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未来の酒

作者: 雉白書屋

 あ~よい、よい、よい。良い、良い、良い。酔い、酔い、酔いっと……。え~、むかしむかし、酒に酔った男がおりまして。ふらふらとした足取りで夜道を歩き、はてさてどこへ向かうのやら……。

 いや、どこかでもう一杯か二杯、引っかけるつもりではあるのですが、迷っていたのは人生の岐路というやつです。酒が悩みを解決しちゃくれないとわかっていても、飲まずにはいられないのでした。


「おや……? へへへ……どうもお」


 男は、通りの端にぽつねんと佇む一つの屋台を見つけた。温かな灯りが地面に滲んでいる。ふらりと吸い寄せられるように暖簾をくぐった。

 屋台の客たちは皆、やや上を向き、にやけていた。その雰囲気に男もつられ、自然と頬を緩める。


「へへへ、皆さん、お楽しみのようで……さて、おれも一杯もらおうかな……お?」


 お品書きを探していた男の目に、ふと妙な貼り紙が飛び込んできた。


【未来の酒 味わえます】


「未来の酒……?」


「そのままの意味です」


 声のしたほうを見ると、屋台の奥にいた女将がゆっくりと顔を上げ、静かに微笑んだ。


「おや、これはどうも、美人女将の屋台とは気づかなかったなあ、へへへ……」


 男は照れくさそうに笑い、空いていた席に腰を下ろすと、興味本位で『未来の酒』を注文した。

 女将は「はあい」と頷くと、どこか不思議な色合いの酒を小ぶりの徳利から注ぎ、男の前に差し出した。


「ほー、これまた乙なもので」


 男は杯を手に取り、ぐいっと飲み干した。

 すると、どうしたことか。酒が喉を滑り落ちてから間もなく、目の前の空気がふわりと揺らぎ始めた。まるで布を広げ、そこに映像を投影するように、淡く光る風景が浮かび上がってきた。


「ありゃあ……これは……おれかい?」


 そこには、男が職場の先輩と肩を組み、楽しげに酒を酌み交わしている光景が映し出されていた。二人とも満面の笑みを浮かべ、その目はギラギラと熱意に満ちている。


「ああ、先輩、あんなに嬉しそうに……そうかあ、ついていってみるかなあ……」


 景色は、水たまりが乾くように徐々に狭まり、やがて屋台へと戻ってきた。女将は微笑を浮かべ、穏やかな声で尋ねた。


「どうでしたか?」


「いやあ、こりゃいい酒だねえ! 今までで一番かもしれねえ。もう一杯!」


「おやおや、お客さん。もう十分酔っていらっしゃるようですし、このへんでよしたらどうですか?」


「いやいや、聞いてくれよ! 先輩の大工がね、独立するからお前も来いっていうもんで、どうしたもんか悩んでたんだけどさあ……おれは決めた! 先輩についていく! ははは、いやあ、心が軽くなったよ! なあに、ついでに懐も軽くしたって平気平気! さあ、もう一杯!」


 男が両手を合わせて拝むと、女将はくすりと笑い、もう再び杯に酒を注いだ。

 それを飲むと、今度はそこそこの広さの家で、男が晩酌している光景が現れた。隣にはおそらく女房だろう、美しい女が座り、優しく酒を注いでくれている。どうやら独立はうまくいったらしい。


「いいね、いいねえ、もう一杯! もう一杯!」


 男は次々と酒をあおり、未来の風景もまた次々と移り変わっていった。

 子供ができ、さらに大きな家に引っ越した。ついに男も独立し、親方となった。弟子を抱え、仲間と賑やかな宴を開き、笑いながら酒を飲む――そのすべてが香り立ち、味わいと喜びが満ちてくるようだった。

 よい、よい、よい……良い、良い、良い……酔い、酔い、酔い……。

 男はすっかり上機嫌で口ずさみながら、未来の酒を飲み続けた。

 やがて、子供が結婚し、孫が生まれ、妻に先立たれ、家が少しずつ朽ちていき……最後には、自分の名が刻まれた墓石がぽつりと現れた。

 男の胸に、なんともいえぬ寂しさと深い感慨が込み上げた。

 いい人生だ。こんな人生が送れるなら、何の不安も迷いもない。

 男は目じりを拭い、照れくさそうに笑いながら、ふらりと立ち上がった。


「へへ、しかし、さすがに飲みすぎたかなあ……へへへ、へへへ……ねえ? え?」


 気がつけば、そこは屋台ではなく、しんと静まり返った夜の墓場だった。

 冷たい空気が肌を撫でる。誰の姿もない。屋台も、女将も、客たちも、すっかり跡形もなく消えていた。目の前に残されたのは、最後に見た未来の風景だけ。

 冷や汗が背中を伝って流れ、胸の奥がきゅうと締めつけられる。酒が汗とともに抜けたのか、酔いはすっかり醒めていた。

 だが、どれだけ待っても景色は変わらなかった。

 男は震える手で、墓に供えられていた徳利に手を伸ばし、口元へ運ぶ。


「よい、よい、よい、宵、宵、宵……」


 呟く声が、風に紛れて消えていく。沈んだ夕日は戻らず、男の姿は夜の闇に次第に溶けていった。

 墓の前に残されたのは、空っぽの徳利ただ一つ。月明かりに照らされ、冷えた土の上でぽつりと光っていた。

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