二人の夜
結局、彼が何も覚えていなかったことから、耀達も特にお咎めなく放免された。それでも疑いの眼差しで見られ、
「転校早々、騒ぎを起こすな」
との小言はもらった。生徒達の間には、SNSを通して瞬く間に情報が広がったらしい。午前の授業を終えて廊下を歩けば、気になる会話がいくつも聞こえた。
「今度は山田か。あいつ、田辺のことずっといじめてたもんな」
「一応、そんな事してたら呪われるぞって教えてやったんだけど、ほらあいつ、去年の三学期からの編入じゃん。前の学校で問題起こして、親が金積んで無理やりうちに入れたってさ。信じなかったんだよな」
「まぁ、いいことじゃね? 問題起こす馬鹿ばっか狙ってくれる呪いなんだし。俺らは過ごしやすくなるもんな」
耀は眉を顰めた。
人が傷つけられて──しかも、木の枝が肩を貫通するなんて、後遺症すら残りかねない重症を負わされて──出てくる言葉がそれか。しかし、すぐに思い直す。
喧嘩を繰り返し、人を傷つけ続けてきた自分の言えたことではない。
「耀。田辺に会いに行くぞ。幸い、まだ保健室にいるようだ、見舞いという名目で行こう」
「あー。でもあいつ、何も覚えてないっつってたぞ?」
「分霊に憑かれたということは、鬼の本体に接触したということ。今は情報を得たい」
耀は頭を振って、胸に残る不快さを振り払う。りょーかい、と軽く答えて、静彦の後に続いた。
田辺は保健室のベッドの上で上体を起こし、なにやら虚脱した様子でぽかんと口を開けていた。大丈夫かこいつ、と危ぶむが、静彦はさっさと田辺に歩み寄る。
「もう体調は良くなったか? 少し話を聞きたい」
目と目を合わせる。『幻術』とやらをかけたのだと分かる。田辺がゆっくりと頷いた。
静彦は田辺に、最近起こった出来事や会った人物などを次々聞いていく。田辺は虚ろな瞳で、素直にそれに答えていく。
それは胸の悪くなる話で、耀は顔をしかめた。
田辺は山田が転校してきてすぐに目をつけられ、理不尽な暴力を受けていたそうだ。抵抗すればするほど暴力は激しくなり、次第にはされるがままになり、金までせびり取られた。地獄のような日々。精神的なものだろう、田辺は不調を来すことが多くなり、保健室に入り浸るようになった。心配した保健室の先生がスクールカウンセラーを紹介し、田辺はそのカウンセラーにだけ、暴力や恐喝のことを打ち明けた。山田からの報復が怖かったから、山田の名前は出さなかった──。
話しているうちに、田辺の目からボロボロと涙が溢れてきた。辛い記憶を思い返すうちに、麻痺していた感情が戻ってきたのだろう。同時に、幻術でぼんやりしていた瞳に理性の光が戻る。
「それで僕は山田を校舎裏に呼び出して──、あれ、どうしようとしたんだっけ。気づけば君たちがいたんだ」
どうやら、田辺から聞けることはそれくらいのようだった。静彦が礼を言い、耀に目で合図して、二人で立ち去ろうとした時、後ろから呼び止められた。
「ね、ねえ、ちょっと待ってよ!」
どうやら完全に正気を取り戻したらしい田辺が、媚びるような笑顔で耀を見ていた。
「ずっとボーッとしてたけど、さっき保健室に来た生徒が転校生の噂してるのは聞いてた。君、東高の藤堂だろ? 喧嘩が強くて有名なんだって? なぁ、もし山田が逆恨みして、また僕のこと殴りに来たら、ボコボコにしてやってくれよ。金なら出すよ」
不快さが胸を満たし、耀は眉根を寄せた。そんなことだから山田に目をつけられたんじゃないのかてめぇ、と口から出かかって、止めた。田辺は地獄から逃れようと必死なのだ。田辺がこうだから山田に目をつけられたのか、環境が田辺をこうさせたのか、耀には分からない。
「耀。構うな。行こう」
静彦が耀の背を叩く。耀は一度だけ田辺を振り返った。
「悪ぃな。もう、他にご主人さまがいるもんでね」
