表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/61

第4話:皮の下、刃の先

 市場の朝は早い。

 いや、正確には──《ドンネル屋》が一番早い。


 今日も変わらず午前四時、冷気を含んだ石畳の上に、包丁を研ぐ音が響く。

 しゃり……しゃり……と、静かな研磨のリズム。

 それはバルク・ドンネルの一日を刻む“始まりの音”だった。


 厨房奥の研ぎ場。

 石の上に小さく注いだ水が、刃先の動きに反応して小さく揺れる。

 その揺れに、バルクは左目──義眼《観肉の眼》を落とす。

 刃の反射が肉を裂く未来を映し、繊維の奥まで“切断線”を視せてくる。


(……今日の相手は、皮が厚い)


 そう思いながら、彼は手元の包丁を二本、微調整して刃角を変える。

 この日の依頼は、ギルド経由で届いた特例素材。

 “ヴォルパック”──火喰い狐と呼ばれる魔獣の、完全個体まるごと一頭の処理だ。


 珍しい依頼だが、受けた理由は単純だった。

 ギルドの常連料理人──《赤砂亭》の主から、直で話が来たのだ。


「今回は大盤振る舞いです。貴族の宴に間に合えば、後は任せますよ。骨も皮も、できるだけ使い切りで」


 火喰い狐。

 皮膚は極厚で熱を蓄える特性を持ち、脂は香ばしく甘い。

 だが、“魔力焦げ”と呼ばれる内部劣化が起きるため、捌くには観察眼と慎重さが必要。


 つまり──

 “あの目”を持つバルクでなければ、扱えない肉だった。


「バルクさーん、今日の子、もう届いてますよー。裏の台に運んでおきましたー」


 開店準備をしながら、トネリの声が響いた。

 軽快で鼻に抜けるような声。それは朝の市場にちょうどいい。


 彼女の種族──ガーラ族は、人よりも早く匂いに気づき、

 血の変化を空気で察知できる。

 それゆえに、“肉の危機を嗅ぎ分ける”補佐としては右に出る者がいない。


 バルクは頷き、厨房の扉を開けた。


 吊るされたヴォルパックは、火のように赤い毛をまだ残し、

 刃が一度も入っていない、完全な状態で保存されている。

 肉屋の目には、それが“命そのもの”のように見える。


「ユエルは?」


「もう温度測ってました。皮の厚さも記録して、解体図作ってる最中です」


 トネリが指さした先、

 燻製室に近い作業台で、ユエル・ヴァレリオが筆記と数値測定を黙々と行っていた。


「この子、魔力変質してます。中心部、温度が高すぎる。脂に炭化が始まってる可能性」


「……どの辺りだ?」


 バルクは義眼で、吊るされた獣の腹を見つめた。

 視界が紅に染まり、魔力の脈動が線となって浮かび上がる。


 肋骨の下──胃袋周辺。

 “焦げ”が始まっている。

 本来、喰えるはずの極上部位だ。


「──もったいねぇな。だが、やれる」


 そう呟いて、バルクは刃を選ぶ。

 その背中を、トネリとユエルはじっと見ていた。


 彼が黙っていても、何をしようとしているかはわかる。

 バルクは言葉で語らない。だが、手と目が教えてくれる。


 今日は──

 皮の下に、“焦げた命”がある。


 それを、美しい肉へと“還元”するのが彼らの仕事だった。


 数刻後。


 厨房の中には、薄く立ちこめる煙と、甘い脂の匂いが充満していた。

 バルクが骨を抜き、トネリが皮を剥ぎ、ユエルが脂の調整を記録する。


 ただ黙々と。

 無言の三重奏のように、刃と目と鼻が重なり、死を食に変えていく。


 切り出された腹肉は、炭化した外層をギリギリで削ぎ落とし、

 中心の甘みだけを残す──これは“焦がし脂のロースト”用だ。

 皮は火の護符に加工可能な厚さを残し、骨は出汁用に分離された。


 ユエルが言う。


「……あの料理人、これを使って“火宴鍋”を出す気だな」


「“口に入れても熱が逃げない鍋”か……あれ、下手すると舌を焼くぞ」


 トネリが笑う。


「でも、食べたら忘れられないですよ。熱さと香ばしさのダブルパンチ」


 バルクは最後に包丁を研ぎ直しながら、ぼそりと呟く。


「……命を喰うなら、忘れられねぇくらいがちょうどいい」


 刃の先に残った脂を布で拭い、再び鞘に収めたとき。

 厨房は元の静けさを取り戻していた。


 肉が捌かれたあと、店には“ひとつの記憶”だけが残る。


 今日もまた、《ドンネル屋》に一皿分の命が届き、

 三人の手で“最後の料理”として送り出された。


 それは、派手ではない。

 だが、確かに火を通した日々の物語だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