【フィリップ視点】姉のやらかしの尻拭いをさせられる第三王女は、強制的に姉の元婚約者と婚約させられる
前作、『姉のやらかしの尻拭いをさせられる第三王女は、強制的に姉の元婚約者と婚約させられる』の続編であり過去編でもある、フィリップ視点のお話です。
是非前作からお読みください。
ページの下に前作にとべるようリンク?貼りました!
「初めまして、フィリップ・ローズデンと申します」
いつものように、誠実で人当たりも良く、誰からも好かれていると噂される通りのフィリップ・ローズデンの仮面を被り、彼は笑顔で挨拶をする。
これまで初見で見破られたことのなかった偽りの笑顔はしかし、目の前に立つ一人の少女によっていとも簡単に見抜かれる。
「笑顔が嘘臭い……」
風に乗って聞こえてきた微かな声を辿ると、そこにいた少女は慌てたように手で口を押さえ、けれど小動物の様な丸い瞳はまっすぐに彼に向いている。
たった一言。
それでも彼の心を崩すのは十分で、気付けば彼は驚いたようにわずかに目を見開き、フィリップとしての笑顔を浮かべることさえできず、食い入るようにただ少女を見つめていた──。
「思えばあれが全ての始まりだったなぁ」
アリシアがリンデル王国へ戻って、二週間が経った。
彼女は次期女王として忙しくしているが、それでも、入籍までに新しく婚約者となった王女殿下との仲を深めたい、というフィリップからの要望が通り、毎日彼女とお茶を飲むのが日課になりつつあった。
今日も今日とて、フィリップは王都で見つけた、アリシアが好みそうな見た目と味の土産を携えて彼女の下へ足を運ぶ。
いつもとは少し趣向を変えようと、王城の中庭にテーブルと椅子をセッティングして……という形ではなく、木陰のある大きな樹の下に敷物を敷き、そこにフィリップの持参したお菓子や軽食を並べるスタイルにしてもらった。
美味しそうに一口サイズのカヌレをほおばるアリシアの横顔を眺め、その愛らしさにこのままこの場に押し倒してしまいたいという欲望が体の中で渦を巻き吞み込まれそうになるが、彼女との約束がある。
理性でそれを何とか押し止め、表面上はそれを出さないよう努めていると、彼女の口からぽろりとそんな言葉がこぼれ、フィリップはすぐにその声を拾い反応する。
「なんの話だ?」
「あれ、聞こえていました? 独り言のつもりだったんですけど」
「でっかい独り言だな。……で、何の始まりなんだ?」
すると彼女は手にしていた菓子を置くと、辺り一面に咲くラベンダーの花に視線を向けた。
「いえ、あなたと初めて会ったのが、ちょうどこのくらいの時期だったなと思いまして」
そうだ、確かにアリシアと会ったあの日は、鮮やかな紫色のこの花が咲き乱れていた。
たまたまその場にいただけの第三王女。
それまで全く興味を持っていなかったアリシアという存在を強烈に印象付けられたあの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
ローズデン家の次男として生まれたフィリップは、幼い頃より優秀だった。それでいていつも笑顔を絶やさず、物腰柔らかで誠実な人柄だと評価され、兄がいたためフィリップがローズデン家を継ぐことはないが、それでも優秀で公爵家の血を引く彼を迎え入れたいという話は後を絶たなかった。
そんな彼に、この度婚約者が決まった。
リンデル王国の第一王女チェルシー。
彼女は次期女王である。
たとえその彼女に全く女王としての資質が備わっておらずとも、それを分かったうえで現国王陛下と王妃殿下が溺愛してやまないその娘を女王に就けたいと我を通し、しかし国としてはそれで成り立たなくなっても困るので、王配として最も適している人物を王家が求めた結果、フィリップにお願いしたいとあちらから泣きついてきたのだ。
王家からのこの提案は願ったり叶ったりだった。
ローズデン家優位に話が進められるし、下手に優秀な第二王女リリアンヌが女王となるより、愚かなチェルシーの方がよほど操りやすい。
「数日後、あちらとの顔合わせの後、正式にお前とチェルシー殿下との婚約が結ばれるだろう。さすがのお前もあの王女の扱いには手を焼くだろうが、しっかりと務めを果たせ」
公爵家当主である父、ルーデンにそう言われ、フィリップは、当然ですと答え、頷き返す。
彼は極めて強欲だ。
しかし手に入れるため、感情のまま強引な振る舞いをするのは、周囲からの反感を買って敵を作りやすい。
だから彼はこれまでずっと仮面を被って生きてきた。家族の前ですら、実直でローズデン家に忠実な子供を演じている。
優秀でありながらそれを鼻にかけず、性格も好ましい人物になりすましていると、色々と利点が多い。
他人の懐に入ることが容易くなるし、相手を思うままに操りやすい。それに自ずと味方となる人が集まる。
そうすると、たとえ時間がかかっても欲しい物は確実に手に入った。
今の彼が欲しいのは、この国の支配権だ。
幼い頃、密かに兄を排除して現当主を早々に引退させて、ローズデン家の支配者になる計画を立てていたのだが、悪い噂の絶えないチェルシーが、王家の意向で女王に内定している、と耳にしてからその矛先を変えた。
貴族の最高位に昇り詰め、更に高みを目指したいという欲があるルーデンならば、フィリップが何かせずとも、必ずその王配がフィリップになるよう立ち回るだろう。
それならば彼がすべきことは、とにかく彼以上の人物はいないと皆に知らしめることだった。
