第8話:一人で足りる日
その朝、《ドンネル屋》は少し静かだった。
トネリは仕入れで地方の猟師と交渉に出ており、
ユエルはギルドの提出書類を抱えて王城近くの文書館へ。
──今日は、バルクひとり。
特別なことではない。
かつて、すべての工程を自分ひとりでこなしていた時期の方が長いのだから。
ただ、今は仲間がいる。
そのありがたさを理解したうえで、ひとりの手に戻る日も必要だと、彼は思っている。
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石畳に面した正面口を軽く開けて、空気を入れ替える。
市場の匂い──魚、香草、焼いたパン、生の汗──
すべてが馴染んだ“王都の朝の匂い”だった。
バルクは静かに包丁を選び、
吊るされた赤背牛の腰肉に手を当てる。
左目が紅く光る。
繊維の緊張、脂の溜まり、魔力の波──
誰も説明できない情報を、彼は“見る”。
刃を当てる。
柔らかく、だが迷いなく──
骨の際に沿って、肉が“静かにほどけていく”。
誰にも見られず、誰にも説明せず、ただ“正しく”切る。
(……これでいい。肉が騒がなければ、それは“答え”だ)
包丁の重みを指で受け、
筋と脂の間に刃を差し込む──それが数十回。
数時間後、台の上には整った部位と、
骨、脂、皮、そして──切り落とされた“クズ肉”が小さな山になっていた。
バルクはそれを、奥の作業台へと運ぶ。
骨の破片を抜き、血の塊を取り除き、
食用に耐える部分だけを丁寧に選り分ける。
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昼すぎ、裏口からひとりの少年が訪れた。
浅黒い肌にくたびれた靴。
王都南区にある孤児院《セレスの庵》の使いだった。
「……バルクさん、今日も、いいですか?」
バルクは無言で頷き、小さな布袋に分けた肉を少年に手渡す。
下処理はすべて終えてある。あとは煮るだけで食えるように──
「院長先生が言ってました。バルクさんの肉がある日は、“今日は良い日”だって」
少年はにこりと笑う。
バルクは手を振るわけでも、微笑むわけでもなく、
ただ一度だけ、少年の頭をぽんと軽く叩いた。
「ちゃんと火、通せよ。腹、壊すな」
それが唯一の言葉だった。
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──肉は高い。
この世界では特に。
冒険者が狩ってくる素材も、解体には技術がいるし、保存にも魔力がいる。
一般市民の家庭には、“いい肉を買う”こと自体が行事のようなものだ。
だから、《ドンネル屋》の“クズ肉”は、誰かにとってはご馳走になる。
誰にも言わず、記録も残さず、バルクは毎週、余った部位を丁寧に処理しては渡している。
「命は、食われて終わる。それで終わらなきゃ、ただの浪費だ」
それが彼の考えだ。
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その日、店には少しだけ静けさが長く残った。
騒がしさが嫌いなわけではない。
だが、肉とだけ向き合えるこの時間は、
どこかで“生き返る”ような、そんな感覚があった。
トネリの声も、ユエルの気配もない中で、
バルクは包丁を研ぎ直し、台の上を静かに拭き上げた。
ひとりの職人が、一日の中ですべての“命の記録”を、手だけで刻んだ日。
それは、誰にも見えない。
だが、肉が正しく皿に届けば、それでいい。
“理解されるには時間がかかる”──
彼はそれを知っている。
そして、理解されなくても、正しく生きることはできると、信じている。