#20 兄と妹
絵の具のかかった制服、その下の床にも絵の具が飛び散っていたこと。そしてその制服のポケットに、金子に貸したはずのハンカチがあったこと。
これらは『この美術室で何が起きたのか』を紐解く重要な手がかりだ。思考は瞬時に”可能性”の概形を捉え、検討を重ねるごとにそれはより詳細なものへ変遷してゆく……。
「……あの時計が示している通り、何者かが絵の具をぶちまけた時刻は大体4時25分頃。そして……ここにきて、新たな人物が関係していることがわかった」
「それってやっぱり……金子ってこと? でもなんで……」
「……まだ断定はできないが、俺は『金子がやった』って可能性も考えている」
あんなおどおどした小動物のような女子が何故こんなことをするのか、理由は皆目見当もつかない。だがここで見つかった証拠が、ある可能性を示唆している。
「あの制服、てっきり東金のかと思ってたけど……。これって、実は金子の制服だったってこと? なら東金の制服はどこに行ったんだよ?」
「……そもそも、この制服のどこが”奇妙”だったか分かるか?」
「えっ? えぇっと……あれだよな。その、アレ!」
「『床に落ちている制服に絵の具が飛んだなら、制服の下の床に絵の具は付かないはず。しかし実際のところ……制服を持ち上げると、床にも絵の具が付いていた』、こんなところじゃないかい?」
その通りだ。それに比べて妹のほうは……模試数学満点のクセにすーーっげぇ頭悪そうな台詞だな……。
それはそれとして、さっき明らかになった事実を加味して”なぜこのようになったのか”を考えると……。
「金子はこの美術室に来て、絵の具をぶちまけた……あるいはその現場に居合わせた。そしておそらく……そのときに自分の制服にも絵の具が付いたんだ。でも、絵の具のかかった制服で校内を歩き回るわけにもいかない」
「もし本格的に犯人捜しをが始まったとして、そんな目撃情報があれば犯人扱いは逃れられないだろうからね……」
「だから、金子はその場で自分の制服から東金の制服に着替えたんだ」
「えぇーーーっ!?」
雨海は大層驚いていた。喋ってる側としては反応ないよりマシだが、にしても驚きすぎである。
「じゃあ金子は今、東金の制服を着てるってことっ?」
「多分な」
倒れた鞄から制服が飛び出したような状態だったのは、おそらくこの制服交換がバレないようにわざとそうしたのだ。鞄から制服を取り出したら絵の具で汚れまくりだった……とかどう考えても不自然だからな。
「……あっ。でもそういえば、最初のあの大きな音の謎も残ってるじゃん。あれは? あたし金子の逃げる姿なんて全く見てないけど」
「あれは……おそらく美術室の外からやったんだ」
「えぇっ、外から~? 推理小説みたいなこと言うんだな~」
何言ってんだ胡散くさ……みたいな目で見てくるんだけど。……俺は窓際に近づいて窓を開け放った。
「ご、ごめん……調子乗っ…くしゅっしゅん!」
「だからなにそのクシャミ……」
個性的なクシャミだな……。
窓の外には学校や街の景色も見えるが、用があるのはそっちじゃない。視線を下に降ろすと、そこには今朝も見た”垂れ幕”がぶら下がっていた。
「あの垂れ幕、最初に見たときから適当な取り付けだなって思ってたんだよ。でも多分、元々はこうじゃなかったんだと思う」
垂れ幕の上端では角から角へとワイヤーが通されており、窓の下に取り付けられた柵に『ワイヤーのたるみを引っ掛ける』ことによって垂れ幕はぶら下がっている。あまりに簡素過ぎて飛んで行ってしまわないか不安になるが……。
「仕組みとしては多分本当に単純だったんだ。『美術室の椅子を集めてタワーのように積み上げる』『垂れ幕をちょっと室内に引き入れて、ワイヤーのたるみをタワーに引っ掛ける』『外に出て、下から垂れ幕を引っ張る』、そうやって美術室の外からタワーを崩し、音をたてた」
雨海は俺の説明を聞いてふんふんと考え込み、やがてポンと手を叩いた。
「なるほどね~」
「ただ、こんだけ自分で仮説垂れ流しておいてあれだが……まだ腑に落ちない点も多い。本人に直接訊いて確かめる必要があるだろうな」
「その子、まだ校内にいるのかしら? もう帰ってるかもしれないわよね……」
先生の言う通りだが、まぁそこは最悪明日になってもいいだろう。
「実は俺、ここに来る少し前に金子を目撃したんです。まだいるか分からないけど、ちょっと探してきます」
「あたしも行くよ」
俺たちは金子を探すべく、美術室を後にすることにした。
