見習いは神様の夢を見る
そもそも、彼等は疲れていたのだ。おまけに、抑圧からの解放感も拍車をかけた。何れそういう事が起きる可能性はあったし、彼等自身、そうなる事を全く考えていないわけでも無かった。だが今では無い。
それは、彼等も、彼等を見守る者達にとっても、本当に想定外のことだった。誰のせいでも無い、強いて言うなら「間が悪かった」、それだけの事だ。
「え、何? どういうこと?」
道にへたり込んだ浅黒い肌の少年が大きな黒犬を振り返り、茫然と呟く。
「……これ、夢か?」
黒犬もまた、きょとんとした様子で少年を見詰めていた。
「ええい、忙しない!」
黒犬と少年の間で憤る大きな茶色の犬が、ギョッとした様子で彼等を何度も見返す。
少年と黒犬が同時に叫んだ。
「えっ? どうなってるんだ?」
問題の種は、大分前から蒔かれていた。
「フウガちゃん、手応えはありんしたか?」
店主であるザンセツが、黒犬に優しく声を掛けた。ザンセツが動く度、華やかな香りが大気に広がる。
ザンセツに、フウガが溜息を吐いた。
「はー、『風を起こす方法を答えろ』って、こんなの、その時々でやり方は変わるだろ」
〈うん。だから、複数回答するのが正解なんだ〉
「ひっかけか? これがひっかけ問題ってやつか?」
服屋兼雑貨屋「はなあらし」の、座敷になっている店奥で、フウガとクウガは受験したばかりの神様初級免許試験の自己採点をしていた。
数か月前から、フウガとクウガはザンセツの元で試験勉強に取り組んでいた。
常なら、友神であるマイアが彼等の勉強を見ているのだが、彼女は仕事が立て込んでおり、中々時間の都合がつかずにいた。尤も、フウガもクウガも、忙しいマイアの手を煩わせる心算は端から無く、日頃から自分達だけで大丈夫だと遠慮している。だが、マイアからすれば、可愛い弟分達の大事な時期に何もしてやれないのが心苦しかったようで、気を揉む彼女の様子を見かねたザンセツが、フウガ達の家庭教師に立候補したのだ。
永らく神として働いていたザンセツは経験豊かで、面倒見も良く、現役を退いている現在は時間の融通が利く。何より、しょっちゅうフウガとクウガを事件に巻き込むチョウキが、「はなあらし」には立ち寄ろうとしない。受験が間近だったフウガとクウガにとって、勉強に打ち込むのに好都合な場所だった。
彼等が受験したのは、便宜上、試験や免許と呼ばれているが、大神様の代理として働く契約を神界と交わす手順であり、一柱の神と認められる最低限が、この初級免許を取得しているという事なのだ。神として働くということは、即ち、神界から給料が支払われる、ということである。給料という単語にクウガは燃えていた。座学が苦手なフウガも、何時になく真剣に勉強に取り組んだ。
そして数日前、無事……とは言いきれないが、兎に角、彼等は筆記試験を終えた。その報告と自己採点を兼ねて、フウガとクウガが「はなあらし」を訪れたのが今日、という訳だ。
それまで、にこにこと彼等の様子を眺めていたザンセツが、ふと眉根を寄せた。
「クウガちゃん、声に張りがありんせんなぁ。わっちの気のせいでおざんしょうか?」
何時もはきはきと話すクウガの声が、何処となく精彩に欠く様にザンセツには感じられた。
「クウガ、やっぱり無理してたんじゃないか? もう休むか? 悪いなザンセツ、横になってもいいか?」
「すぐに敷物を用意しんしょ」
〈大丈夫だよ。食べ過ぎ? みたいな感じなだけだから。フウガは何ともない?〉
「俺はいつも通りだぞ」
ザンセツは苦笑いしながら、柔らかな敷き布を床に敷いた。
「食べ過ぎって……また屋台にでも行きんしたか?」
見習いとはいえ、神界の住人である彼等に生物としての食事は必要は無く、例え何かを食べたとしても、肉体が無ければ消化も吸収も出来ない。だが、神界にも食事処はちらほらと存在する。食事と言うより嗜好品のようなもので、地上の食べ物を参考に、神界の霞等に味をつけたものが提供される。そして、最近のフウガとクウガは、屋台で買い食いをすることを覚えていた。
「今日は屋台に行ってないぞ。仕事してきた」
