第6話:火と香りを知る者たち
正午を過ぎて、陽が市場の石畳を真上から照らす頃。
《ドンネル屋》のカウンターに、白く磨き抜かれた木箱が置かれた。
「……これが、火角獣のロースと、焦がし脂を使った腹身。燻製も入れてある」
「……本当に、これはあのヴォルパックの一部ですか? 色が……見たことない、こんな光の透け方」
感嘆の声を漏らしたのは、
黒い料理服に身を包んだ男、リオ・セヴァラン。
王都で数件の料理屋を束ねる若き料理人で、名はそれなりに知られている。
彼は今日、予約もなく突然やってきた。
「先日……スパイス通りのファルバス婆さんから聞きました。
あんたが買っていった香料の“使い方”が、ちょっとした話題になっていて」
バルクは黙っていた。
その隣、トネリは興味深そうに客を見ていたが、
ユエルは配達帰りの箱を手にしながら、軽く視線を送る。
「なるほど。珍しく料理人が“相談”で来たわけだ」
リオは苦笑した。
「ええ。あのスパイス──“ミルティア香”──あれを肉にどう使えばいいのか、
こっちはまだ手探りなんですよ。使い方を間違えると、苦味が出る。脂を台無しにしかねない」
バルクは箱を開け、香草の入った小瓶を一本、棚から取り出した。
瓶の底には、昨日ファルバスから受け取った香料がまだ残っていた。
「こいつは……“焼く前”じゃない。切る前だ」
「……切る、前?」
バルクは、カウンターの奥に置かれた豚魔獣の小ロースを手に取り、
ごく微量の香料を掌にこすり、繊維の流れに沿って優しく撫でる。
すると、魔石の義眼《観肉の眼》がかすかに紅く染まり、
肉の内部に、香りがじんわりと“浸透していく過程”が浮かび上がった。
「繊維の間に残る“血の粘度”が、香りの乗りを決める。
この香は、温度じゃなく、“水分”に引かれて染み込む」
リオはじっと見ていた。
料理人として、初めて知る“切る前の処理”の世界。
「……焼きも、煮込みも、香りで差がつくと思っていたけど、
まさか“刃を入れる前”に勝負がついてるなんてな」
ユエルがぼそっと言う。
「あんたの料理が美味いのは間違いない。でも、うちの親方は“捌き”の味方なんでな」
トネリがにこっと笑って言葉を継ぐ。
「うちの肉は、料理人の半分まで運んでるんですよ。あとは、あなたの仕事です」
リオは一瞬言葉を失い、それからふっと笑った。
「……なるほど。じゃあ、今日からは“前半の味”も勉強させてもらいます」
彼は一枚の木札を差し出した。
「来週、貴族街で“出張料理”の場があってね。
そのときに、“ここで仕入れた肉”を使いたい。構わないか?」
バルクは一言。
「切っておく。香りは……あの婆さんに頼め。仕入れは俺が連れてく」
リオは深く頭を下げた。
厨房で捌かれた肉が、
香りに包まれ、料理に変わる。
そして食べた人間が、またその肉を“探しに来る”。
それは派手な流通でも、大々的な広告でもない。
ただ、食に関わる者たちの手と口と信頼だけで繋がっていく、
《ドンネル屋》の静かな広がりだった。