和製ピンクパンサー

ＰＡＲＴ ３ 日々之好日

　第１話　認知

　◆ランチタイム

　粕原さんは、最近たまに外食する。団地の友人に声を掛けることもある。行きつけの店は、団地前のデパートのファミレスだ。

　店員に無礼があったので、ごねたら、まとまった枚数の食事券をくれた。何ら恥じるところのない、相応の償いだった。

　友人にも気前よく、好きなものを注文させる。かといって、ハンバーグやステーキなどの高額なものは食べつけていないので、カレーライスやスパゲッティに落ち着く。これで、二時間は粘れる。

　◆一人酒

「Ｂ棟の夫婦な、奥さんが認知で、よう徘徊するんやって」

　友人の情報だった。

「しっかりした奥さんやったのになあ」

　その奥さんがデパートの生鮮食品売り場で買い物している姿を、粕原さんはよく目にした。

「旦那さんが飲み歩き、奥さん、一人で晩酌しとったらしいんよ。若いころから。この間、旦那さんが酔っ払って帰ったら、奥さんがおらんかったと」

　友人の話しぶりが熱を帯びてきた。

　その晩、奥さんは帰らなかった。

　翌日、旦那さんは警察に行った。服装は分からなかったが、年恰好(かっこう)や特徴を伝え、失踪人の届けをした。

　奥さんの行方は知れなかった。もしや、と、旦那さんは奥さんの生まれ故郷に行ってみた。もう生家は廃屋になっていた。一軒だけあるビジネスホテルに、念のため、奥さんのことを話しておいた。

　◆旧姓

「何日も、旦那さん、お酒やめて、奥さんのこと待っとったと。そしたら、ホテルから電話があって『奥さん、旧姓で宿泊されてました』やって。『私は結婚なんかしてません。ずっと、この姓でした』って言い張ったらしいよ」

　ホテルのフロントは初め、連泊する奥さんに見当を付けた。しかし、宿泊者名簿の姓は別のものだった。住所は合併前の古い地名だった。電話番号が記入されていたので、念のためにダイアルしてみると、出たのは旦那さんだった。無意識的に、家の電話番号を書いたのだろう。

　生涯独身の友人には、結婚した女性の心情は理解しようがなかった。粕原さんは、なんとなく奥さんの気持ちが分かった。

「けど、哀しい話やなあ」

「そうやなあ」

　二人の会話が途絶えた。

　外気温はもう四〇度近くに達しているだろう。街に人影はなかった。

　◆ファミリー

　粕原さんが四二の年に、父親は他界した。六〇代だった。肺が弱く、晩年はほとんど家でごろごろしていた。

　母親は八一歳まで生きた。

　特養（特別養護老人ホーム）に面会に行くと、粕原さんを姉と間違えた。

「洋子はどないしとんやろ。何年も戻(も)んて（戻って）来んなあ。旦那さんは元気やろか。もう手癖の悪いのは直ったかいな。この間も、父ちゃんと心配しとったんよ。やれやれ」