フウガは、敷き布の肌触りを堪能するように腹這いになり、伸ばした両腕に顎を乗せた。
フウガとクウガは特殊な存在と能力を生かし、まだ見習いの身の上ではあるが、既に非常勤で働いている。免許取得試験には、筆記だけでなく実技もある。仕事をした分は実技試験の一部と認められる上、微々たるものとはいえ手間賃が貰えるとなれば断る理由は無く、今日も今日とて彼等は一仕事終えてきたのだ。
ザンセツは白湯をフウガ用の皿に注ぎながら、美しい顔に何処か怖い笑みを浮かべた。
「まだ正式な社員でもないのに、こんなになるまで働かせるなんて……チョウキ様には、わっちがよーく言って聞かせておきんすえ……」
フウガとクウガの上司にあたるチョウキは、大抵の小言を右から左へ受け流す特技を持っている。そのチョウキでも受け流せない数少ない相手が、かつての部下だったザンセツなのだ。
「(いいぞザンセツ、もっとやれ)いいぞザンセツ、もっとやれ」
〈フウガ、心の声が漏れてるよ〉
クウガが苦笑した。
〈本当に大丈夫だから。ザンセツ様、ご心配かけてすいません。ただ、ちょっと身体が重いっていうか、お腹がもたれるっていうか……この状態で、お腹は何処にあるんだって聞かれると、俺も悩むんですけど〉
「フウガちゃんもクウガちゃんも、そんな歳じゃあないでしょうに」
〈うーん、確かに、生きてる時は感じた事無かったんですけど、魂だけの状態だと、やっぱり感覚が違うのかな。よく判らないや〉
心配そうに眉を曇らせていたザンセツが、背にしていた茶箪笥の引き出しに手をかけた。
「そういえば、確かこの辺に戴き物の薬酒が……ああ、ありんした。もし良ければ、これ、クウガちゃんに差し上げんしょ」
引き出しの中を探っていたザンセツが、白地に藍色の花模様の描かれた陶器製の小瓶と小皿を手に、フウガを振り返る。
「酒か? 俺達が飲んでも大丈夫なのか?」
ザンセツが微笑みながら小瓶の蓋を開け、紅色のとろりとした液体を小皿で受ける。
「酒とは言っても、神界の医療班が拵えたものだし、神力が少し活性化する程度の効能だから、大丈夫でやんしょう。まあ、味は期待したらいけんせんえ」
フウガは首を伸ばしにおいを嗅ぐと、反射的に鼻の頭に皺を寄せた。
〈フウガ、大丈夫? 俺はそんなに臭く感じないんだけど。寧ろ、嫌いじゃない匂いだ〉
常に肉体感覚がはっきりしているフウガと違い、今の状態のクウガは、嗅覚や味覚をそれ程気にしない。
フウガは小皿をぺろりと一舐めする。
〈ちょっと酸味と苦味を感じるけど、そんなに気にならないかな〉
「美味しくないって事は判ったぞ。どれ位飲めばいいんだ?」
「本来は一瓶飲むものだけど、初めてだし、半分位にしておいた方が良いかもしれんせんね」
そう言って、ザンセツは小皿に薬酒を注ぎ足す。フウガは意を決して一気にそれを舐めた。
「どうでありんすか?」
問い掛けるザンセツに、鼻の頭に皺を寄せたフウガが答えようとした時だった。
突然、フウガの背中の毛が逆立ち、身体が一回り大きくなった。
〈フウガ、どうしたの? あれっ? 何だか、身体、が、重……〉
クウガ言い終える前に、フウガは敷き布を蹴散らし、猛然と店外へ走り出した。ザンセツの彼等を呼び止める声が、あっという間に背後に遠ざかる。
〈ちょ、ちょっと、フウガ、どうしたの?〉
「…………」
クウガの声が聞こえないのか、フウガは無言のままだ。風の様に街を走り抜けるフウガを、道行く神や精霊が振り返る。
〈うう、身体が、重い……振動が気持ち悪い……フウガ、若しかして、酔っぱらってる?〉
フウガは黙々と走り、クウガは増々身体が重たく感じる。脚を止めようにも、身体の主導権は完全にフウガにあり、クウガにはどうすることも出来ない。そんな状態のフウガではあるが、幸い、物や誰かにぶつからないよう避けるだけの意識は残っているようなので、相棒が正気に返るまで耐える覚悟をクウガが決めた時だ。真横から声が掛けられた。
「こら、こんな街中で何を走り回っとるんだ。皆に迷惑であろう」
いつの間にか、茶犬のヨルダが息も乱さずフウガに並走していた。