気付けば時刻はもう5時前。夕日に差しこむ美術室前の渡り廊下は、仄かな橙色に染まっていた。
「……あのさっ」
「ん?」
突如、話を切り出してきた雨海。……夕日のせいだろうか。照れくさそうに身じろぎする彼女、その顔はどこか赤みを帯びている様にも見える。
「あ、ありがと! その……助けてくれて」
彼女の口から出たのは、意外にも素直な言葉だった。もっと意地を張るタイプかと思っていたが。
「……正直、嬉しかったよ。あたしが怪しいって流れになっても、味方になってくれて。……あたしのことを、信じてくれて」
「そんなことか。……ま、日ごろの行いは大事ってわけだな。いざってときに人に信じてもらえるかもしれないし?」
照れくさそうに言う雨海に、俺はお道化るように言葉を返す。……少し不誠実な応対だったかもしれないな、などと思った。
それから……互いに少しの沈黙。気付くと俺の視線は雨海へと注がれていた。
「……ん? なに、あたしの顔になんかついてる?」
「いや別に。ただ……なんだ、兄の面影あるなって思っただけだよ」
つい誤魔化してしまった。こうして雨海の顔をじっくりみることなどなかったが……夕日の効果なのか、今日の彼女はやたらと綺麗に見えた。
「……にしても兄妹仲よさそうだな。俺は妹とあんま仲よくねぇから、すげーなって思う」
「へ~、妹いたんだ? 仲については……まぁ、あたし尊敬してるんだ。兄ちゃん」
”尊敬”ときたか。ますますウチとは事情が違うなと思わされる。
「ウチは3人兄妹でね、あたしは真ん中。下には弟。あたしら昔から兄ちゃんの真似っこしてばっかでさ、数学好きも兄ちゃんの影響。それに……あたしがこうして割と自由にしてられるのも、実は兄ちゃんのおかげだったり」
最初こそ目を輝かせて自分の兄のことを語る雨海だったが、次第にその顔は俯いていった。
「うちの両親、医療従事者でさ。特にお父さんは外科医で、すっごく忙しかったりするんだよ。兄ちゃん本当は大学で数学科に行きたかったんだけど……結局親の方針で医学部に行くことになって、そっちは諦めたの」
「……驚きの新情報だらけでついていけねぇ」
実は医者の娘? 兄は医学部? ヤバすぎだろ雨海家……なんでコイツこんな普通の都立高校通ってんの?? などと思ったが……そうか、なるほど。さっきの”自由にしてられるのも兄ちゃんのおかげ”というのはつまり……。
「長男が他にいて、しかも女のあたしは兄ちゃんほど生き方を縛られなかったんだよね。……単に期待されてなかっただけかもしれないけど。とにかく今のあたしがここにいるのは、きっと兄ちゃんのおかげなんだよ」
……そういうことか。雨海は目を伏せていた。そこにあるのは罪悪感か、それとも無力感か。
「でも少し前からさ、急に転校するように言われ始めたんだ。転校先はけっこう有名な私立。理由は分からないけど……多分あたしが苦手な文系科目から逃げたりしてたからじゃないかって、そう思った」
……やっぱり、さっき聞いた通りか。俺は今日、将棋部室に行ったときのことを思い返した。
~~~
「愛依ちゃん、転校の相談で家族の人が来ることが何度かあったんだよね。たしか最初に来たのは文化祭の後だったから……去年の9月くらいからかな」
「あったな。文化祭でお会いしたときはいい人だと思ったんだが……ネットで調べるとなにやら黒い噂が目につくのだよな。あくまで噂でしかないのだが……彼女の家庭環境が少し心配になる」
将棋部の青堀、岡部先輩がそう語るのを、紅茶を飲みつつ俺は聞いていた。
「せめて彼女が卒業するまで、力になれればよかったんだけどね……。でも僕は彼女より1コ上で、卒業も1年早いし、何より彼女が自分から頼ろうとしない。クラスの友達にも迷惑かけたくないからって話してないみたいだし……」
本庄先輩の、先輩なりの苦悩というやつか。まぁ、クラスの友達の距離感って普通はそんな感じだよな。たとえ仲のいい友達でも、あんまりガチ過ぎる悩みは打ち明け難いという感覚は割と普遍的なものではないだろうか。
「雨海さんに”存分に迷惑をかけられる相手”がいてくれれば、まだよかったんだろうけどね……」
「……」
現代において、”存分に迷惑をかけられる相手”という存在はいささか欲深いものなのではないだろうか。
親しき仲にも礼儀あり。フィクションにあるような心の友、ソウルメイト、あるいはマイブラザーといった関係は実際のところ中々得られるものではない。大切にしている関係だからこそ言い出せないことだって、当然ある。
俺はどんな顔をして聞いているのが適切か、わからなかった。