いつもこうして、ろくでもない結果を
翌朝、雫の部屋から出てきた耀と、腫れぼったい瞼をした雫を見て静彦は眉を上げたが、何も言わず、いつもどおり、耀の作った朝食をきれいな箸使いで米粒一つ残さず完食した。
身支度を整えて、三人は登校する。放課後待ち合わせてカウンセラーの元へ行くことに決めて、小等部の校舎の前で別れる。
高等部の校舎に向けて並んで歩きながら、静彦はポツリと呟いた。
「雫──姫様は、大丈夫なのか」
「ああ? ……分かんね。心配なら、聞いてみりゃどうだ。付き合いの長いお前のほうが、雫も安心するだろ」
「付き合いは、そう長くない。一年前だ。両親が雫を連れてきて、『ずっと離れて暮らしていたが、お前の妹だ。だが、彼女が姫神の器であるからには、おまえは従者としての態度を心がけなさい』とそう言ったのは」
耀は目を見開いて静彦を見た。静彦は頷く。
「雫は俺の妹だ。同時に、仕えるべき主だ。──俺は従者としての分を超えるつもりはない。それが村の掟だ」
その言葉に、耀の腹に、煮えたぎるような怒りが灯った。
「──なんだよ、それ」
昨夜の雫の涙を思い出す。村の掟だなんだか知らないが、そのために雫を寂しがらせてもいいとは到底思えなかった。静彦からも、確かな雫への情を感じるから、なおさらそう思う。
そして一旦火のついた耀の苛立ちは、教室に入った途端一気に加速した。
黒板の横幅いっぱいに大きな字で書かれた『次に呪われるのは誰!? ダービー』という文字。その下に何人かの名前と、その横に正の字で投票結果らしきものが書かれている。
耀自身の名前がそこにあったのは別に意外ではなかった。耀の喧嘩遍歴は、SNSを通じてとっくに周囲に知れ渡っているようだ。時期外れの転校生だ、耳目を集めもしたのだろう。
だが、どうやら自分も名前を書かれたらしい女生徒の一人が、唇を噛んでじっと俯いているのが気に入らなかった。名前は忘れたが、確かクラス委員かなにかで、ホームルームの司会をしていたのを覚えている。確かに騒ぐ生徒に少しきつく注意をしていたが、こんな悪ふざけに、悪意を持って投票されるほどのことはしていないと思う。
誰も黒板の文字を消そうとしない。消して、自分が目をつけられるのが嫌なのだろうと思う。だが、中には笑いさざめく連中もいた。
「いっそ、全員でもいいんじゃね?」
「学校を荒らすやつには、さっさといなくなってほしいよな」
その瞬間、耀は、雫達と過ごして一時忘れかけていた己の喧嘩っ早さを思い出していた。
耀は思いきり机を蹴り上げる。机は吹っ飛んで、ひどい音を立てて床を転がる。
しん、と沈黙が落ちた。耀はじろりと辺りを睥睨する。離れた席で、静彦が額を押さえているのが見えた。ほとんどの生徒は怯えて身を引いていた。だが、何人か戦意を見せて耀を睨む男子生徒もいて、耀は彼らに向けて歯を剥いて笑った。
「影でコソコソ言ってねぇで、気に入らねぇなら直接かかってこいよ。ちょうどイライラしてんだ、発散にちょうどいい」
「おい、やめろ、耀!」
静彦が耀の肩を掴んで止めるが、耀は止まらない。耀を睨む男子生徒のうち、一人に目をつける。空手か柔道か、とにかく何かやっている体つきだ。いいねぇ、と耀は興奮に背筋がゾクゾク粟立つのを感じた。
「耀!」
静彦はなおも耀を止める。耀はその手を振り払って、静彦を睨んだ。
「耀、騒ぎを起こすな」
「うっせぇな、じゃあ、おまえが相手してくれんのか」
「自分の立場を自覚しろ!」
うるさい、知るか。
理屈では静彦が正しいと分かっている。分かっているのに止められないからこそ、耀は耀であり、『蛮神』の器なのだ。
──戦いたい、戦いたい、戦いたい。
頭がその一色に染まる。他の何も考えられない。
静彦の瞳に怒りが閃いた。改めて耀に向き直り構えを取るその瞳に闘志を認め、耀は心からの歓びに笑った。
先に動いたのは耀だった。鳩尾を狙った左手は受け流されるが、そちらは囮。本命の右拳は静彦の顔面に向けてまっすぐ繰り出される。静彦はそれに退くどころか、耀に向けて大きく踏み込んだ。気づけば、右腕を静彦の左腕に絡め取られ、そのまま腕を引かれると同時に、右の脇腹に手刀を受ける。踏みとどまろうにも、静彦の踏み出した足が耀の踵にかけられていて、否応なくバランスを崩す。耀は勢いよく吹き飛ばされ、椅子や机を引き倒しながら背中から床に転がっていく。ガラガラ、ガシャン、と酷い音がした。
背中がひどく痛い。だが、耀は起き上がる。
──やっぱりこいつ、めちゃくちゃ強い。
ああ、楽しくて楽しくて、愉しくて愉しくて、もうどうにかなってしまいそうだ。