大柄なフウガと、それに劣らぬ体躯のヨルダが仲良く走る姿は、見る者によっては、ある種の微笑ましさを感じる光景かもしれない。実際に楽しんでいるかは別としてだが。
「…………」
フウガは反応しない。
「ウッ、なんだ、やけに薬臭いな。クウガ殿、一体何があったんだ」
走りながら顔を顰めるヨルダに、クウガが息を乱し乍ら説明した。
〈薬酒を少し飲んだら、フウガが、急に、ウプッ、走り出したんだ……〉
何時と様子の違うクウガの声に、ヨルダは増々顔を顰めた。
「こやつもだが、クウガ殿も何やら普段と違う様子……えい、話し辛い、止まれ、止まらぬか」
ヨルダがフウガを叱り飛ばすが、フウガは一向に止まる気配は無い。
ヨルダは、フウガとクウガの上司チョウキの神使だ。基本的に面倒見が良く、かつてはフウガの属する群れの頭だったこともあり、フウガにとっては仕事仲間と言うよりも兄弟に近い。クウガとは蟠りがあったこともあるが、時に思い切りの良すぎるクウガの性格を警戒しつつも受け入れた今では、良い友である。
〈俺は大丈夫。それより、ヨルダは何で街に来たの? 仕事?〉
「いや、おぬしらの試験結果を小耳に挟んだので、知らせてやろうと思うてな」
どうやら本人達に結果が届くより先に、試験監督と親しい彼等の上司に連絡が行ったらしい。それを隣で聞いていたヨルダは仕事を早目に切り上げ、結果を知らせに来てくれたのだ。
〈そっか、わざわざありがとう。フウガ、聞こえてる? 落ち着いてヨルダの話を聞こう……駄目だ、止まらない。しょうがない、フウガ『待て』!〉
フウガが、嘘のように動きを止めた。余りにも急停止した為、並走していたヨルダにはフウガの姿が突然消えた様に感じられる程だった。
「うわぁ!」
慌てて脚を止め、振り返るヨルダの脇を、何かが叫びながらすっ飛んでいった。聞き覚えのあるその声に、ヨルダは再び振り向く。
「え、何? どういうこと?」
「……これ、夢か?」
慌てる声に被せるように聞こえた声が、ヨルダを三度振り返らせる。
何度も首を廻らす羽目になったヨルダは、首をぶるっと振るい「ええい、忙しない!」と憤りつつ、正気に返ったらしいフウガを一瞥し、もう一方の声の主に目を向けると目を見開いた。そして、先程までより更に忙しなく首を振る羽目になった。
おろおろとするヨルダの視線の先では、動きを止めたフウガと、道にへたり込む浅黒い肌の少年が、茫然と互いを見詰めていた。
少年と黒犬は同時に叫んだ。
「えっ? どうなってるんだ?」
新たな来客を迎えた「はなあらし」の店奥では、手際よく茶菓子やら茶碗やらを並べる店主が、美しい顔に困惑を浮かべていた。尤も、困惑していたのはザンセツだけではない。行儀よく座る大きな茶犬が、こちらも珍しく困ったような顔を浮かべていた。
彼等の眼の前では、医療班の診察を受け終えたばかりの金色の眼をした大きな黒犬と、青い瞳の浅黒い肌の少年が、時折照れくさそうに視線を送り合っていた。二魂で一体の筈のフウガとクウガが仲良く並んでいるのは、微笑ましくも奇妙な光景だった。
ヨルダはチョウキに事の顛末を報告する必要があったし、何より、目の前で起きた友の異変を案じていた。
「クウガ殿、体調はどうなのだ? フウガ、おぬしもだぞ?」
「ちょっと身体が重たい気もするけど、だんだん慣れて来たよ」
「俺は特に変わりないぞ」
ヨルダは安堵の溜息を吐き、改めて彼等に何が起きたのか尋ねた。
「それで、おぬし等、何を仕出かしたのだ?」
「仕出かしただなんて、人聞き悪いなぁ」
「そうだぞ、俺達、何もしてないぞ」
ヨルダが即座に首を振った。
「おぬし等の『何もしてない』を信用する程、我は目出度くないのだ」
彼等がやいやい言い合っている姿を眺めていたザンセツが、項垂れた。
「やっぱり、わっちのせいでおざんしょうか……」
クウガが慌てて否定した。
「いえ、確かにあの薬酒も関係ありますけど、本当に小さな切っ掛けの一つに過ぎないっていうか……」