　母親は大きくため息をついた。

　手がやせ細り、小学生の指のようだった。

「母ちゃん。今度、洋子に会(お)うたら、言うとくけんな」

　母親の手を握ると、自然に力が入った。母親は手を引っ込めた。

　◆親の愛

　特養の職員に、母のことをくれぐれもよろしく、とお願いして、バス停まで歩いた。

　母親と父親は、娘の窃盗癖を知っていた。被害に遭った店から、連絡が行っていたのだ。

　娘を叱ることができなかった両親を思うと、涙が止まらなかった。

（なんで、父ちゃん、あの時、一緒に死のうって言うたんやろ）

　長年の疑問が解けた。

　小学校四年の秋だった。帰宅すると、父親が涙を拭(ぬぐ)った。

「さっき、巡査が来た。なんで来たか、お前にも分かるやろ」

　父親は手を引いて、山道をぐんぐん登って行った。先に崖があった。

「一緒に死のう」

　父親に身動きができないほど、抱きしめられた。

「いやや。なんで、死なんといかんの。ウチ、怖い」

　泣きわめいていると、父親の力が緩み、二人は崖から離れた。

　父親は母親とともに、生きていた。姉も母親の記憶には生きていた。

（姉ちゃん。ずっと、父ちゃん、母ちゃんと仲良う暮らすんだよ）

　姉は自死することがなかったら、もう七五を超えていた。

　第２話　行きずり

　◆江戸っ子

「まったく、こう暑くっちゃ、いやになっちゃうね」

　隣のテーブルに新客があった。

　五〇がらみ、ハンチング帽をかぶっている。百均（百円均一ショップ）で買ったのか、クリアファイルか何かが入ったレジ袋を提げていた。

「ビールと、そうだなあ、この刺身にしようか」

　男はメニューを指さした。

「あっ、女房と娘が後で来るからね」

　家族連れのようだった。

　ビールが出た。男はコップに注いで、一気に空けた。

　大きく息を吐き、再びビールを注いだ。

「お姉さんたちは、近くなの」

　二人に話しかけてきた。

「そうなんよ。ウチら、そこの団地。毎日、暑いのう。冷やいビールが一番よねえ。お兄さんはどこに住んどるの」

　粕原さんの友人は気楽に応じている。男に免疫がない。

「オレかい。オレは隣り町だよ。姉さんたちは西の方の出身かい。冷やい、なんて、なつかしい言葉聞いちゃったなあ」

　友人は、広島で育ち、大阪にもしばらくいた、と答えた。まるっきり無防備だった。

　刺身盛り合わせが出た。

「この人たちにコーヒーでも出してあげて。こっちに付けといてね」

　◆ゲップ

　友人は丁寧(ていねい)に礼を言った。粕原さんも頭は下げておいた。

　コーヒーをいただきながら、友人は広島の話などしていた。

　男はビールを追加注文した。粕原さんたちに聞こえるほど大きく、ゲップをした。

（あの人も所かまわず大きなゲップしとったなあ）

　スナックで知り合い、しばらく同棲したことのある男も、粕原さんによくゲップを吐きかけていた。

　ギャンブル依存症だった。前夫からもらった慰謝料をかなり使われてしまった。

（この子は男で苦労しとらんから、ガードが甘いな）

　粕原さんは、友人の若造りの横顔を見つめた。

「強いんやね。そがい（そんな）に飲むと、奥さん、心配するのと違うか」

　友人は椅子の向きを変えて、話に応じていた。

　◆長居

「広島か。オレ、営業やってたから、よく行ったぜ。いいところだよな」

「うちゃ廿日市なんよ。昔から、災害が多いんよ」

　話が弾んでいる。

（あの客に似とる）

　男がペラペラとしゃべるのを聞きながら、ふと思った。

　同じフロアの蕎麦屋だった。

　粕原さんと前後して、男が隣の席に座った。

　日本酒とつまみを取りあえず、注文した。男は飲み始めた。

　粕原さんの注文が出て、あらかた食べ終わっても、男は飲んでいた。

　終始、独り言を言い、しきりに頷(うなず)いている。何本も徳利が並んでいた。

「姉さん。トイレはどこだい」

　酒を運んできた女店員に訊(たず)ねた。

「年取ると、トイレが近くなっていけねえや」

　言いながら、男はお銚子を空にして、外のトイレに向かった。

「お隣のお客さん、トイレから帰られてないですよね」

　粕原さんがレジに行くと、女店員が訊いた。

（トイレやから、長いことやってあるやろ）

　とは言うものの、ほかの可能性も排除できなかった。

　女店員にしてみれば、まさか覗きに行くわけにもいかない。いろいろな客がいる。千客万来と喜んでばかりもいられないのだ。

　第３話　プロフェッショナル

　◆賭け

　まだ友人は話し込んでいた。

「そうかい。姉さんも苦労したんだなあ。それに比べて、ウチのは…」

　男は腕時計を見た。ブランド品のようだった。

「まったく、のんきな連中だ。いつまで買い物してんだよ」

　しびれを切らせたかのように、男は椅子から立った。

「遅(おせ)えなあ。ウェートレスさん、このままにしといてね。女房たち呼んでくるからさあ」

　男はカツカツと革靴の音を響かせて出て行った。

「ねえ、あの男、帰って来ると思う？」

　粕原さんは友人に訊いた。

「何いうとるの。奥さんたち迎えに行ったんやろ」

　友人は毛の先ほども疑っていなかった。

「ほな、賭けようか」

　言いながら

（ウチも性格が悪うなったなあ）

　実感した。

　◆とんずら

　イベントが終わったのか、フロアがざわついてきた。

　ファミレスの席が埋まり始めた。

「悪いから、帰ろか」

　粕原さんがバッグを持った。友人は隣の席が気になっているみたいだった。刺身は、ツマだけになっていた。温まったビールとクリアファイル様のものが、主を待っていた。

「今ごろ、とんずらしとるよ」

　粕原さんの言葉に、友人は首を傾げた。人を疑うことのできない子だ。

　食事券で支払った。

「お知り合いの方ですか。まだ、お戻りになりませんか」

　女店員が例の席を見て、訊いた。粕原さんは、初めて会った人だと答えた。

「困りました」

　そうだろう。順番待ちの客もいた。

　◆落ち度

「店員さんも、難しいところやね。片づけて、万が一、戻ってきたら、土下座どころでは済まされんで。どこぞに落ち度がないか、ああいう人間は目を光らせとるんや。ここぞとばかりに、大暴れするで」

　女店員は身をすくめた。まだ、土下座のショックから立ち直れていない。

「奥さんも一緒やと、まさかそんなことさせへんやろ」

　友人はもっともなことを言う。

「あの男に連れなんかおらんよ。戻ってきて席があれば『遅くなったから、女房たち先に帰した。オレはもうちょっとだけ飲んで行くことにするよ』とか言い出すに決まってる。次から次へと、手は考えているものよ」