結果誰もがフィリップを褒め称え、彼のライバルとなる人物は消えていた。
そして目論見通り、王家から婚約の打診があったのだ。
公爵家の馬車に揺られ、案内された顔合わせの場にいたのは、見た目だけは誰もがため息を漏らすほどの王女だった。
太陽の光を閉じ込めたような黄金の髪は光に当たってキラキラ輝き、今咲き誇るラベンダーよりも濃い、目にも鮮やかな紫色の瞳は、どんな宝石よりも美しい。
フィリップより一つ上の学年だった彼女を王立学園時代に何度か目にしたことがあるが、その頃よりも美しさに磨きがかかっている。
社交界の美姫と謳われた現王妃殿下によく似たかんばせで、確かにこの両陛下が溺愛するというのも、この見た目なら納得がいく。
しかし、フィリップにとっては人間の顔の良し悪しなどさほど関係がないことだった。
自分にとって使えるか使えないか、それだけだ。
しかし、そんな彼女の横にちょこんと、見慣れない少女がいた。
チェルシーよりも、髪と瞳の色がうんと薄く、チェルシーや両陛下と似たような顔のパーツを持ってはいるが、受ける印象ははっきり言って地味だ。
おそらくはまだ会ったことのなかった第三王女のアリシアだと推測された。
彼女に関しては、姉二人とは違い、どんな人物か分かる情報は少ない。
ただ、彼女は王女でありながらいつも自然体で、特に本人に目を見張るものがあるわけでないにもかかわらず、気付けばすぐに場に馴染んで人に囲まれていると。
フィリップのような偽物ではなく、天性のひとたらし的な才を持っているのだろう。
だが、彼女はこの顔合わせに関係はないはずだ。
なぜここにいるのかと考えながら、通常通りのフィリップを装い、彼は名前を告げた。
派手な外見を好むと聞いていた通り、チェルシーはあからさまに嫌な顔を向けてきたが、それは想定内だったので構わない。
しかし隣のアリシアの発言に、フィリップは驚きを隠せず思わず表情を取り繕うことも忘れて凝視してしまった。
対するアリシアは失言が本人に聞こえてしまったと、少々青褪めていたが、薄紫の瞳だけは彼から逸らさずにしっかりと見返す。
己の中を見透かすような瞳に、フィリップは釘付けになった。
彼女が漏らした一言と、それを見つめるアリシアの姿は、フィリップの心を掻き立てるのには十分だった。
しかしすぐに己の本分を思い出す。
彼はアリシアに会いに来たわけじゃない。
今日の目的はチェルシーとの顔合わせだ。できればこの一日で彼女との婚約の話をまとめてしまいたい。
そして始まった顔合わせを兼ねたお茶会は、とても酷いものだった。
勿論、チェルシーの対応がである。
しかし彼女が何かこちらに失礼な言動をしようとする度に、アリシアが話題を変えて場を和ませようとし、何とか無事に終わった。
とはいっても、王家としてもフィリップを手放すつもりはないだろうし、この場でどうチェルシーが振る舞おうとも最終的に彼が婚約者になることは決定しているようなものだった。
しかしアリシアを連れてきたのはこのためかと納得する。
傍目で見ていて拙い部分もあったが、そこがまた非常に好ましく見えた。あのルーデンですら、アリシアに向ける視線に柔らかさが混じっていた。
彼女の中で先ほどの発言は聞かれていないと思うことにしたのか、途中フィリップと目が合っても顔色を変えることはしなかった。
けれど彼の自覚していない笑顔の歪さにはやはり気付いているようで、アリシアと目が合う度に内面が暴かれているような気になり、フィリップの胸がざわついた。
彼女を不快に思っているのだろうか。
いや、違う。
違和感を覚えているはずなのに、探るような目でもなく、恐怖を感じ視線を逸らすでもなく、ガラス玉のように透き通った綺麗な瞳でまっすぐ見つめる彼女に、演じていない方の自分が惹きつけられているのを感じる。
動かす駒としてではなく、彼女のことをもっと知りたいと、純粋な興味が湧いた。
しかし顔合わせが終わってしまえば、彼女と会う機会などそうそうない。
面会を希望すれば、未来の義理の兄妹として応じてくれるかもしれないが、婚約者を差し置いてそれは難しい話だった。
王城を後にした後も胸のひりつきはなかなか消えず、後日、そのまま迎えたチェルシーと二人だけで会うはずのお茶会に再びアリシアが訪れた時は、思わず頬が緩みそうになった。
今回も、姉の尻ぬぐいのためだろう。
そう思ったが、アリシアがフォローする前に、席に着く間もなく開口一番やらかしてくれた。
「この私がクソつまらなくて観賞用にもならないお前如きの為に来てあげたわよ。それじゃあ面会も済ませたことだから、私はもう行くわ」
言いたいことだけ言って去る、まるで嵐のようだった。
さすがのアリシアもこれには為す術がなかったようで、慌ててフィリップに向き直る。
「姉が大変失礼な振る舞いを致しました。姉に代わり謝罪させていただきます」
「アリシア殿下が謝る必要はありません。チェルシー殿下の件は、私もよく理解しております。これから徐々に仲を深めていけるようこちらも努力致しますのでお気になさらないでください」
けれどこの状況は彼にとって好都合だった。
申し訳なさそうに眉尻を下げ謝罪するアリシアに、フィリップはある提案を持ちかける。
「それより、もしアリシア殿下さえよろしければ、少しお付き合いいただけませんか? 一人でお茶を頂くのは寂しいですので」
「勿論です。私で良ければ、是非」