この日、フウガとクウガは一仕事終えていた。彼等の主な業務は「死者の国」の魂の管理だ。大きな傷や、過度な欲望で変質してしまった魂の変性部位を吸い取り、無垢の状態に戻すことが彼等の仕事の大部分を占めている。澱で濁った魂の部位を嗅ぎ分け、無事な部分を出来る限り残して吸い取る作業は、どんな神でも簡単にこなせるというものでは無く、フウガの嗅覚と、クウガのあらゆるものを吸い込む神力を同時に働かせることで、円滑で安全に進めることが可能になる。
初めてその作業を行った時の彼等は、事故を起こした様なものだった。ぶっつけ本番、しかもやけくそ気味だった力は荒々しく、一時的にとはいえ、安全とは言えない状態に追い込まれた魂も少なくなかった。其処に至った事情と、魂への新たな治療法と今後の応用への功績が考慮され、彼等が公的に咎められることは無かったが、全くの無罪放免という訳にもいかなかった。
「暫くの間、俺の管理下に入って貰うね。医療班と連携して、安全性を高め、魂の浄化を技術として確立させ、ついでに、雑用なんかも宜しくね」と、どこか嬉しそうにチョウキが告げたそれが、彼等に下された課題と言う名の罰だった。
問題の種は、この時既に蒔かれていた。
フウガとクウガは癒着していながら、それぞれが独立した魂だ。定期的に受けている健康診断ではどちらも健康そのものだと診断されていたが、彼等がどうやって個性を保っているのか、どう癒着しているのか、そもそも理屈が存在するのかしないのか、それらの疑問は、彼等自身は勿論、神界の誰もはっきりと答えられない特殊な事例だった。
だから、フウガもクウガも、その他の誰も深く追及しなかった。もっと正確に言えば、誰も疑問に思いもしなかった。
クウガの能力で吸い取ったものは、一体、何処に消えているのだろうか?
当然、消えてなどいなかったのだ。
クウガが吸い取り続けた魂の澱とは欲望の種であり、消化、いや、昇華するには、飢えをも乗りこなす更なる欲望が必要になる。それは、大自然と暮らし、あるがままを受け入れるフウガに欠け、良くも悪くも運命に揉まれ、抗い続けたクウガが得た資質だ。種族差、環境差、その全てが今回の件に繋がっていた。
生物が栄養を摂取するように、クウガが取り込んだものの一部は神力として還元された。クウガがそれを意識して行っていた訳では無かったが、仕事で消費する筈の労力を、仕事をすることで賄っていたのだ。当然、クウガに還元された神力は、同体のフウガにも還元される。日常で、仕事で、神力を使いこなす実技訓練で、彼等は神力を消費した。
だが、二魂がかりで消費しているにも拘らず、摂取量は消費量を僅かに上回っていた。余剰分は次第にクウガに蓄積した。皮肉なことに、彼等が仕事に熟練してゆく程無駄な神力の消費は減り、余剰は加速することになった。
やがて、初級免許の筆記試験の時期が近付いた。受験を申し込んでいたフウガとクウガは、仕事や実技訓練を休み試験勉強に勤しんだ。常なら何かと面倒事を持ち込みがちなチョウキも、ザンセツと言う防波堤のお陰もあって、その間は彼等に無茶振りすることも無く、その結果、彼等の生活から一時的に神力の消費が著しく減った。
そして決定的な事が起きた。無事受験を終え、色々と一段落した今日、協力してくれた各所に挨拶に回る彼等に、チョウキが機嫌よく声を掛けたのだ。
「試験、お疲れー。すごく頑張ってたもんね、いい結果が出るって信じてるよ。ところで、ちょっと仕事していかない?」
「俺達、予定あるぞ」
〈お疲れって言いながら、仕事してけって、おかしくないですか〉
相変わらず話を聞く気があるのかないのか、チョウキは調子よく続けた。
「新しく来た魂なんだけど、まだ変質が深く進んではいないみたいなんだよ。地上でもあまり悪さして無い子なんだ。早く楽にしてあげたいんだよ」
〈うーん、わかりました。でも、もしザンセツ様を待たせることになったら、お詫びとしてチョウキ様を手土産として一緒に連れていきますよ〉
「ええっ、ザン……いや……は、はい……お願いします……」
クウガとフウガは、久しぶりの魂の浄化を手間取る事無く終えた。彼等以上に胸を撫で下ろすチョウキに見送られ、クウガとフウガは職場を後にした。
「ちょっと急ぐぞ」
フウガが走り出してすぐ、クウガは気付いた。
(何だか、身体が重いような……?)
