PART 4 生涯現役
第1話 夢一夜
◆望郷
粕原さんは、よく夢を見る。昨夜は、昔の夢だった。
粕原さんは一九五一年(昭和二六)、徳島県の山間部の貧しい農家に生まれた。三人きょうだいの末っ子だった。
高校は両親に無理を言って、徳島市内に下宿して通った。卒業して都内に就職し、あまり田舎に帰る機会がなかった。
六〇年ほどで、田舎はすっかり変わった。生家は廃屋となり、残っているのは三軒だけ。かつては二一軒あった。典型的な限界集落だ。
◆団欒
粕原さんは帰省していた。
父と母が、生まれ育った家にいた。ふたりとも久しぶりの再会を喜んでくれた。
古い家だった。囲炉裏があり、父は奥、太い大黒柱の前に座っている。父の指定席だ。
母は台所近くの席が定席だった。台所から田舎料理を運んできてくれた。懐かしい香りだった。
「洋子の好きなジャガイモや」
ザルの中のジャガイモから湯気が立っていた。
確かに、ジャガイモが好きだった。ジャガイモに味噌をつけて頬張った。
(麦飯はまずいもん)
そんなことを言った日には、ほっぺたを抓られた。かなり強く。
◆負傷
子どものころのことが話題になった。
粕原さんは小柄だったが、男子に負けないくらい元気だった。
村の中央を流れる谷でもよく遊んだ。水着などなく、男子も女子も下着一枚だった。
「もう谷に水は流れとらん。山に杉をいっぱい植えたから、地下水が涸れたんや。自然のバランスを崩したらいかん。洋子の頃が、子供らもぎょうさんおって、一番よかったなあ」
村の興廃を目の当たりにしてきた父だった。
納屋の屋根裏で飼い猫が仔を産んだことがあった。
隣の家の男の子が屋根裏に行くと、親猫が飛び降りた。男の子が手にしていた薪を投げた。薪は猫を外れてバウンドし、粕原さんの顔に命中した。
粕原さんの眉から血が噴き出した。男の子はおろおろするばかりだった。父親がガーゼを当て、包帯をしてくれた。痛くはなかったが、目の上に重い感覚がいつまでも残った。
◆本当のこと
「洋子はあの時、泣かんかったなあ」
父親が言う。見ると、若いころの父親の顔だった。
「この子は木から落ちてもケガせえへんかったのになあ。ほんまに、運が悪かったんや。眉にこんなに大きな傷跡がついてしもうたなあ」
母親が、粕原さんの眉を撫でた。
やはり、母親の顔も若かった。
(木から落ちたのは、ズロースの穴を男子に見つかって笑われ、両手でスカートを押さえたからや)
今なら、これまで話せなかったことが、打ち明けられそうだった。しかしながら、娘にズロースを買ってやれなかったことで、両親は辛い思いをしているはずだ。今さら、そんなことを言ってみたところで、何になろうか。
◆自覚
勝手口が開いた。姉だった。
「三人で昔話しとるの。楽しそうやな」
「だけど、姉ちゃん、おかしいよ。父ちゃんと母ちゃん、死んだはずやろ」
粕原さんは姉に疑問を投げかけた。
「洋子。それ、言わん方がええで。父ちゃんと母ちゃん、自分らが死んだことに気づいてないのや」
粕原さんは両親を見た。
両親の動きが止まっていた。
自分たちの死を知った瞬間、我に返って骨だけになり、ガラガラと崩れ落ちた。堪らず、粕原さんは目を背けた。
◆死者年を取らず
(そうや。黙っておこう。だけど、姉ちゃんこそ自分が死んだこと知らんのやろか。昔のままで、きれいやなあ)
勝手口から姉がスーッと消えた。
庭を横切ったのは、兄だった。
兄は三〇過ぎから行方不明になっていた。
(兄ちゃん、時々帰っとったんや!)
