第4話:皮の下、刃の先
市場の朝は早い。
いや、正確には──《ドンネル屋》が一番早い。
今日も変わらず午前四時、冷気を含んだ石畳の上に、包丁を研ぐ音が響く。
しゃり……しゃり……と、静かな研磨のリズム。
それはバルク・ドンネルの一日を刻む“始まりの音”だった。
厨房奥の研ぎ場。
石の上に小さく注いだ水が、刃先の動きに反応して小さく揺れる。
その揺れに、バルクは左目──義眼《観肉の眼》を落とす。
刃の反射が肉を裂く未来を映し、繊維の奥まで“切断線”を視せてくる。
(……今日の相手は、皮が厚い)
そう思いながら、彼は手元の包丁を二本、微調整して刃角を変える。
この日の依頼は、ギルド経由で届いた特例素材。
“ヴォルパック”──火喰い狐と呼ばれる魔獣の、完全個体まるごと一頭の処理だ。
珍しい依頼だが、受けた理由は単純だった。
ギルドの常連料理人──《赤砂亭》の主から、直で話が来たのだ。
「今回は大盤振る舞いです。貴族の宴に間に合えば、後は任せますよ。骨も皮も、できるだけ使い切りで」
火喰い狐。
皮膚は極厚で熱を蓄える特性を持ち、脂は香ばしく甘い。
だが、“魔力焦げ”と呼ばれる内部劣化が起きるため、捌くには観察眼と慎重さが必要。
つまり──
“あの目”を持つバルクでなければ、扱えない肉だった。
「バルクさーん、今日の子、もう届いてますよー。裏の台に運んでおきましたー」
開店準備をしながら、トネリの声が響いた。
軽快で鼻に抜けるような声。それは朝の市場にちょうどいい。
彼女の種族──ガーラ族は、人よりも早く匂いに気づき、
血の変化を空気で察知できる。
それゆえに、“肉の危機を嗅ぎ分ける”補佐としては右に出る者がいない。
バルクは頷き、厨房の扉を開けた。
吊るされたヴォルパックは、火のように赤い毛をまだ残し、
刃が一度も入っていない、完全な状態で保存されている。
肉屋の目には、それが“命そのもの”のように見える。
「ユエルは?」
「もう温度測ってました。皮の厚さも記録して、解体図作ってる最中です」
トネリが指さした先、
燻製室に近い作業台で、ユエル・ヴァレリオが筆記と数値測定を黙々と行っていた。
「この子、魔力変質してます。中心部、温度が高すぎる。脂に炭化が始まってる可能性」
「……どの辺りだ?」
バルクは義眼で、吊るされた獣の腹を見つめた。
視界が紅に染まり、魔力の脈動が線となって浮かび上がる。
肋骨の下──胃袋周辺。
“焦げ”が始まっている。
本来、喰えるはずの極上部位だ。
「──もったいねぇな。だが、やれる」
そう呟いて、バルクは刃を選ぶ。
その背中を、トネリとユエルはじっと見ていた。
彼が黙っていても、何をしようとしているかはわかる。
バルクは言葉で語らない。だが、手と目が教えてくれる。
今日は──
皮の下に、“焦げた命”がある。
それを、美しい肉へと“還元”するのが彼らの仕事だった。
数刻後。
厨房の中には、薄く立ちこめる煙と、甘い脂の匂いが充満していた。
バルクが骨を抜き、トネリが皮を剥ぎ、ユエルが脂の調整を記録する。
ただ黙々と。
無言の三重奏のように、刃と目と鼻が重なり、死を食に変えていく。
切り出された腹肉は、炭化した外層をギリギリで削ぎ落とし、
中心の甘みだけを残す──これは“焦がし脂のロースト”用だ。
皮は火の護符に加工可能な厚さを残し、骨は出汁用に分離された。
ユエルが言う。
「……あの料理人、これを使って“火宴鍋”を出す気だな」
「“口に入れても熱が逃げない鍋”か……あれ、下手すると舌を焼くぞ」
トネリが笑う。
「でも、食べたら忘れられないですよ。熱さと香ばしさのダブルパンチ」
バルクは最後に包丁を研ぎ直しながら、ぼそりと呟く。
「……命を喰うなら、忘れられねぇくらいがちょうどいい」
刃の先に残った脂を布で拭い、再び鞘に収めたとき。
厨房は元の静けさを取り戻していた。
肉が捌かれたあと、店には“ひとつの記憶”だけが残る。
今日もまた、《ドンネル屋》に一皿分の命が届き、
三人の手で“最後の料理”として送り出された。
それは、派手ではない。
だが、確かに火を通した日々の物語だった。