そうして、チェルシーが無礼な発言をして婚約者のフィリップが一人になってしまったので仕方なく妹であるアリシアが代わりに相手をする、という自然な流れで彼女と二人になることに成功したフィリップは、しばらく彼女と雑談をした後、メイドが二人分のお茶のお代わりを淹れ、会話が漏れ聞こえない距離まで下がったのを確認したところで、気になっていた前回の発言について切り込んだ。
「ところでこの前私を見た時に、笑顔が嘘臭い、と発言されておりましたが」
びくりと、分かりやすく彼女の身体が跳ねた。
「やっぱり聞こえていたんですね。失礼な発言をしたことをお許しください」
そう言ってアリシアが頭を下げようとするのを、フィリップは止める。
「いえ、怒っているわけではないのです。ただあのようなことを言われたことがありませんでしたので、その理由を知りたいと思いまして」
正確には、言われたことはないが、フィリップが噂とは違う、と気付いた人間が一人いるが。
するとアリシアは、きょとんとした表情で首を傾げる。
「理由と言われましても……。むしろどうしてみんな気付かないのか、そっちの方が不思議です。確かに柔らかい笑顔とか、声のトーンとか、顔の表情とか、一つ一つ見たら噂通りの誠実で人当たりの良い人間なんですけど、全部を繋ぎ合わせたあなたはあまりにも隙がなさすぎて、それが逆に違和感を覚えてしまって」
「隙が無い、ですか」
「ええ。それが作り物めいているなと」
完璧なフィリップを演じようとしていたのが、逆に彼女には不自然に映ったらしい。
「あと、あれですね。うちのリリアンヌ姉様に少し似ているなって思いまして」
アリシアが挙げた名前を聞き、なるほどと合点がいく。
フィリップが演じていると勘付いた人物こそが、そのリリアンヌだったのだ。
「リリアンヌ姉様が、ローズデン様にはばれていると以前言っていたのでご存知かと思いますが、本当の姉様って頭はいいですけどアホ可愛いところがあるのに、完璧な王女でいなきゃってそれが出ないようにいつも上手に演じていて。まあ、姉様は能力が高いから、本当にそれができちゃうんですけどね。それと同じ匂いを感じ取ったといいますか」
リリアンヌとは、十六から貴族たちが義務として通う王立学園でも、そして通わなくても問題はないが、箔を付けるために現在通っているカレッジでも同級生である。
彼女が清く正しい王女であろうと振る舞っているのは初めて会った時から気付いていた。
勿論、彼女が王女の仮面を被っているのは、フィリップのように、どす黒く渦巻く欲望に塗れた獣のような本性を隠す為ではないこともだ。
なにせ一番上の姉がアレだ。同じだと思われない為にも、演じざるを得なかっただろう。
始めはリリアンヌも フィリップの何かに気付いた様子はなく普通に接していたが、徐々に異変に気が付いたのか、探るような視線を感じるようになったのみならず、周囲に誰もいない時を見計らって何かにつけて絡んでくるようになった。
それに対して彼も彼女に合わせ柔軟に対応していたのだが、フィリップを暴こうとしてくる彼女の相手をするのが段々億劫になったので、そこでほんの少しだけ本来の自分を見せると、恐怖で怯え、最近はあまり近付いてこなくなった。
彼女に要らぬことを吹聴される可能性も一瞬考えたが、その程度でフィリップの評価は揺らがないと確信していたし、長姉とは違い愚かではないリリアンヌが、あえて波風を立てることはないだろうとも推測され、それは現実となった。
まして、チェルシーの女王就任が揺るがないのであれば、彼女の暴挙を止められるのもフィリップしかいないと彼女も思っているだろう。
「まあそういう理由であなたの違和感に気付いたんですけど、思ってることがうっかり口から出てしまった、というところです」
「なるほど、分かりました」
「でもあなたはリリアンヌ姉様と違って、もっとこう、とんでもない本性を隠していそうな感じですけど……って、これも失言でしたね」
そう言って、またやっちゃった、という顔をするアリシアに、もし彼女にリリアンヌに見せたように本当の自分を見せたら、一体どんな反応が返ってくるのだろうかと興味が湧く。
リリアンヌのように、怯えて逃げ出すだろうか。それとも別の反応をするだろうか。
どちらにしろ、今のように何事もなくまっすぐ自分を見てくれることはなくなるかもしれない。
そうなった時のことを想像すると、なぜか彼女に素の自分を否定されるのはとても嫌だと感じ、心臓がずくりと痛む。
そもそもここでフィリップがその仮面を脱ぎ捨て、王女二人に悪印象を持たれるような行為に出るのはなんのメリットもないどころか、むしろ悪手になる。
だからここで彼が取るべきはアリシアの言葉を否定することだと、頭ではそう分かっているはずなのに、それでも何かを期待したくて、気付けば彼は全く別の行動に出ていた。
「失言ではありませんよ。アリシア殿下の仰る通り、この下には世間で言われているものとは全く別の私がいます。本当の私は誠実でも何でもなく、欲しいと思ったものがあれば、表向きは善人の皮を被り、裏では他人を蹴落としてでも手に入れようとする、残忍で自分勝手な性格です。それこそアリシア殿下が尻拭いをさせられている、チェルシー殿下と同じように」
そう言ってフィリップはリリアンヌの時とは違い、纏っていた作り物の己を完全に取り外し、誰の前でも見せたことのない彼本来の姿になって、笑って見せた。
すると彼女ははっと息を呑み、そしてすぐに右に視線を逸らす。
あからさまなその反応に、フィリップの心の中にジワリと黒い染みが広がる。