　粕原さんは、無銭飲食のプロと見抜いていた。

　◆蛇の道

　友人は関わり合いになることを恐れて、粕原さんの袖を引っ張った。

「ほんまに恐ろしいところやなあ、東京は」

　都内とはいえ、ここは多摩地区。東京の田舎だ。生き馬の目を抜くようなゾーンがあることを、友人はまだ知らない。

「それにしても、粕原さん、大したもんやね。尊敬するわ。よう、あんなこと知っとったなあ。なんとか言うやない。邪(じゃ)の道はなんとか…」

「もしかして、蛇(じゃ)の道はヘビ」

「それ、それ」

　友人は手を打った。

（こういう天然が、立ち直ろうとする人間の足を引っ張るのや）

　粕原さん、更生の道はるか、だった。

　第４話　人の子

　◆緊急事態

　ガードマンが小走りに前方を横切った。

「この間の警備員や。なんぞあったんやろか」

　友人もさすがに、気づいたようだ。粕原さんの血が騒ぎ始めた。他人の失敗に学ぶことは、大切だ。

　ガードマンを付けて行くと、食料品売り場に急行した。

　店員が八〇過ぎの高齢婦人の腕をつかんでいる。粕原さんは、一瞬にして呑み込めた。

　高齢婦人は小柄で痩(や)せていた。母親の姿がダブってしまった。

　ガードマンが店員と二言三言、言葉を交わし、高齢婦人を連行しようとした。高齢婦人は前かがみになり、頭を突き出している。

　◆人助け

「おばあちゃん。こんなところにおったん」

　粕原さんは気さくに声をかけた。

　ガードマンが粕原さんに気づき、表情を曇らせた。

（また、あんたか）

　粕原さんは意に介さなかった。

「おばあちゃん。これ、お嫁さんから預かってきたよ。お金忘れて買い物に行ったからって、心配しとったで。何、買(こ)うたん。これから、レジに精算に行こう」

　粕原さんは千円札を握らせた。

「年寄りから目を離さないように、よく言っといてください。大きな声では言えませんが、こういう人の万引きって結構多いのですよ。中には、認知のフリしている年寄りもいて、タチが悪いのですよ」

　粕原さんに似合わず「はい、はい」と素直だった。

　◆後悔

「おばあちゃん、どこに住んどるん」

　エレベーターホールの椅子に休ませ、おばあちゃんから話を訊いた。

「さあ」

　何かを一生懸命に思い出そうとしている。

「名前、教えてよ」

　友人が訊くと、おばあちゃんは小声で言った。

「よしだつねこ。六二歳。昭和一六年生まれ」

「どうしょう。粕原さん。自分の歳も忘れたみたいや」

　友人も困り果てている。

「このまま、ここに置いとくことできんしなあ」

　二人は途方に暮れて、おばあちゃんの両脇に座った。

　◆家業

「けど、なんでおばあちゃん、雑穀なんか買おうとしたんやろ」

　友人の言うとおりだった。背中を丸め、雑穀の包みを大事に抱えている。

「トリ。エサ」

　おばあちゃんがぽつりと言った。

「そうか。おばあちゃん、ペットのエサ買いたかったんや」

　友人の思考回路が回り始めた様子だった。

「違う。鶏。エサ」

　粕原さんに閃(ひらめ)いた。

「分かった！　おばあちゃん家(ち)、鶏飼っとるんや。エサがなくなったので、買いに来たんや」

「うん。鶏。エサ買った」

　◆健脚

　粕原さんのテーマ曲・ピンクパンサーが中断された。

　折しも、インバウンド（訪日外国人旅行者）の団体が通りかかった。アジア系か、賑やかだった。

「…子様。ご家族……ださい」

　店内放送のようだが、ほとんど聞き取れなかった。音楽は再びピンクパンサーに戻った。

「けど、お金も持たず、どないしてここまで来たんやろ」

　友人が納得いかないのは、道理だった。無賃乗車もなきにしもあらずだが、高齢者が下車しようとすると、運転手は転倒などしないよう気配りしてくれる。無賃乗車は至難の業である。粕原さんは実証実験済みだ。

「まさか、歩いて…」

　粕原さんは言いかけて、止めた。

　二三区の西の方に住む人が、千葉県内で歩いているところを保護された、と聞いたことがある。

「粕原さん。どうする？」

　答えなどなかった。

　◆悪知恵

　ガードマンが血相を変えて駆けてきた。後ろに中年の女性がいた。

「こんなところで何しているですか。放送を聞いたでしょう」

　叱られるようなことをした覚えはなかった。

「お母さん！　やっぱり、ここに買い物に来たのね」

　中年女性だった。

　ガードマンは苦り切っている。

「あんたたちが絡むから、ややこしいことになったんだよ。そういう知恵は、もっと世の中の役に立つことに使いなさい」

　また、苦言を呈された。

　お嫁さんからは何度も礼を言われ、頭を下げられた。

「ところで、母は何か申しておりましたか」

　粕原さんは鶏のエサのことを話した。

「お母さん。養鶏業はお父さんが亡くなった時に、止めたのよねえ。だけど、鶏舎にまだ鶏、生きてるかもね。そのエサ持って、早く帰ろうよ」

　デパートの駐車場まで、親子を送った。二人はまた、おばあちゃんに会うことがありそうな気がした。