二
淡色の寝台が、波間に浮かんで揺れる。
潮風に意識を委ねて崖上まで遡上しようとも、肢体は水底に生白く固執する。
微睡の視野が捉えるのは、何故か生き残った僕。
あるいは、死に損なった僕だったか。
あの日、約束された目覚めなど存在しないと知悉したはずなのに。救いようのない若さは早くも翌朝の到来を疑わず、惰眠を貪ろうとする。挙げ句の果てには、隣に眠る人肌に無垢な安らぎすら抱く始末。硬いシーツから半身を起こし、その温もりに視線を落とす。そこには、僕の苛みに似たかそけき寝息が、早暁の潮鳴りに染みて室内を漂っている。
寝室の窓は、開け放たれたまま。波音に身を委ねるここの暮らしも、半年が過ぎようとしていた。ブラインドの間隙で朝焼けが仄かな波形となって揺れる。
「良い眺めだろう。潮風で家具が痛むけどね」
初めてここに連れて来られた日。濡れそぼち、困惑に立ち尽くす僕に彼は告げた。家具どころか私物のほとんどを失った僕の沈黙に頓着せず、彼は早口で続ける。
「階段を上がってくるときに見たと思うけど、一階がピアノバー、二階が住居になってる。で、私がオーナー兼ピアニスト。でも、ピアノを弾く以外は尽く無能なんだ。だから、今日からよろしく」
「……よろしくって、なにを」
「えっと、とりあえず、ピアニストとバーテンダーを両立できなくて困ってる。あとは店の管理や諸々の家事を君と分担したい。あ、ゴミ出しは任せて。こう見えて、なかなか優秀なんだ」
海辺で出会った髪の毛ボサボサの見知らぬ男に付いて行く自分もどうかと思うが、そんな僕にいきなり住み込みの仕事をオファーする彼も彼だった。
いずれにせよ、有形無形の混沌に塗れていた当時の状況に彼の茫洋とした雰囲気がなんとも不釣り合いで、行く宛のなかった僕は半ば流されるままに頷いてしまった。後日、彼が自身で評するより遥かに無能である事が判明していくのだが、その時には後の祭り……
今日、一つめの溜息。手櫛で髪を掻き上げる。伸び放題の前髪が鬱陶しいけれど、商店街の散髪屋も延焼被害で営業再開の目処は立たないと聞いた。人と話すのが苦手な僕にとって、あの寡黙な美容師は有り難い存在だったのに…… 寝起きの取り留めない思考をシーツに残して、色褪せたジーンズに足を通す。爪先を膝の穴に引っ掛けた。繊維が裂けるくぐもった音がして、僕の数少ない私物がボロ布へまた近付く。
螺旋階段を伝って、一階のバーへ。海外製の大きなエスプレッソマシンに細挽きの豆をセットする。これはあの日、この店で無事だった数少ない什器の一つらしい。フライパンの上で細かく踊る厚切りベーコンを、珈琲片手に眺める。その上に卵を割り落とす段になって、のそりと彼が降りてきた。
寝癖で跳ね放題の黒髪。よく見れば精悍な相貌を、無精髭が台無しにしている。そして、彼が素肌の上に羽織っているのは、僕のコットンシャツだ。不釣り合いに小さくてボタンも掛け違えているけれど、気付く様子はない。いま指摘したところでどうせ記憶には残らないから、腹いせに目の前のベーコンエッグに黒胡椒をたっぷりと効かせておく。
キッチンを素通りする彼の手元から「クシャリ。ジッ……」という鈍い音。バーカウンターの煙草を掴んで火を点け、そのままピアノに向かうのが毎朝の儀式。間もなく、僕が朝食を準備する音に不規則な旋律が混ざり始める。
天窓からの薄日にグランドピアノが青黒く浮かび、その前には脚を組んで鍵盤に向かう彼のシルエット。長身で、痩せていて、恐ろしく猫背の男が深く頭を垂れて、左手だけで低い音階を弄ぶ。
もちろん、客の前で演奏する彼はこんな風じゃない。スタンダードナンバーは一通り弾きこなすし、客席からリクエストされた流行の歌を即興でジャズテイストにアレンジしたりもする。時には立ち上がったままアップテンポな曲を演奏したり、戯けたパフォーマンスで客の目を楽しませる夜もあった。
「なぁ、煙草の灰が落ちるって」
年期の入ったガラスの灰皿を差し出す。ダラリと垂れていた彼の右腕がゆっくり上がってきて、大きな掌が口元を覆う。人差し指と中指の付け根に挟み取られた煙草が灰皿に横たわり、緩慢な骸となっていく。指間の水掻きが薄い彼の手は、酷く骨張って映る。静脈が絡む十指はその緩急の蓋然性において彫刻の域に漸近する一方で、掌との有機的な不均衡が深海に棲息する甲殻類を想起させる。あの外骨格の歪形を目にしたのは、去年の夏。
電車の駅から海際の水族館まで、浜辺の砂がスニーカー越しに焼けていた。僕の五歩先で潮風にサマーニットを翻してステップを踏む、同じ大学の先輩。一人で佇む彼女の静けさが好ましかった。無機質に並ぶ訃報にその名を認めた僕はそのままふらりと海へ、水族館の帰り道に二人で辿った白砂の道に素足を沈めた。
踝を撫でては去っていく、冬の潮。無数に揺れる夕波の先で落日だけはあの日と何も変わらなくて、僕は俄にそれが疎ましくなったんだと思う。
濡れたジーンズが波を絡めて、両脚を沖へ誘う。あっという間に爪先が水底を離れ海面が青黒く染まり水温が一息に下がって喉に海藻が絡む。流し込まれる潮の苦さに噎せていたら、誰かに呼ばれた気がした。振り仰いだ視界に砂浜が小さい。防波堤の先端で右往左往していた長身のシルエットが不意に身を踊らせたかと思うと、下手くそなクロールで……
鼻孔を刺す燻香に視線を落とすと、肉片と卵が黒焦げに塗れていた。バーカウンターに彼と並んで、それを珈琲で流し込む。
あの日の続きが、今日も始まろうとしている。