どこかで受け入れてもらえるんじゃないかと思っていた自分がいて、それが否定された。
勝手に期待しておいて、それが外れたからと心が沈む身勝手な己の愚かさに自嘲する。
こんなことをするなんて、らしくない。
フィリップは気持ちを切り替えるように頭を振り、冗談だったと、そう言ってこの話を終えるつもりだった。
このまま彼女に不信感を与えたままはまずい。
だが、アリシアの行動は彼が考えていたものとは全く違った意味があった。
彼を否定する為に目線を外したはずの彼女は、その後なぜか左へ視線を動かす。ついで後ろ、そして前へ向き直り、慌てたように声を上げた。
「駄目ですよローズデン様! こんなに簡単に私に見せたら。しかも周りにメイドとかいるんですよ! せっかく今までずっとそんな自分を隠してあなたの思い描くフィリップ・ローズデン像を作ってきたのに、そんな魔王も顔負けのビンビンオーラの顔を彼らに見られたらおしまいじゃないですか!」
「は……?」
彼女の言葉に、フィリップは思わず相手が王女殿下であることを忘れ、素でそんな声が漏れる。
しかしそんな彼を咎めることもせず、アリシアは尚も続ける。
「それに、ローズデン様がチェルシー姉様と一緒っていうのは、まったく違います。ええ、断固否定します。姉の顔、ちゃんと見たことありますか? あの人、妹の私が婚約者であるあなたの前で言うのもなんですけど、もっと悪辣で凶暴で極悪人みたいな顔ですからね! 魔王なんて生ぬるい……そう、もう悪の化身っていうか、悪そのものっていうか、とにかく全然違うんです!」
胸の前で力拳を握って精いっぱい力説するアリシアの瞳には、恐怖の感情はまるでない。
むしろこれまでと変わらず、まっすぐと彼を見つめている。
「怖くはないんですか、私のこと」
思わず出た言葉に、一瞬彼女は俯き、考え込む素振りを見せる。そしてばっと顔を上げると、大真面目な顔で口を開く。
「まあ、敵に回すと怖いかもしれないですね。だけど私にとってはむしろ、チェルシー姉様が次はどんな我儘を言ってくるんだろうって、そっちの方が怖いです。あの人、国は私物化してもいいとか思っていそうなので。それにさっきも言いましたけど、あなたは姉様とは違います」
「なぜ言い切れるんですか。私がこれまでしてきたことを聞いたら、きっとそんなことは言えなくなりますよ」
この手は既に汚れていて、駒として操った人間も、踏み潰した人間も両手の指では足りない数いる。誠実とは正反対の行いもたくさんしてきた。
けれどアリシアは、あっけらかんとした様子で明るく笑い飛ばす。
「だってあなた、この国のこと大切に思ってくれていますよね? この前の顔合わせの時のあなたを見ていたら分かります。リンデルの未来について話すあなたの目はとてもキラキラしていて、ローズデン様が王配としてこの国を導いてくれるなら、チェルシー姉様がどれだけ暴君でも大丈夫だって思えましたし。そんなあなたがこれまで色々してきたんだとしたら、それはきっとこの国のために、ですよね」
アリシアの言葉は、まさしく真実だった。
フィリップがこの国が欲しい理由は、生まれ育ったこのリンデル王国を大切に思っているからだ。
リンデルは周囲を海に囲まれた半島で、自然は豊かで気候も穏やか、四季の区別もはっきりある、非常に住みやすく恵まれた国だ。
だが大陸の中では小国の部類に入り、他の国々からの脅威にさらされる危険性を常に秘めている。
だからこそ、彼はこの国を守るための力を欲した。
革命を起こして王家を乗っ取ることも可能だったが、関係のない民が傷付いたり、国が荒れるような事態は避けたかった。
なのではじめはローズデン家の当主の座を狙った。
特に現当主のルーデンは、常に自身の利益を追求し、国のことなど二の次だ。
兄はそういう人間ではないが、気が弱いのでルーデンの言いなりになるだろう。
しかし、フィリップが王配となれば、彼より下に来るローズデン家などどうとでもなる。
既にルーデンを今の地位から追いやる為の材料は持っているし、彼がいなくなった後、フィリップが、新しく当主となる兄を操るのはたやすいことだ。
そしてフィリップは公爵家当主の座を奪うことを止め、今の地位に就けるよう力を尽くした。
そんな自分を、目の前の少女は見抜いて、そして認めてくれている。
それが素直に嬉しいと感じ、何も言えずその場で固まるフィリップを知ってか知らずか、もう一度周囲を確認して、彼の顔がちょうど皆に見えない位置にあったのだと認識すると、ほっとした様子で手を伸ばして目当ての菓子を取ったアリシアは、それを口に入れる間際、明日の天気でも話しているかのような軽い口ぶりで、
「ちなみに私、作り込まれたあなたよりも、今みたいに野心満々で滾っていて感情むき出しのあなたの方が、人間味があって好きかもしれません」
そう言って微笑んだ。
その瞬間、彼の中に過去に何度か感じたことのある渇望の片鱗が顔を覗かせる。
ローズデン家を、この国を欲した時と同じ感情だ。
いや、それよりももっと強烈で、少しでも気を緩めれば全ての意識をそちらへ持っていかれ、その場で彼女に手を伸ばして自身の中に取り込んでしまいたくなるような、そんな暴力的な渇きだ。
しかし、獣のような本能に呑まれそうになる自身を、フィリップは必死になって否定する。
違う、これは真実の自分を認めてくれた彼女に対して、関心を持っただけだと。
この国を手に入れるために結んだチェルシーとの婚約を蹴ってまで彼女に手を伸ばすつもりはない。
