第5話:香りと刃と、いつもの会話
「……ああ、今日は行ってきていい。昼の予約はユエルが受けるだろうし、トネリも在庫見てる。問題ねぇ」
いつも通りの朝。
だがこの日、バルク・ドンネルは包丁ではなく、布製の肩掛け袋を手に取っていた。
向かうのは、市場の東端──
“スパイス通り”と呼ばれる香りの集積地。
肉を美味くするには、焼き方と切り方だけじゃ足りない。
バルクが選ぶ香辛料は、すべて自分の鼻と義眼で見定めたものだった。
スパイス通りは、朝からいつもにぎやかだ。
乾いた香草の香り、焙煎された実の苦み、
異国の魔草から立ち上る煙の匂いが入り混じる。
誰もがそれを「いい匂い」とは言わないが──“ここに来る理由がある”匂いだった。
バルクが向かったのは、通りの一番奥、
看板も出していない小さな屋台。
常連しか寄らない、香りで勝負する老舗──《ファルバス香房》。
「……いらっしゃい、って言ってももう挨拶はいらないわね」
店主の女──ファルバス・メリアは、ドワーフ族の老婦人。
背は低いが声は太く、目が合えば笑う前に香を焚く。
バルクとは旧知の仲であり、唯一“義眼をジロジロ見ても何も言わない”市場の人間だった。
「今日は何が欲しいの?」
「……腹肉に甘みが出た獣がいてな。塩気で押すより、香りで引きたい。焦げにも負けねぇやつを」
「贅沢ね。あんたが“引きたい”なんて言うなんて」
棚の奥から、ファルバスが小さな錫の缶を取り出す。
蓋を開けると、濃厚な木の実の香りと、微かにシトラスのような酸味が広がる。
「これはどう。アカリ根とミルティアの混合。苦味が残らない。脂の下に沈むタイプ」
バルクはひと嗅ぎ。左目がわずかに反応する。
肉の繊維の間に、その香りが入り込む未来が見えた。
「……これだな。少し多めに」
「わかってる。あんたの“少し”は、鍋一杯分だもんね」
そこへ、ふと通りすがりの若い女性が足を止めた。
シンプルな旅装、ギルドの刺繍入りの袖。
どうやら新人冒険者のようだ。
「すみません……ちょっと香りに惹かれて……。このスパイス、何に合うんですか?」
ファルバスがにやりと笑う。
「これはね、肉に合うの。特に……この人が捌くやつに」
「え?」
若い冒険者はバルクの顔を見て、一瞬目を丸くする。
「……あれ?もしかして……ドンネル屋の……!」
「……肉、切ってるだけだ」
「いえ! ギルドで話を聞きました!魔獣の部位をここまで丁寧に解体できる人は他にいないって。トネリさんが紹介してくれたんです!」
「ふふん、あの犬っ娘も客引きするようになったのねぇ。えらいじゃない」
そこにさらに、二人ほど客が加わる。
ひとりは料理屋の見習い。もうひとりは香草屋の商人。
「ドンネル屋って、あの奥の……? おぉ、そりゃこの香りも納得だ」
「香りに対してまっすぐな人間が使うと、スパイスも生きる。そこのあなた、次の休みに買いに行こうよ」
「いいね。おすすめ、どれ?」
「……今渡された、これだ。ちょうど香りの力で脂の焦げを引き戻すやつだ」
自然と、スパイスの缶を囲んでの小さな“雑談会”が始まっていた。
普段は口数の少ないバルクだが、
ファルバスが空気を緩め、若者たちが勝手に盛り上がることで、
彼もたまには言葉を多くする。
「肉ってのは、焼く前に決まる。切り方と香りの入り方。
……それが間違ってなけりゃ、大抵うまくいく」
そう言うと、みな目を丸くし、静かに頷いた。
バルクは香料袋を受け取り、肩掛け袋に収める。
店を離れる直前、ファルバスが一言。
「……今度さ、その肉とこの香りで、一緒に料理してみない?
ちょっとした鍋くらいは出すわよ。誰かが腹減らして話すには、ちょうどいいでしょ?」
バルクは言葉を返さず、少しだけ口角を上げてうなずいた。
スパイス通りの朝。
香りの中に交わされた小さな会話は、
また新たな“食の輪”を市場に芽吹かせた。