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 いつの間にか、眠り込んでいたらしい。

 シーツ越しに、潮騒に消え入りそうな打鍵音が僕の鼓膜を揺らす。


 彼にしては珍しく、今夜の選曲はクラシックだった。内省的な夜想曲の響きが、一音ごとに海風へ透過していく。ベッドから脚を下ろすと、土踏まずに潮の粒子が冷たい。足音を殺して螺旋階段に辿り着き、階下を覗き込む。

 ピアノに張り付いた彼は、黒鍵に額を擦り付けんばかりに頭蓋を垂れていた。ただでさえ猫背なのに、不格好この上ない。午睡に耽る蝙蝠の羽根みたいに束ねられた両腕、その末端だけが別の生き物みたいに蠢く。懺悔の言葉を(あやま)たずに奏でているか、見えない相手の顔色を怖々と窺っている。

 もし、告白できる安易な罪が眼前に投げ与えられたら、彼は喜びに咽び縋り付くのだろうか。だが、そんな天恵など存在しない。あの日は、そんな猶予を何処にも残してくれなかった。


 ここで暮らし始めて暫く経った頃、彼に押し切られる形で僕は大学に戻った。無数の経文と建設機械の唸り声が、街の時間を否応無く推し進めていく。足を止めるともう二度と立ち上がれない。誰もがそう思い込もうとしているみたいだった。そんな日々の中で企業からの内定通知が郵便受けに投げ込まれて、僕は街を離れることになった。


「今夜はお祝いにしよう」

「いらない。春から社会人とか実感ないし」

「誰でも、そんなものじゃないかな」

「それにどうせしばらくしたら戻ってくる」

「……忘れちまえよ」


 その後のことはよく覚えていない。戻らない過去に拘泥するなんて、あの日を境にやめたはずだった。そもそも、未曾有の混沌において雨露を凌ぐ場所と大学に戻る時間を与えられた僕は、彼の生き方にどうこう言える立場でもなかったというのに。それでも、あんなに彼に腹を立てて声を荒げたのは、あの夜が最初で最後だった。

 庭の片隅、物置に押し込められた誰かの遺品。衝動的に僕と暮らし始めることになって、慌てて隠したつもりらしいけれど…… 決定的に詰めが甘い。どちらにせよ、この家に染み着いた誰かの痕跡なんて、あの無能には逆立ちしたって消せやしない。


 彼はうなだれて、ただ口を閉ざしていた。

 そんな男を相手にした夜の結末はいつだって曖昧なままで、波音に(ほど)けていくしかない。


 別れの日。僕を見送った彼の背中は、バーの薄闇へ静かに戻っていった。

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