家族に会え、粕原さんはうれしくて仕方がなかった。
兄の姿もまた、若かった。失踪前の、元気を喪失した兄ではなかった。
第2話 シルバー用品
◆耳にタコ
粕原さんは若返った気持ちになっていた。ジャガイモを茹でていると、友人が顔を出した。
粕原さんより、二つ年下だ。二つ違うと、話が合わないことがある。彼女は麦飯の味など知らない。
友人が尿洩れパッドを買いたい、というので付き合うことにした。
やはり、店内の音楽がピンクパンサーに替わった。毎回聴かされていると
(もっとほかの曲はないのかいな)
と、うんざりする。
(今度、投書してやろう)
人は言わないと分からない。
若い時、キャッシュディスペンサーの前に長い列ができていた。細長い通路に、三行か四行かの機械が置かれている。
何人も並んでいるのに、空いている機械があった。
「空いてますよ」
先頭に教えても
「いえ。私はあの銀行じゃないんです。どうぞ、先に」
などということになる。
列が一列なので、誰が考えても、起こり得ることだった。
粕原さんはデパートに投書した。次に行った時、床に、銀行別のテープが貼られていた。提案を受け、導線を設けたのである。
◆寄る年波
デパートの二階にシルバー用品コーナーがある。
そのデパートは比較的早い時期から、高齢化に対応していた。ただ、粕原さんたちには異次元の空間であり、さっさと素通りしたものだった。
コーナーは混んでいた。何人も知っている人に会った。
(この人はすっかり年取ったなあ)
と感じる。相手も同じような目で粕原さんを見ているという意識は、なかった。
粕原さんたちの後方は、レジから死角になっていた。
同年配の女性客が、眺めていた白髪染めをさっと手提げに入れた。粕原さんは、女性の歩んできた人生に思いを馳せた。
◆御意見
「混んでまいりましたので、そこを開けてください」
店員が声を掛けに来た。
「入り口にいっぱいオムツ並べてるけど、ドラグストアやないんやから、あれを減らして、我々が休憩できる場所でも作ったら」
粕原さんの言葉に、店員は「余計なお世話だ」と言いたげだった。
「それから、床にあまり商品置かん方がええで。年寄りはつまずくから」
若い店員には、言っている意味が分かりかねたかも知れない。
いずれにしても、店に迷惑をかけるのはよくないことだった。
「久しぶりやから、コーヒーでも飲も」
粕原さんたち三人でファミレスに入った。
◆福祉崩壊
「ほんまに物価が上がったなあ」
知り合いはぼやいた。
「ウチらの老後どうなるんやろ」
友人としては、まだ老後の域に達していないようだ。気持ちだけは若い。
「ウチは粕原さんと違うて、国民年金だけやろ。食べて行くのがやっとやし、動けんようになったら入れてくれる老人ホームあるやろか」
友人は六〇までパートに出ていた。もっとも、粕原さんにしても会社勤めは長くなかったので、厚生年金は微々たるものだ。
「そうそう、私のマンションでね。この間、詐欺事件があってね。一億数千万も騙し取られた人がいたのよ」
ニュースになっているような大事件が、知り合いの周辺でも起きていたのだ。
第3話 都心再開発
◆セールス
その夫婦は多摩地区にある高級マンションに住んでいる。
旦那さんは近ごろ急に認知が進み、奥さんがほとんどつきっきりで世話をしている。奥さんが外出する時は、家政婦相談所に依頼し、家政婦さんを派遣してもらっている。手続きが面倒なので、介護保険の認定は受けていない。
電話に出ると、旦那さんの氏名を確認した後
「いやあ、おめでとうございます」
手放しの祝福だった。
「ご存じでしょう。スポーツ施設もある、都心の超一等地で再開発事業が進んでいますのは」
旦那さんは学生時代、ラガーマンだった。そこのラグビー場で試合をしたことを、奥さんによく話していた。
「ご主人にもご案内しましたとおり、予定されているサービスアパートメントのワンフロアに、二四時間完全介護付きのVIPルームが開設されるのですよ。もちろん、ご夫婦で入居できます。わが社は販売を担当しておりまして、現在、第一次書類審査を終えた段階なのです。失礼ながら、資産状況等いろいろ調査させていただきました」
再開発事業のことは、前に旦那さんから聞いたことがあった。
(しっかりしていた頃、申し込んだのかな。思い出深い地であり、ダメ元で応募していたのだろう)
それくらいに考えた。
◆プライド
奥さんは悪い気はしなかった。新宿の生まれなので、最近、都心が恋しくなっていたところだった。
「多摩に住んでいるけど、あたしゃね、新宿の生まれなのよ」