とはいえ、耀の一部は冷静だった。このままでは勝てない。
どうする、どうすれば──
その時、視界が暗くなる。夜闇が落ちたような暗闇。最初に静彦と戦ったときにも、この感覚を覚えた。自分の腹の中に炎が熾火のように燃えているのを感じる。
静彦が大きく目を見開いた。
「おい、こんなところで──」
だが、もはや自分では止められない。耀の中の炎は、今まさに燃え盛ろうとしていた。
その時。
『──耀、おやめなさい!』
まるで脳裏に直接打ち込まれたような声は、雫のものだった。同時に全身に痺れが走り、耀は床に膝をついた。
あのクラス委員の女子と目が合った。
彼女は怯えた眼差しで、耀から一歩身を引いた。
──ああ、いつもこうして、ろくでもない結果を招いてしまう。
昼休憩、行儀悪くテーブルに肘をついたヒロカが、ジト目で耀を見ながら、ストローでいちご牛乳を啜る。
「で、職員室でたっぷり怒られてきたと。バッカじゃない?」
「そうだ、もっと言ってやれ」
静彦まで便乗する。
二人に揃って怒られた耀は、げんなりとする。
「おまえらって、仲良かったっけ」
三人は食堂で同じテーブルを囲み、昼食を取っていた。耀もさすがに弁当まで作る余裕はないので、昼食は購買か食堂だ。小等部には給食があるらしく、雫はいない。
昼食時の食堂はそれなりに混み合うはずだが、三人のテーブルの周囲は、ぽっかり空いている。時々、こわごわと耀の方を見る視線を感じる。朝の出来事はすでに広まっているらしい。
「……おまえら、俺といたら、やりにくくなるんじゃねぇの」
「つきあう相手は、自分で選ぶし」
「おまえを一人で放っておく方が後で面倒だ」
ヒロカはこともなげに、静彦はクールに言い放った。
「それに」
とは二人同時に、続く言葉は異なった。
「耀が自分のためだけに怒ったって思わないし」
「俺もああいった悪趣味な行為は好かん」
ヒロカと静彦は顔を見合わせ、ヒロカはニンマリ笑い、静彦はぷいと顔を逸らした。
耀はなんだか胸がジンとしてしまう。二人に不審げな目で見られて、慌てて顔を平常に戻す。
「それに、悪いことばっかじゃないぜ。さっき職員室で、放課後カウンセリングルームに行けってさ」
「それ、いいことなの?」
「それは好都合だな」
また、ヒロカと静彦の声が重なり、二人は再び顔を見合わせた。
そこに駆けてきた小さな影がある。
「耀!」
「お、雫」
先程までなら少しは神妙にしていたかもしれないが、すでに立ち直っている耀は笑って手を振る。そのふてぶてしさに、雫は仁王立ちになって腕組みし、目を眇めた。
「びっくりしたじゃない! 人目のある校内で『力』使っちゃだめでしょ!」
悪い悪い、と謝りながら、耀は雫にも、カウンセリングルームに呼ばれたことを話した。雫はまだぷりぷり怒りながら、雫と静彦と三人でカウンセリングルームに行くことに同意した。
蚊帳の外になったヒロカは、少し不満そうだったが、
「三人でしなきゃいけない話があるから」
と耀に言われると、無精無精頷いた。
「じゃ、私は久々に特撮研究部にでも顔出そうかな。SNSでは連絡取ってたけど、部室に行くのは久々だし」
「……特撮研究部?」
静彦が聞き返す。おそらくは意味が分からなかったのだろう。
「そ。歴代の戦隊物とか、ライダー物とかの研究──っていったら大げさだけど、とにかく特撮好きがみんなで語り合う部。なに? 神木くん、興味ある? だったら入るといいよぉ。うちの学校、部活必須だから、とにかくどっかに入んなきゃいけないし」
「部活必須?」
その言葉を聞きとがめた雫は、腕を組んでなにか考えていたが、やがて耀に言った。
「だったら耀は、片っ端から格闘技系の部活に体験入部して、そこで大暴れしてきて」
「へ?」
目を丸くした耀に、雫は焦れたように言う。
「つまりね。耀が暴れん坊だって噂が流れるようにして、『呪い』が耀に向くようにするの。そうしたら、相手から来てくれるんだから楽でしょ」
確かに、それは有効な手立てかもしれない。が、『暴れてこい』と言われるのは生まれて初めてで、耀は面食らう。
そんな耀に、雫はにっこりと笑う。耀を手招きすると、かがんだ耀の、その両の頬を掌で包んだ。
「忘れないでね、耀。あなたは今は私のもの。あなたの力も、ただの暴力じゃない。私のためのもの。鬼を倒し、私を守るためにあるのよ」
その言葉は、耀の胸に、やけにすとんと落ちた。耀を見つめる雫の大きな黒い瞳に、不思議と包み込まれるような気持ちになる。それはなんともむず痒い、だが不快ではない気持ちだった。