PART 1 逃がした魚
第1話 好機到来
◆調達
粕原(かすはら=仮名)さんから、笑みがこぼれた。
今度こそ大魚が、かかったのだ。
粕原洋子。七二歳。四国は徳島県の寒村の生まれである。東京の郊外の市営住宅に、一人で暮らしている。
今朝も、九時過ぎに起きた。顔を洗い、身支度をして、近くのデパートに行った。
試食コーナーがあった。アリが食べ物に群らがっているみたいだった。前の客を押しのけて、パンケーキを口にした。
粕原さんは小柄で、少し前かがみになって歩く癖がある。七〇を超した現在でも、歩く速度は落ちていない。動きは俊敏だ。試食コーナーなどの人混みでは神出鬼没である。
人だかりの割には、パンケーキは美味しくなかった。一食浮かそうとした当てが外れてしまった。
(ふん。ほんまに、口いやしい連中や)
さっさと一群から抜け出し、不貞腐れて、食料品売り場に行った。
調味料が切れかけていた。ラーメンも補充しておく必要があった。
お茶漬けが目についたので、これだけは買い物かごに放り込んでおいた。お昼は、冷凍ご飯を解凍して、お茶漬けで済ませよう。
◆写真撮影
ご飯がかすかに、湯気を立てている。
粕原さんは買ったばかりのお茶漬けを取り出し、ご飯に振った。ポットのお湯を注いで、箸を持った。茶碗を口に近づけると、何かが光った。細い針金だった。
粕原さんはガラケー(ガラパゴス携帯 [注]ガラパゴス諸島の生物のように、進化から取り残された携帯端末)を取り出した。
ガラケーはもっぱら友達との通話に使っていた。撮影の機能を使うのは初めてだった。画面に茶碗とお茶漬け、針金が収まっているのを確認して用心深くシャッターを押した。念のため、三枚ほど撮っておいた。
お茶漬けを食べる間、作戦を練った。
◆追いつめる
「あんたとこの新製品のことでちょっと訊きたいことがあってな」
カスタマーセンターの担当者は
「はあ。お客様、弊社では新製品は出しておりませんが」
何かの間違いでは、と言いたげだった。
「ほな。この針金入りのお茶漬けは昔から売ってたのかいな」
「針金?」
「そうや。針金が入っとるんや。口に入れる前に気づいたから良かったけど、これ、年寄りや子供が呑み込みでもしたら、大事やったで」
粕原さんは、事細かに事態を説明した。現物を送付することになった。
「写真も撮っとるから、言い逃れはできんで」
粕原さんは因果を含めた。
カメラ屋で写真をプリントしてもらった。プリント代金の領収書を添え、お茶漬けといっしょに封筒に入れて郵送した。
郵便局で、年金をおろしに来た近所の友人と会った。粕原さんは一時間近く、針金入りお茶漬けのことを話して聞かせた。彼女なら、瞬く間に噂を広めてくれるはずだ。
第2話 来し方
◆うどんスープ
粕原さんはこの種のトラブルには慣れっこになっていた。
高校の夏休み。粕原さんは図書館で勉強していた。
下宿には扇風機がなかった。田舎の両親に頼んでも、買ってくれなかった。両親には都会の暑さが、いくら説明しても分かってもらえなかった。田舎では団扇で十分だったのだ。
お昼に図書館を出て、公園の中にあるうどん屋に行った。
うどんと言えば、粕原さんにとってはご馳走だった。
田舎にいたころ、親に連れられて、うどん屋に行ったことがある。注文するのは素うどんだった。これでは空腹を満たせない。田舎では手提げなどから、手製のおにぎりを出して食べるのが、ごくありふれた光景だった。
夏に熱いうどんをすするのはまた、格別だった。麺をあらかた食べ、いよいよスープを飲む。浮いているネギをどんぶりの縁に寄せようとして、粕原さんは声を上げそうになった。切り刻まれ、腹から内臓を出した大きなムカデが浮いていた。
粕原さんは、口に手を当て、吐きそうになるのをこらえながら、店員に手招きした。
店員は「はっ」と息を呑み、どんぶりを片付けた。
お代は頂戴しない、ということになった。まだ、純朴な少女だった。うどん代を請求されたら、払っていたかも知れない。
粕原さんは以後いっさい、うどんを口にすることはなかった。