天秤にかければ、フィリップにとってどちらが大事かは分かり切ったことだった。
よって彼は、生じた感情を封じ込めた。
封じ込められたはずだったのだ。
しかし、その後も定期的に行われるチェルシーとのお茶会は、始めにチェルシーが暴言を吐いて立ち去り、場を繋ぐためにアリシアが残ってフィリップの相手をするのが定番となっていった。
彼女と過ごす時間は、これまでフィリップが感じたことがないほど楽しく、アリシアといると、無意識のうちにぼろぼろと仮面が崩れていく。
そのうち不敬を承知で、これまでの喋り方を止め、敬称を外し、それでも彼女がそれを咎めることはなく、自分の前でだけなら好きにすればいいと許可をする。
取り繕わない自分でいられるのは物心ついてからは生まれて初めてで、消そうとしていたはずのアリシアの存在が、彼の中を侵食していく。
彼女が欲しい──気付けば本能がそう叫んでいた。
笑っている顔が見たい。
声が聞きたい。
触れたい。
抱き締めたい。
その唇を塞いで体中に自分のものだという印を刻みつけたい。
その気持ちが徐々にフィリップから漏れだしていく。
言葉には決して出さなかったが、おそらくアリシアも気付いていただろう。
日を追うごとに強くなる甘く切ない表情にも、彼女の存在全てを絡め取ろうとするほどに熱を込めた視線にも。
けれど彼女は気付かないふりをした。
それでいて、いつも通りに接するのだ。
「こんなの初めて食べました! フィリップ様、このお菓子って何なんですか? というかどこの国の物ですか?」
何度か時間を共にするうちにアリシアが甘いものを好むと気付いたフィリップは、彼女が好みそうなお菓子を探して手土産に持っていくようになった。
今日も彼が選んだものを、目を輝かせながら食べている。
「海の向こうの国から入ってきた菓子だ。あんこってのに砂糖を入れて固めたもんだと」
「なるほど。不思議な味ですけど、甘くて美味しいですね。結構好きな味です。……あ、フィリップ様も一口食べます?」
「だから甘いのは好きじゃないんだって」
そう言いながらも、満面の笑みでアリシアから差し出されれば、彼にそれを拒否する選択肢はなく、皿に切り分けられたそれを受け取り、一口かじる。
とたんに胸焼けしそうな砂糖の甘みに襲われて、思いっきり眉間に皺が寄る。
「なんだこれ、甘っ……」
「この甘さが美味しいのに」
そう言いながら残りをどんどんお腹の中に収めていく。
「美味しかった、ごちそうさまです」
そう言って幸福そうな表情でほっと息を吐くが、口元にはその残骸がついていた。
こんなところも可愛いと思えるなんていかれていると心の中で自嘲気味に呟いて、思わず彼女に手を伸ばしかけたが、すんでのところで気付き、やめる。
触れるのはだめだ。
それは今の彼には許されない。
「口、ついてるぞ」
そう教えてやれば、慌てたようにハンカチを取り出して口元を拭う。
その時のフィリップは、きっと劣情の炎を瞳に宿してアリシアを見ていたことだろう。
けれど彼女はそんなフィリップを見ても、動揺した顔一つ見せない。
自分だけがこんな想いを抱えていることにどうしようもない苦しさを抱く。
同じように熱に浮かれてくれればいいのにと考えるが、それをされたところでフィリップは、今の立場を捨てて彼女と一緒にいる選択肢を選ばない。
それでも喉から手が出るほどに彼女が欲しいと矛盾した思いを抱える。
それに、彼女が本当の意味で彼に心を許していないことも感じていた。
フィリップがこんなにも己を見せているのに、アリシアの本当の顔は見えず、悔しくも思う。
自分も彼女の裏側を暴きたいというのに。
けれど決して、一線は超えなかった。
もはやこの国とアリシアとどちらが欲しいかの天秤は拮抗しつつあったが、今の関係は、チェルシーと結婚するまでの限定的なものだ。
そうなればこの胸の疼きも消えるだろう。
けれどそれまでは、今のぬるま湯のような関係を続けたいと願ったフィリップだが、それは唐突に終わりを告げる。
「アリシア王女殿下が留学、ですか?」
ルーデンの執務室に出向いたフィリップは、聞かされた情報に思わず耳を疑い、戸惑いの声を上げる。
当然だ。
ついこの間彼女と会った時には、そんな話はしていなかった。
それもそのはず、王命が下ったのが三日前で、この国を発ったのが今朝のことだというのだから、動揺しない方が無理だった。
ルーデンは顎髭を撫でながら言葉を続ける。
「そうだ。将来チェルシー殿下の治世を支えるため、今のうちから他国との友好関係を築くようにとのことだそうだが。チェルシー殿下に疎まれていたようだから、体よく他国へ追い出されたと言った方が正しいだろう」
ルーデンから聞かされた言葉に、体の中がすっと冷えていくのが分かる。
彼女がチェルシーに疎まれている、というのには覚えがあった。
気に入られていないのは変わらずだが、フィリップを伴って出席する夜会での彼女の振る舞いは、彼がうまく手綱を握っていることにより幾分マシにはなっていた。
その夜会で、アリシアの名が出ると、途端に彼女は不機嫌になるのだ。
そのような短期間の準備で王族が留学するなど聞いたことがないし、おそらくそのつもりで、下準備をしていたに違いない。
「……いつお戻りになるのですか」
「少なくとも数年はないだろう。もしかしたらそのまま他国に嫁がせる気かもしれんな」
彼女とのあの時間がなくなることも、いつか誰かのものになり、手が届かないところに行ってしまうことも、覚悟をしていたつもりだった。
