごはん!」
フレイの目が、ぱあっと輝いた。
「今日はね、昨日の残りの林檎のパイもあるの!」
パメラが飛び跳ねる。
「それとね、蒸かしたお芋! ちゃんと蒸かしてあるからね!」
「まあ! ありがとうございます、パメラさん!」
「生で齧っちゃだめだよ、フレイさん」
「もう、齧りませんってば!」
コリンがからかい、ヤコブが吹き出し、フレイも、ころころと笑った。
鍬を畑の端に立てかけて、フレイは、みんなと並んで、小屋の前の草の上に腰を下ろした。籠から、湯気の立つパンが取り出される。手を組んで、頭を垂れる。
「今日も、大地の恵みに感謝します」
アンナの声に、みんなの声が重なる。フレイも、その中に、自分の声をそっと重ねた。
胸の奥が、あたたかい。
パンをちぎって、ひと口。
「……おいしいです。やっぱり、朝ごはんは、最高ですねえ」
空は高く、風はやわらかい。畑の向こうでは、村の人たちが、いつものように、それぞれの一日を始めていた。
食べ終わったら、畑仕事だ。今日も、明日も、きっと、その先も。
「楽しみです!」
フレイは、にこにこと、二つ目のパンに手を伸ばした。