そんな会話があったからだろうか。放課後、静彦とともに小等部に雫を迎えに行った時、耀は西洋の紳士を真似て一礼してみせた。
「姫君。お迎えに参じました」
「……耀。なにか変なものでも食べたの?」
雫は胡乱な目で耀を見上げる。雫の同級生らしき少女たちが、きゃっきゃと笑い声を上げた。
「こんなイケメンなお兄さんたちがお迎えなんて、雫ちゃん、本当にお姫様みたい」
「でも、そのうち一緒に帰ろうね。約束!」
「うん。またね」
そうして去っていく彼女たちに、雫も名残惜しそうに手を振る。その背に、耀は声をかけた。
「早速友達ができたのか。良かったじゃねぇか」
「うん。……この学校の鬼が見つかるまでの、短い間だけどね」
さっぱりした口調に、僅かに寂しさが滲んでいた。が、雫は振り切るように首を振る。
「そっちはどうだった?」
帰り道を歩きながら静彦が進捗を説明すると、雫も頷いた。
「小等部でも、微かに鬼の気配のする子がいたの。聞いてみたら、やっぱりスクールカウンセラーにかかってるって。カウンセリングルームに行ってみたけど、『本日不在』って張り紙してあった。」
「じゃあ、明日はそのスクールカウンセラーに接触だな。今日のところは、晩飯の買い出しして帰るか」
雫が耀のスエットの裾を引いて見上げてきた。
「耀、耀。私、ふわとろオムライスというのを食べてみたい」
期待に満ちて輝く雫の瞳に、耀は眉根を寄せて目を眇めた。
「栄養が偏る。──サラダもつけるぞ」
雫がぷくりと頬を膨らませた。
「耀、厳しい」
「……むしろ甘いんじゃないか?」
静彦がポツリと呟いたが、耀は無視をした。雫はオムライス、オムライスと口ずさみながら、きゃっきゃと飛び跳ねていた。
その晩、耀は夜中に目が覚めて、喉が乾いている事に気づいた。部屋を出ると台所へ行って、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、グラスに注いで飲む。冷たい感触が喉から腹へと伝っていく。
部屋に戻ろうとした時、そのかぼそい声に気づいた。それは、雫にあてがわれた部屋から聞こえた。
「……雫?」
耀はあまり深く考えることなく、扉を開いた。なにせ雫はふわとろオムライスを三皿もおかわりしたのだ。腹でも痛くしたのかと想ったのだ。
ベッドの上、ふくらんだ布団の中から、その啜り泣きは聞こえた。
「おい雫。腹でも痛いのか」
耀が布団を剥ぐと、まるで胎児のように横向きに丸まった姿勢で、雫が耀を見上げた。その大きな瞳から、ボロボロと涙が溢れていた。
「……入室を許可した覚えはありません、従者の身をわきまえなさい、耀」
いつも少し大人びた少女だが、今の彼女は、まるで疲れ切った大人の女性のような瞳をしていた。
ここで引いてはだめだ、と耀の中の何かが言って、耀はベッドに腰掛けて、雫の頭を撫でた。かつて妹にそうしたことを思い出した。
「従者だってんなら、主のことを心配するもんだろ。どうした」
雫は抵抗しなかった。目を閉じて耀の掌を受け入れる。
「……小学校で友達ができて、少し思い出しただけなの。光吉村にも私の遊び相手がいたの。そう、何人も、何人も──。でも、みんな、私を置いて行ってしまう」
「引っ越しでもしたのか?」
雫は首を横に振る。何か深い事情がありそうで、耀はそれ以上聞けなかった。代わりに告げた。
「──俺がいるよ。約束したろ、おまえの従者になるって。置いていったりしない」
「私のそばにいることで、戦うことができるうちは?」
痛いところを突かれて、耀は怯む。雫は少し笑った。
「ごめんなさい。意地悪を言った」
「いや……」
雫が耀の手を取った。それは小さくかよわい、温かな掌だった。
「手を握っていて。耀。いずれ行ってしまうまでは、ずっとよ」
それきりふたりとも何も言わず、繋いだ手は離さないまま、やがて二人共眠ってしまった。