◆家風
高校を卒業して、都内の中堅印刷会社に就職した。会社の上司の紹介で、結婚した。
相手は九州の生まれだった。剛毅を装う反面、やたらとメンツにこだわった。妻が働きに出ることを嫌い、粕原さんは勤めを辞めた。
やがて、夫はUターンすることになった。年老いた両親のたっての願いだった。粕原さんは迷った。何回か夫の実家を訪問したが、夫の両親は粕原さんの所作に対して口うるさかった。
「うーばんぎゃなおなごばい」
何度も言われたので、東京に帰って夫に訊ねた。
「いい加減な女だ、と言うことや」
夫はさらりと言った。
九州に行って、この先、何年、監視に耐えなければならないのかと思うと、気がふさいだ。不眠が続いた。寝込む日も多くなった。
「そぎゃん弱か嫁はうちでは務まらんばい、と言うとる」
夫は両親の意向をそのまま伝えた。三五歳の春、潮時だった。
◆依存症
次に家庭を持ったのは、近所のスナックで知り合った男とだった。
親切にしてくれ、よくおごってくれた。関係ができたとたん、男は口実を設けて粕原さんの財布から金を持ち出した。
スナックでは羽振りのいい職人で通っていた。一緒に住んでみると、大して仕事はなかった。粕原さんから小遣いをもらっては、競馬場通いを続けていた。
ある時、男は粕原さんにまとまった金をねだった。
問いただすと、サラ金に多額の借金がある、という。借金を返すために借金を重ねていた。もう、首が回らなくなっていたのだ。
その額は粕原さんの貯えではとても追いつかなかった。
第3話 失敗に学ぶ
◆緊縮財政
(もう、男はこりごりや)
粕原さんは独り暮らしを続けている。
離婚した夫の慰謝料は、ギャンブル依存症の同棲相手にかなり使われてしまった。将来に不安を感じ、三八で小さな印刷会社の事務員になった。五五まで勤めたが、女の稼ぎはたかが知れていた。ずっと、カツカツの生活をしてきた。
粕原さんは食費も切り詰めている。外食と言えば、デパートの試食に群らがるくらいだ。
ご飯が余ると、冷凍しておく。便利なので、パック詰めになったご飯を買って、冷蔵庫に入れておく。保存が利くので、何もない時には助かっていた。
◆異物混入
離婚して多摩の団地に引っ越し、半年が経過していた。その日も、粕原さんは冷蔵庫からパック詰めのご飯を取り出し、チンした。
電子レンジに入れる時
(これにも何か黒いものが入っとるわ)
いつものことなので、大して気に止めていなかった。
市の広報誌を読んでいると、チンと音がした。取り出してどんぶりに乗せ、テーブルに置いた。
(それにしても、この黒いのは、何やろか)
粕原さんは、拡大鏡を取り出した。
ゴキブリが成仏していた。哀れにも両手足を広げている。
製品は、最近よくテレビでCMを流している会社のものだった。お客様係が飛んできた。お客様相談室長の名刺を持っていた。
「これ、見てみ」
粕原さんがパックご飯と拡大鏡を、目の前に突き出した。
「確かに。これは虫ですね。ゴキブリの子でしょうか」
担当者は平身低頭だった。
「早速、持ち帰りまして、弊社の研究所で調べさせます」
室長は現物を仕舞った。代わりに何か出した。
「同じものでは何でしょうから、今テレビCMで放映中のパスタをお持ちしました」
◆証拠品
(テレビに出とる会社やから、しっかりしとるな。研究所もあるんや。わざわざ、責任者が来てくれたんや)
粕原さんは気をよくしていた。
(これは、ほんの挨拶がわりやろ。なんぼ(いくら)で解決してくれるかなあ)
パスタがことのほか、美味しく感じられた。
夕方、室長から電話が入った。
「お騒がせしました。研究所に調べさせましたところ、あれは黒いシミのついた米でした」
稲穂をウンカやカメムシが吸うと、黒くなることは知っていた。母が祭り・盆正月など紋日の前に、ゴミと一緒に取り除いていたものだ。
「だけど、あんたも確かに『ゴキブリの子や』って言うとったやないで」
粕原さんはイラッとした。
「いや、あれは私の見間違いでした」
(しもうたことした!)