奥さんの口癖だった。
書類が届いた。細かい字が並んでいた。あの知事が認可した開発事業なので、細部まで読まずに署名して投函した。
後日、似たような横文字の会社から電話があった。やはり、第一次審査通過のお祝いを述べられた。
「当面、ご入居の予定がないのなら、入りたがっている方はたくさんおられますので、賃貸しをされてはいかがでしょうか。何、投資目的の方は同じようなことされてますよ」
不動産業界の裏話を聞かされた。
(正直者はバカを見る)
旦那さんがよく言っていた。
奥さんは賃貸しを了解した。二〇三〇年までには入居開始、と聞いた。まだ一〇年は体力が持ちそうなので、何年かは賃貸料が入る。願ってもない話だった。
◆犯罪行為
先の会社から電話があった。
隠しておく必要もなかったので、いきさつを話した。
「ええっ。それは犯罪になりますよ。注意事項をよく読まれなかったのですか。参ったなあ。わが社もへたすると、営業停止処分になります」
営業マンは、資産差し押さえに備えて、有価証券は解約し預金類はすべて、指定口座に移すよう指示した。
奥さんは大変なことをしてしまった。誠実そうな担当者だった。早急に対処しなければ、取り返しのつかないことになる。勇気を奮い起こして、銀行に出かけた。
◆貧乏のメリット
「指定の口座にお金を振り込むと、あれだけ、やいやい言ってきた会社から、ぷっつり連絡が途絶えたらしいの。警察に相談して、銀行口座を調べてもらったら、一億六千万はとっくに引き出されていたようなの」
大きな事業があると、金の亡者たちが暗躍する。歴史が証明している。
「孤独な年寄りが多いから、狙われるんやなあ。社会的弱者をターゲットにするなんて、犯罪者の風上にも置けんな」
粕原さんはいつになく、きつい口調だった。
「ウチらみたいに貧乏しとったら、そんな犯罪に巻き込まれん。ええこともあるってことか」
友人の言うことにも、一理あった。
第4話 ユートピア
◆タンス預金するカネもなし
バスの時間があるというので、知り合いと別れた。
粕原さんと友人はエレベーターホールの椅子に腰かけた。
「ウチの団地でも、みんなで集まる機会つくらんといかんなあ。けっこう、へそくり持ってる人いるよ」
友人は顔が広い。彼女が一声かければ、かなりの人が集まるだろう。
「タンス預金か。銀行の利息が低いから、わざわざ預けに行かんもんな。おかしな時代や。ウチはタンスに置いとくカネもないけど」
粕原さんの話に友人が相槌を打った。
エレベーターが開いた。
女性の親子連れが出てきた。うつむき加減のおばあちゃんが、顔を上げた。急ぎ足になった。例の雑穀のおばあちゃんだった。
「その節は大変お世話になりました」
お嫁さんが深々と、頭を下げた。
「母がお二人に卵をお届けしたい、と申すものですから」
お嫁さんは紙袋をふたつ差し出した。
「母が『今日は、どうしても行くんだ』って聞かないのですよ。まあ、お会いできなければ、警備員さんにお預けしておけばいいかと。お知り合いのようでしたので」
◆キャリア
「母の健康のために、養鶏をまた始めました」
お嫁さんは話し始めた。
「いえ。父がいた頃は四万羽飼ってましたが、今は二〇羽ほどです。庭で放し飼いなんです」
昔、田舎には鶏を飼う家が多かった。放し飼いされ、粕原さんも夕方になると「コーコーコーコー」と言いながら、鶏小屋に追い込んだ。卵は肺を病む父親の貴重な栄養源だった。
「母は朝早く起きて鶏にエサをやります。鶏は庭でミミズや小さな虫をついばみながら一日を過ごし、夕方、母が鶏舎に入れます。母は生き生きとして、とても楽しそうなんですよ。本当にお二人のお陰です」
お嫁さんによれば、おじいちゃんは東北から上京して、世田谷で養鶏業を始めた。匂いの問題などもあって、多摩の田舎に移転し、最後は埼玉で操業していた。
おばあちゃんは二〇歳で嫁ぎ、六二まで家業を手伝った。
◆卵料理
「お母さん、四〇年も鶏飼ってきたもんね。おじいちゃんと鶏がいなくなって、寂しかったよね」
お嫁さんは、おばあちゃんの背中に手を添えた。
「卵は生きてる。呼吸してるから、冷蔵庫に入れたら死んでしまうよ」
おばあちゃんは粕原さんたちに注意を与えた。
フライパンの真ん中に、鮮やかな黄身が盛り上がっていた。皿に移し、箸をつけようとして、次から次へと浮かんできたことがあった。粕原さんの手は止まったままになっていた。
(団地の集会場で料理教室やって、みんなに食べさせてあげよう。卵買いに行ったら、おばあちゃん、喜ぶやろな)
友人も目玉焼きを前に、同じことを考えていた。