それなのに腹の奥から何か黒い塊がせり上がってくる。
これまで呑み込めていていつか消えると思っていたそれは、本当は全く消化しきれていなくて、ずっと彼の中に沈んでいただけだったのだと、やっと自覚した。
何とかいつものフィリップとしてその場に立っている彼を前にルーデンの話は続くが、彼の耳にはもはや何も入らない。
部屋に戻り、ソファに倒れるように深く沈みこんだフィリップは、絶望の表情で天を仰ぐ。
もうすぐカレッジを卒業する。このままいけば一年後にはチェルシーと結婚することになるだろう。
それはアリシアに出会う前の自分なら待ち望んでいたことだったのに、今はその事実に絶望する。
この国が欲しい、という欲求に変わりはない。
変わったのは、それと同じくらいアリシアを欲しているということだ。
彼女がここにはいないという事実に、胸が焼けるように痛む。
強烈な渇きに発狂して、この身を自分で引き裂いてしまいそうなほどだ。
今すぐ追いかけたい。急げばまだ追いつく可能性はある。
だが、追いついてどうする。
自分と一緒に戻ろうとでも言うのか。
そんなこと無理に決まっている。
それに仮にそう言ったところで、彼女がフィリップの手を取ることはないだろう。
「色々面倒になってきたな……」
いっそのことこの国を滅ぼしてしまおうか。
そして彼が新たな王として君臨してアリシアを手に入れ、自分しか入れない空間に閉じ込めればいいと、仄暗い欲望に駆られ、すぐに頭を振る。
国を汚すようなやり方で、このリンデルを手に入れたいわけじゃない。その方法で手に入れたかったなら、とっくにそうしている。
アリシアに関してもそうだ。
籠の中に閉じ込めてしまったら、彼女は二度と、あの瞳でまっすぐ彼を見てはくれないだろう。
そんなのは、彼の欲するアリシアではない。
ではどちらかを諦めるか。
このままチェルシーと結婚し、子を設けた段階で何らかの理由をつけてチェルシーを排除すれば、何の労もなくこの国が手に入る。
だが気持ちに気付いた今、フィリップ・ローズデンの皮を被ってチェルシーに触れられる自信がない。
ならばアリシアを選ぶかと問われても、即答ができない。
妥協したことも、諦めたこともない。
欲しい物は全て手に入れてきた。
どちらかを諦めるかと問われても、それに対する答えをフィリップは既に持っていた。
簡単な話だ。
どちらも選べない。
なら、どちらも手に入れる方法を考えるしかない。
アリシアが女王となり、フィリップがその王配となる。
その為に取り除かなければいけない障害は多い。
チェルシーの王位継承権が剥奪されるよう持っていくのはたやすいことだが、問題は、その下にいるリリアンヌだ。
フィリップに密かに怯え、妹にアホ可愛いと言われる彼女だが、女王足る資質は持っている。彼女をどうにかしなければならない。
それにもう一つ。
二人を排除してアリシアを次期女王として迎えるにしても、何も成果を上げていない今のままの彼女ではただのお飾りで、フィリップのおまけとしてしか認識されないだろう。
それは彼の本意ではない。
少なくとも二年は欲しい。
それだけあれば、必ず彼女は成果を上げると確信していた。
チェルシーのスペアでもリリアンヌの代わりでもない。
誰もが納得する形でアリシアを次期女王へと押し上げたい。
彼女が留学してしまったのは、ある意味好機でもある。アリシアが次期女王としてふさわしいと存在感を示せるような成果を上げられればいい。
そのための時間を稼がなければならない。
フィリップは一刻も早く彼女を手に入れたいと負の感情に引きずり込まれそうになる己を必死に押し留め、望む未来の為、頭の中で綿密に計画を練り始めた。
「フィリップ・ローズデン! お前は公爵家という立場を利用して、ここにいるリーフに嫌がらせをしたり、刺客を送り込んで彼を殺そうとしたわね!? お前は私の婚約者としてふさわしくない。今この場でお前有責で婚約破棄をし、そして私は真実の愛で結ばれたこのリーフを夫とするわ!」
アリシアが旅立ってから、二年と数か月が経った。
チェルシーが意気揚々と婚約破棄を宣言する様を目の前にし、遂にここまできたとフィリップは内心笑いが止まらなかった。
この夜会には最近になって交友を深めたダマル帝国の皇子の姿もある。
そんな中、リーフの証言のみでチェルシーがこのような婚約破棄の宣言を出したのは、当然フィリップの誘導によるものである。
事の発端は、リリアンヌの婚約者であった男が、真実の愛を見つけたと書置きを残し、市井の女性と駆け落ちをしたことだ。
『真実の愛』という単語はチェルシーには大変魅力的なものに映ったらしく、結婚目前になって婚約者を代えろと騒ぎ立てたのだ。
娘に甘い両陛下もさすがにそれはと宥めたが、これまで散々甘やかされてきたチェルシーは一向に聞かない。
とうとうチェルシーではなく、王配はフィリップそのままに、リリアンヌを女王候補にしようと考えていたところで、操りやすい傀儡がいなくなるのは困るとローズデン家が待ったをかけた。
ローズデン家は、フィリップがチェルシーに心を傾けてもらえるよう力を尽くすので、とりあえず結婚を先延ばしにしてほしいと進言し、チェルシーをなんとしても王座に就けたい両陛下はそれを受け入れた。
しかし、フィリップの尽力も及ばず、いつの間にか急接近していた男爵家のリーフという男に夢中になり、二人は人目も憚らず愛し合うようになった。