後の祭りだった。
粕原さんはあまりにも無知で善良なカスタマーだった。
思い出すたびに腸が煮えくり返る。
(今なら、携帯で写真を撮っておくことやってできたのに。それを保健所に持ち込むと言えば、ゼニで解決しようと言うてくるに違いない)
学んだことは、これであった。
第4話 虎視眈々
◆百戦錬磨
お茶漬けの会社から郵便が届いた。
中に文書が一枚と、実費分の商品券、それに新品のお茶漬けが一袋入っていた。
「調査いたしました結果、製造工程で混入したものではないことが判明いたしました」
と簡単に記されてあった。暗に、粕原さんが自分で入れた、と言っていた。
粕原さんは文書と封筒を握りつぶした。誠意のかけらも感じられない対応だった。
「こうなったら、出るとこ出るよ。代わりのお茶漬け一つで済ますつもりなの。手始めに、写真持って保健所行くわ」
相手はひるまなかった。
「どうぞ、行ってください。最近、あなたみたいな人、多いのですよ。粕原さんとおっしゃいましたね。カスタマー・ハラスメントで訴えますよ。あなた、裁判になったらどうします。この通話も録音してますので、恐喝の証拠物件として提出しますからね。まあ、よく考えて、また、電話ください」
◆虫の居どころ
粕原さんは大魚を逃してしまった。
デパートを歩き回った。客は道を空けた。
「じろじろ見るなよ。ウチは、ハイエナやないで」
ブツブツ言いながら、うっぷんのはけ口を探し歩いた。
食料品売り場では、お茶漬けを何袋かバッグに入れた。仕返しだった。インスタントコーヒーと紅茶の売り場が死角になっていたので、何個かバッグに入れた。
こんな日は家で夕食をとりたくなかった。最上階の食堂街に行って、蕎麦屋に入った。
夕食時で混んでいた。しばらく待たされ、席に案内された。山菜蕎麦を注文した。
二人の店員が、忙しそうに走り回っている。同僚が急用で、休みでも取ったようだった。それにしても、蕎麦は遅い。
粕原さんの我慢も限界に達した。粕原さんは手をあげてサインを送った。
「ごめんなさい。まだ、お茶も差しあげてなかったですね」
店員がお茶を出した。
「何にいたしましょうか」
粕原さんは反射的に、お茶を店員の顔にぶっかけた。
「あんたのようなうすのろは店員の資格はないよ。カスタマーなんとか言う前に、店員としてしっかり勉強せえ」
◆勇み足
調理場から板前さんが出てきた。
「お客様。うちのものが何か失礼なことでもいたしましたか」
落ち着き払っていた。その態度も癪に障った。
「何かって。訊く前に謝りなさいよ。不行き届きなところがあったから、店員教育してあげてるんでしょ」
騒ぎに、客が帰り始めた。誰かが警備員に連絡したのか、ガードマンが駆けつけた。粕原さんの声はますます大きくなっていった。
「ここではほかのお客様にご迷惑ですから、警備員室までどうぞ」
いやがる粕原さんをガードマンは引っ立てて行った。
◆自衛策
数十分後、パトカーがデパートの裏に停まった。
粕原さんはその夜、警察署に留められた。取り調べで、余罪も明らかになった。むしゃくしゃした時など、万引きを繰り返していたのだ。しかし、デパートも人気商売。粕原さんは無罪放免となった。
団地に戻り、粕原さんはインスタントコーヒーを入れた。冷蔵庫から牛乳を取り出すと、昨日で賞味期限が切れていた。大変な損失だったが、期限切れの牛乳を飲むほど落ちぶれてはいない、との自負がある。
粕原さんは今日もデパートに向かう。
あの程度のことで戦意喪失はしない。なにしろ、ムカデを皮切りに、ゴキブリ、針金と鍛えに鍛えられている。筋金入りのカスタマーなのだ。
(今に見てろ)
爪を研いでいる。
粕原さんが姿を現すと、デパートの音楽が軽快なジャズに替わる。アメリカ映画『ピンクの豹』のテーマ曲・ピンクパンサーのリズムに乗って、売り場をめぐる粕原さんだった。