〈ねえ、フウガ〉
「なんだ? あ、早かったか? もっとゆっくり走った方が良いか?」
黒犬は走る速度を落とす。いつも通りのフウガの様子に、クウガは安堵した。
〈ごめん、なんでもない〉
不思議そうなフウガに、呼んだだけだよ、と、クウガは笑った。クウガが先程感じた違和感はまだ残っていたが、それよりも、クウガの体調に関しては神経質な相棒に心配をかけたくなかった。
(久しぶりに神力を使って緊張したからかな。まあ、どこか痛むわけでも無いし。気のせい気のせい)
気のせいではなかった。ただでさえ消費しきれていなかった神力に加え、仕事で一時的に増加した神力でクウガの魂は密度を増し、フウガの魂との密度の差が決定的になった。要するに、クウガの魂は重くなり過ぎていた。
その状態で薬酒に酔ったフウガが勢いよく走り出し、急停止した結果、重さのある分勢いを消すことが出来なかったクウガの魂は、停止したフウガの身体から飛び出す羽目になったのだ。
「く、下らん……」
「別に、クウガちゃんが太った様には見えんせんけんどねぇ」
ヨルダは脱力し、ザンセツは小首を傾げた。
魂の密度と外見は、比例するとは限らない。例えるなら、犬を重さを変えずに蟻の大きさにまで縮めた様なものだ、と、彼等は医師から説明を受けた。
「何だ、その分かり辛い例えは……まあ良い、取り敢えず、我は主に事の顛末を伝えるとしよう」
そう言って、ヨルダは部屋の隅に移動すると、壁に向かってぶつぶつと呟き判じめた。
ザンセツが肝心な事を訊ねた。
「お二方の魂の癒着は、剝がれたってことでおざんしょうか?」
「いえ、この状態は一時的なものだそうです」
彼等の魂は表面化していない次元での癒着が強く、今の状態は、見えない程細い糸で繋がっているようなものだ。密度の差が減れば、彼等の魂にとって一番楽な状態である二魂一体に戻る。日常生活を送っているだけでも、水が高所から低所に流れる様に魂の密度は均一化していくし、クウガが余分な神力を使い切るか、フウガの魂も密度を増すような事態が起きれば、すぐにでも彼等の身体は一体に戻ってしまう。
今後も完全な分離は難しいかもしれないが気を落とさずに、と、医師は彼等の境遇に同情したが、フウガもクウガも特に落ち込んではいなかった。いや、寧ろ上機嫌だった。口には出さなかったが、互いに何を考えているのか手に取るように解った。
(これからもずっと一緒に居られて、身体を離す方法までわかった。最高じゃないか!)
しかし、その気分はザンセツの一言で破られた。
「試験は受け直しになるかもしれんせんなぁ」
「え? なんて?」
フウガもクウガもきょとんとした。
フウガとクウガは二魂で一柱の神様候補として登録されている。例え類を見ない能力を持っていても、それと神になる資格は同等では無い。現時点で彼等が神様に昇格する為には、互いの得手不得手を補える状態、あくまで二魂一体が前提なのだ。その為、免許試験はフウガとクウガそれぞれで挑むが、合格はその平均点で決まることになっていた。筆記が苦手なフウガも、実技が苦手なクウガも、二魂一体で良かったと心から思っていた。
だが、彼等が常にその状態とは限らないとなれば、神界の重鎮達は慎重になるだろう。試験の合否も、フウガとクウガの得点を平均したものではなく、それぞれが合格点に達する必要があると判断する筈だ。ザンセツはそう言っているのだ。
フウガとクウガは愕然とした。
「自分だけで、満点近く取らないといけないってことか……もう、勉強飽きたぞ……」
「拙い、俺も実技はフウガ任せだよ……」
「……ふむ、そのように伝えよう。うむ。うむ。では後程」
部屋の隅で、皆に背を向けていたヨルダが振り返った。
「中座して済まぬ。どうした、やけに大人しいではないか。
ふむ、そんなところに大変伝え辛いのだが、今回の試験はやり直しになるだろうとのことだ」