ちょうど世間では、爵位の低い令息と高貴な令嬢が、様々な苦難を乗り越え結ばれるという物語が流行っており、それを参考にしたチェルシーが、フィリップがリーフを虐げたという苦難を捏造し、このような暴挙に出たのだ。
場が騒然とするのを肌で感じながらも、フィリップはここで一度気を引き締め直し、この場にふさわしいフィリップ・ローズデンを演じ対応する。
常より王家に忠誠を尽くし、周囲からの評価も高いフィリップと、元より好感度が地中に埋まるほどで愚かだと噂されているチェルシーとどちらに軍配が上がるかは、明白だった。
チェルシーが婚約者であるフィリップを蔑ろにしているのは有名な話だったし、しかもあのフィリップがそのようなことをするはずがないと誰もが彼を擁護した。
娘の暴挙を目にした両陛下は、夜会を即座に中止せざるを得なかった。
参加者たちは、さすがの両陛下も、自国の人間だけならともかく、大陸で最も発言力のあるダマル帝国の人間がいる中でお粗末な言動を誇らしげに行うチェルシーを女王に据えさせることはもはや不可能だろう、そう口々に言いながら会場を後にした。
「何と言うことだ! このままではリリアンヌが次期女王に指名されてしまうではないか!」
帰りの馬車の中で、ルーデンが憤ったように声を荒げる。
「あの馬鹿王女を裏から操る計画が台無しではないか! フィリップ、せっかく猶予をやったというのに、なんでその間にあの女を引き留められなかったんだ!?」
「私の不徳といたすところです、申し訳ありません」
フィリップは怒り狂うルーデンに対し、頭を下げる。
「くっ、こんなことなら、あの馬鹿王女が婚約解消と騒ぎ立てた時点で革命でも起こして国を乗っ取っておくべきだったな。お前がなんとかすると言うから、その言葉を信じて任せたというのに。使えん奴め!」
その後も怒りをぶつけるように罵るルーデンの言葉を、顔では真摯に受け止めるふりをしながら、頭の中では全く別のことを考えていた。
始めから今まで、全てが彼の思うまま順調に事が運んでいた。
この後の流れとしては、おそらくチェルシーにはなんらかの処分が下る。
処刑はないだろうが、一番厳しい修道院に生涯幽閉辺りが妥当だろうか。
噛ませ犬のリーフにも相応の罰が下るだろうが、もはや使い終わって落ちていく駒の未来など、フィリップにはどうでもよかった。
リリアンヌの元婚約者に関しても同様だ。
あれの処分は既に終えている。
そしてそのリリアンヌだが、夜会が始まる前に種は蒔き終わっている。
リリアンヌについては、婚約者がいなくなる前から、彼女を国内から追い出す為、リンデルにとって最も益となる彼女の嫁ぎ先を探していた。
いくつかの集まりに参加し、候補を絞り、最終的に狙いを定めたのがダマル帝国だった。
側近と近付き彼を介して皇子と接触し、関係を築いた。
帝国との縁を手に入れるのには時間がかかったが、リリアンヌとの対面を果たした皇子の態度から見るに、そちらも滞りなく進みそうだ。
その後、チェルシーは生涯幽閉されることが決まり、新しく女王としてリリアンヌが指名されたが、この婚約破棄騒動を理由に、公爵家の中には王家へ反旗を翻すべきだとの声を上げる者が数名出てくる。
その筆頭は当主のルーデンだった。
しかし、フィリップは言葉巧みにルーデンを宥め、その動きはすぐに沈静化する。
そうこうしている間にダマル帝国から使者がやってきて、リリアンヌがダマル帝国の皇子に求婚されるという、フィリップ以外誰も予想していなかった事態が起きる。
断れば軍を差し向けることも厭わない、逆に受け入れればリンデル王国の後ろ盾になると言われれば、従うほかなかった。
そうなると、女王になれる人間は一人しか残されていない。
国を離れて以来一度も帰国することなく、いくつもの国を渡り歩いている王女アリシア。
これが二年前なら、優秀であったと評判のリリアンヌの後釜としては、いささか物足りず、お飾りの女王にしかならないと思われていただろう。
しかし彼女は着実に成果を出していた。
誰であっても物怖じせず、それでいて相手の本質を見極める能力に長けた彼女は、癖のある各国の要人たちを瞬く間に虜にし、リンデル王国と縁を結びたいと申し出る国が増えていた。
それにより、今までに見たことがなかった文化や食材がリンデル王国にも入ってきており、また自然が豊かで過ごしやすく、季節の移ろいを感じられる美しい国を訪れたいと、他国からのリンデルの人気も高まっている。
そんなアリシアと、国の為に忠義を尽くすフィリップが共に上に立つなら、リンデル王国の未来は明るいと人々は考え、アリシアの女王就任を歓迎する流れが広まった。
「リリアンヌではないだけマシか。ローズデン家がこの国を支配する……その悲願達成のため、お前がすべきことは分かっているな、フィリップ」
彼のすべきこと。
それは目の前でふんぞり返るこの男を、近い将来当主の座から引きずり落とすことだ。
既に兄は——ローズデン家はフィリップの掌の上にある。
勿論ルーデンだけではない。
引きずり落とすのは、今の両陛下も一緒だ。
逃がしはしない。それまでせいぜい、栄華を極める夢でも見ておけばいい。
ルーデンの言葉に頷きながら、フィリップは仮面の下で静かに嗤った。
そして、リリアンヌが婚姻のため、帝国へ旅立った数日後。
遂に両陛下から、アリシアを次期女王とし、その王配をフィリップにすると正式に王命が下された。
