第3話:市場は朝に息を吸い、夜に煙を吐く
王都の中央市場、通称“百貨の腹”。
その一角にある精肉店《ドンネル屋》の朝は、他のどの店よりも早い。
午前四時、まだ空気に星の匂いが残る時間。
店主バルク・ドンネルは、吊るされた魔猪のロースに指を添え、左目──観肉の眼で静かに肉を見極めていた。
脂の状態、繊維の緊張、魔力残留の有無。
言葉にせずとも彼の目はすべてを語る。
肉が“食われるにふさわしい状態かどうか”、それを判断するのが彼の朝一番の仕事だ。
「おはよーございまーす、って、もう働いてるし。ほんとに肉しか見てないんですね、この人は」
陽気な声とともに現れるのは、犬耳のアシスタント──トネリ・ガランザ。
店の仕入れから軽解体、接客までこなす実力者。
今日も鼻を利かせながら、熟成棚を覗き込んでいる。
「燻製、いい仕上がりですね。甘い香り、昨日と違う木材?」
「昨日、ユエルが火を見てた」
裏から現れたのは、ハーフエルフの静かな男──ユエル・ヴァレリオ。
書類と配達、燻製管理、そして情報収集を得意とする、バルクの右腕的存在だ。
「……温度、3度上がってる。チップが変わってるね」
「混ぜてみたの、今日の肉に合う気がして」
会話は簡潔。だがそれが《ドンネル屋》の日常。
誰かが何かを言わなくても、誰かが察して動いている。
この日も、ギルドからの使者が来る。
料理屋からの注文がある。
昼には少し騒がしい依頼も届くかもしれない。
だがどんな日であっても、朝のこの時間だけは、
肉と向き合う静かな儀式のように、音も言葉も研ぎ澄まされている。
骨の間に刃が吸い込まれる。
脂が静かに割れる音。
誰もが黙り、呼吸をそろえる。
──こうして、《ドンネル屋》の一日が始まる。
市場の音、煙の匂い、刃の重み。
今日もまた、この店は誰かの“命の最後”を“食卓の一皿”へと変えていく。