たった今、その可能性を話していた黒犬と少年は、「やっぱり……」と、溜息を吐いた。其処に、ヨルダが追い打ちをかけた。
「実技試験も延期だそうだ。二体だと、これまでの仕事量では実技の一部と認めるには足りぬ、と判断されたようだ」
「また低賃金で働くのか……」
「合格しても、二魂で一神分の基本給しか貰えないのに……」
落ち込む彼等を、ヨルダとザンセツが慰めた。
「今後の給金については、主に交渉するといい。その他手当てが付けば、それなりに貰えるだろう」
「わっちも、人事と経理の知り合いに相談してみんしょう」
肩を落とした黒犬と少年は、友人達に小さく礼を言った。
ふと、ザンセツがヨルダに訊ねた。
「そうそう、結局、今回の試験結果はどうだったんでやんしょ?」
話を振られたヨルダは、何とも言えない表情になった。
「あー、うむ、なんだ、その……まあ、次もあるからな。その話は置いておこうではないか」
とうとう、フウガもクウガも頽れた。
「頭のその話しぶり、どっちにしても不合格だったってことか……」
「答え合わせの感じだと、何とか合格点は取れてそうだったのに……」
ヨルダが頷いた。
「実際、試験は合格点に達していた様だ」
「え、どういうこと?」
クウガは問題なく合格点に達していたし、フウガも思いの外点を取れていた。二魂の平均点は、合格基準を満たしていた。だが。
「フウガ、おぬし、名を書き損じていたようだぞ。その分点数を引かれたのだ」
「え?」
その場の全員の視線を浴び、フウガは珍しくおろおろとした。
「ごめん、多分、また『フ』と『ク』が判り辛かったんだ」
フウガの文字は癖が強く、これまでも書類の提出時に指摘されることがあった。
「まあ、このような事が起きねば、審議の目もあったやもしれぬが」
ヨルダが慰めたが、ザンセツは気の毒そうな顔で首を振った。
「それはどうでしょう。殆どの業務で署名は必要だし、とても重要なことだから、ある程度厳しくなるのは仕方がありんせん」
「本当にごめんな、クウガ。俺のせいで、クウガの頑張りも無駄になってたなんて……俺、字の練習する……」
俯き、鼻をクーンとならすフウガの頭を、クウガがそっと撫でた。
「本来なら字を書くことも無かったんだもの、フウガは今でも頑張ってるよ。でも、練習するのは良いことだよね。俺も、もっと実技の練習頑張るよ」
「はなあらし」からの帰り道、フウガとクウガはゆっくりと並んで歩いた。珍しく落ち込んだままの黒犬の背中に、クウガが足を止めた。
「ねえ、フウガ」
「ん、どうした? まだ体調悪いのか? それとも疲れたか? 背中に乗るか?」
フウガが慌てて立ち止まり、クウガの手を舐めた。クウガは嬉しそうにフウガに訊ねた。
「フウガ、気付いてる?」
「何にだ?」
クウガは屈み込み、フウガの首に抱き着いた。
「俺達、今なら並んで走ることも、こうやって抱きしめる事も出来るんだ。フウガの毛繕いだって、生きてる間には出来なかった追いかけっこだって、今なら出来るんだよ」
フウガの耳に、クウガの楽しそうな声が染みこむ。
「試験は大事だ。結果は二の次なんて思わない。でもさ、不合格だった事実はもう変わらない。それに、折角フウガに触れられるんだもの。何時までこの状態か分からないだろ?」
クウガは腕を緩め、フウガの顔を覗き込んだ。
「だからさ、遊ぼう。したくても出来なかった事しよう。それで、次また頑張ろう。こういうの、フウガの方が得意だろう?」
フウガは少し俯き、顔を上げた。そして、クウガの頬をぺろりと舐め、尻尾を振った。
「ありがとうな、クウガ。よし、次の俺に期待してくれ」
フウガの声に明るさが戻る。クウガは嬉しそうに訊ねた。
「それじゃ、何しようか?」
「まず散歩だ。いつもの湖で駆けっこしたいぞ。仕事終わったらマイアも来るよな。俺達を見たら驚くかな?」
「きっとね。いつもフウガと一体だったから、この状態で会うの、何だかちょっと緊張するなぁ」
黒犬と少年は見詰め合い、楽しそうに笑った。