何かが髪を優しく撫でる感覚にそっと目を開けると、すぐ目の前にアリシアの顔があった。
彼女はフィリップが見ていることに気付かず、とても楽しそうな表情で、片手に持った手紙を読み進めている。
相変わらず綺麗な彼女の瞳をぼんやりと眺めていると、ふと目が合う。
「あ、起きたんですね」
そう言って便箋を丁寧に折り畳み封筒にしまうと、にこりと微笑む。
「……どういう状況だ、これ」
フィリップの記憶では、さっきまで彼女とラベンダーの花を見ていたはずだ──正確には花を見る彼女の顔に目を奪われていたのだが。
しかし、その後がどうもはっきりしない。
靄のかかったような頭の中で記憶を手繰り寄せていると、もう一度、アリシアが幼子を撫でるような手つきで頭を撫でた。
「疲れてたんじゃないですか? フィリップ様、いつの間にか木に寄りかかって寝ていたんですよ」
「木を枕にしてるにしては柔らかくないか」
「それは、体勢が辛そうだったので勝手に膝枕したからです。ついでにずっとそのふわふわの髪の毛を触りたかったので、この機会にしっかり堪能していました」
「こんなのいつでも触れよ」
言いながら、ようやく頭がはっきりしてきた。
道理でいつもとは違う角度でアリシアが見えるわけだ。
折角一緒にいる時間だったのにそれを睡眠にあてるなんてもったいないことをしたと思う一方で、こういうのも悪くないと、フィリップは彼女の顔に手を伸ばし、頬に触れる。
「……夢を見ていた」
「どんな夢ですか?」
アリシアはそれを拒否せず、自身の手を上からそっと重ねる。
触れ合える幸せを噛みしめながら、彼女の質問に答える。
「アリシアと初めて会った時から今までの記憶だ。いい夢だったよ」
「……本当ですか?」
「なんでそんなこと聞くんだ」
「だってあなた途中、結構な頻度で難しい顔していましたし、特に最後の方なんてひどかったですよ。体調が悪いのかって思って起こそうかと思ったら急に嬉しそうに笑ったのでそのままにしましたけど」
確かに、全てが楽しい記憶だったかと問われると、即答できない。
むしろ想いを言葉として告げられなかった時の彼の感情はぐちゃぐちゃに塗りつぶされるほどに重く苦しかったし、彼女がいなかった最後の二年はまさに地獄だった。
アリシアの侍女として共に出立していたエリーに連絡を取って、彼のアリシアへの本音を全て打ち明け協力者に引き込み、他にも数名彼女に張り付かせる要員として送り込んだが、定期的に来る報告書は、彼女の近況が分かって嬉しい反面、非常に悩ましいものだった。
やれ東の国の辺境伯の子息やら伯爵家の当主やら宰相やら、果てはその国の王子まで。
留学先を変えても毎回曲者だと有名な者達に気に入られるのだ。
彼女が先ほどしまった手紙だって、差出人として書かれていたのは、彼女が二つ目に訪れた国の、頑固で偏屈だと有名だった先王の名だ。
彼らとの繋がりができたことは喜ばしいことだったが、アリシアを結婚という形で取り込もうとする人間も一定数いたため、その度にフィリップはすぐにでも連れ戻しに行きたい衝動に駆られるほどに、強く嫉妬心を煽られた。
彼女を渡すなど冗談じゃない。
当然そうならないよう手を打ったが。
しかしその想いがあるから結果として今、彼女が手を伸ばせば届く距離にいる。
なら彼にとって、気が狂いそうなほどに辛い感情が付きまとっていたあの数年間は、アリシアを知り、彼女を愛し、最後に手に入れることができたとても大切な記憶だ。
そう答えると、アリシアの頬がわずかに緩む。
婚約者となってからの彼女との関係は、以前と同じように見えて少しずつ変わってきている。
今のような表情は、過去だったら絶対に見せなかったものだ。
まだフィリップが彼女に抱いているほどの強さはなくとも、ゆっくりとそれには近付いていると感じる。
何かをねだるような目でじっとアリシアを見つめ、フィリップはゆっくりと親指で彼女の唇をなぞる。
「なぁ」
「駄目ですよ」
「……まだ何も言ってねぇけど」
「駄目です」
「今まで持ってきた菓子もお前好みだっただろう。嬉しそうに食べてただろうが」
「あなた、私がお菓子で陥落するようなちょろい人間だと思ってます?」
「違うのか?」
「……確かに甘いものは好きですけど」
心外だと言わんばかりに頬を膨らませ、アリシアはフィリップの手を顔からゆっくりと外すと、その手は握ったまま、ふわりと笑った。
「私が嬉しかったのは、あなたが私のために選んでくれたものだったからですよ。今も、昔も」
どくりと、心臓がひときわ大きな音を立てて鳴る。
彼の気持ちは一方的なもので、あの頃の彼女には義理の兄への感情しかないと思っていた。
けれど。
「いつからだ」
動揺からか、緊張からか、こぼれた言葉は声が震えていた。
けれどそんな彼とは対照的に、アリシアはあっけらかんと答えた。
「分かりません。だって恋って、気付いたら落ちているものなんでしょう?」
「っ……!」
これまで他人を意のままに動かしてきたのはいつだってフィリップだったのに、アリシアといると翻弄されるのはいつも彼の方だ。
けれどこの関係が、苦しいのにたまらなく心地よい。
「アリシア、愛してる」
「私も、好きですよ」
悔しいが、まだ彼と同じ言葉は引き出せない。
一年どころか、一生かかっても彼女には勝てないかもしれないが、それでも約束をした。
だから。
握られていた手を引き寄せ、今の彼に許されている手の甲に口付け、彼は挑むように笑いかけた。
「必ずお前を俺のところまで堕とす。だから逃げるなよ」