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蛮神  作者: 今野 真芽
4/15

家族

 耀と雫は、耀の家の前に立っていた。妹の菖蒲の小学校入学に合わせて建てた一軒家は壁もまだ真白さを保っている。だが、今やどこか寒々しく感じる。会話のないリビング、虚ろな顔で涙を流す母、たまに家に戻っては着替えだけ持って出ていく父。──遺影の中で笑う妹。それらの記憶が頭をよぎる。

 そして今は、そこに得体のしれない化け物まで巣食っているというのだ。

 耀は玄関の前に立つとポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。ゆっくりと鍵を回すと、ガチャンと音を立てて施錠が解かれた。

 廊下を忍び足で歩いていく。音を立てぬよう気をつけたが、キシ、キシと床がきしんでしまう。リビングへ続く戸を開けた。

「……母さん」

 そこには理恵がいた。朝と同じ。ダイニングテーブルに肘をつき、両手に顔を埋めている。

 理恵は何事かをブツブツと呟き続けている。

「しかたない、私は悪くない。全部耀が悪いの、あの子があんなふうになっちゃったのは、私のせいなんかじゃない。菖蒲のことだって」

「母さん!」

 耀は理恵の肩を掴んで揺さぶった。耀、と背後で雫が制止するが、耀は頭に血が上っていた。母はぽかんと口を開けて耀を見上げたが、やがて、その服の中から、黒い影がぞろりと湧き出した。それはとめどなく湧き続ける。

「あ……」

「母さん!?」

 母の口や眼球からも、まるで吐瀉物や涙のように、それは溢れてくる。さほどもしない内にそれは部屋の床を満たし、耀の足首の高さにまでなる。その黒いものに足を取られ、耀は動きが取れなくなる。母の肩を掴んだままだが、それは母の身体を守ろうとしているのか、母の内側に巣食うものに攻撃をしようとしているのか、自分でもよく分からなかった。

「耀、離れて! ──姫神様、お力をお貸しくださいませ」

 リビングに置かれた観葉植物たちが、一斉にその枝葉を伸ばした。耀が飛び退ると、植物たちはまるで命持つ触手のように枝を絡め、母の身体を絡め取っていく。黒い煙が植物たちを取り巻き、いくつかの枝葉が枯れる。だがぼんやりとした白い光が植物たちを覆い、守っているようだった。やがて、理恵は両手足を拘束され、大の字に立ち上がらされるような姿になった。

 雫が理恵のもとに歩み寄っていく。手を伸ばし、そっと理恵の頬に触れた。すると理恵の口や目から流れ出ていた黒い煙が止まる。魂の抜けたようだった瞳が、状況を理解しようと彷徨い始める。

「……これを、飲んで」

 雫が理恵の喉をのけぞらせ、その口の中に何か小さな茶色いもの、種のように見える粒を落とした。やがて理恵の喉がゴクリと動く。飲み込んだのだ。

「あ……あ、あぁあああ──っ!!」

 叫び声とともに、理恵の身体が白い光に包まれる。同時に、いまだ理恵の身体に巣食っていた黒い影がその光から逃れるように身悶えし、外へと出てくる。それは、床を満たしていた黒い影と融合し、犬に似た、巨大な獣の姿を取る。

「耀、これで、影鬼はお母さんから完全に離れた! 今だよ!」

 雫は手にしていた包み──あの剣を、耀に向けて投げた。耀はそれを受け取りる。とたんにあの感覚──この剣の振るい方を、体捌きを、自分は知っているという感覚が身体を満たす。ほとんど間をおかず、剣を鞘から抜き、同時に、横薙ぎに払う。

 黒い獣は真っ二つに斬られ──だが、消滅はしなかった。それは渦を巻く大波となり、耀に覆いかぶさり、飲み込んだ。

「耀!?」

 雫の声を遠くに聞きながら、耀は影に飲まれていった。


 ──なんのために戦うのだと、誰かが言った。

 理由など無い、ただ戦いたいのだと、耀は反射的に考える。すると、耀の口を借りた誰かが、そのとおりのことを答えた。

「理由なんかない。俺はただ戦いたいだけだ。そのために、ここまで来た。戦いを終えたら、また次の戦いへ。それだけが俺の全てだ」

 そうか、とその誰かは答えた。呆れた風ではない。見下げた風でもなかった。そして、その静かな声は続けた。

「少し羨ましい。俺にはそういうものがないから。いつだってなにかのため、誰かの願いのためで、自分自身の願いはどこにもない」

 それこそ羨ましい、と耀は思う。

 誰かのために生きられるなら、どれだけいいだろう。人を傷つけるばかりのこんな衝動を捨ててしまえたら、どれだけ自分も周囲も幸せだったろう。

 耀には何も築けない。大切な約束も果たせない。

 ──約束? 果たしてそれは、なんだったろうか。

 脳裏に思い浮かぶ記憶があった。それは暖かな陽光が降り注ぐ昼下がりのことだった。両親に見守られながら、耀は生まれたばかりの妹の顔を覗き込んでいた。それはとても小さくて、猿のように皺くちゃな顔をしていた。

『耀。今日から耀はお兄ちゃんだから、菖蒲や母さんのことを守るんだぞ』

 幼い日の耀は、誇らしい気持ちでそれに頷いた。

 そうだ、そんな約束をした。今までついぞ、果たせなかった約束だ。

 だが今こそ、それを果たさなければ。今母を守れるのは、耀しかいないのだから。

 手にした剣を握り直す。すると、静彦と相対したときと同じ、夜闇が落ちたような暗闇が目の前に広がった。だが、今度は息苦しさは感じない。星のような白い光が無数に瞬き、集まって一筋の流れとなり、耀の内に取り込まれていく。これは雫の力だ、となんとなく分かる。

 力が湧き上がる。あの炎のような赤い光が耀の身体から湧き出してくる。それはやがて肩に、腕に、手に、そしてその先の剣へと集まっていく。

 耀は暗闇の中で剣を構え、そして目を閉じた。斬るべきものの姿は、見えずともそこに在ると察せられた。

 足を踏み込むと同時に、剣を振り下ろす。刀身が肉を切り裂く感触がする。暗闇が霧散し、視界が戻ってくる。

 あの黒い獣は未だ健在だった。斬りつけられたことに怒りを掻き立てられた様子で、紅い目を爛々と輝かせる。大きく顎を開き、鋭く長い牙を剥く。

 耀は再度剣を構えた。

 獣が跳びかかかってくる。その鋭い牙を剣で受け流し、攻撃のために剣を振るうが、前脚をわずかにかすっただけで終わった。獣の方が疾い。否。剣の記憶が求めるだけの疾さに、耀の身体が追いついていないのだ。耀はすぐに全身に汗をかく。額から流れる汗が目に入って染みるが、拭う余裕とてなかった。今は瞬きすら許されない。獣の爪が、牙が、立て続けに襲ってくる。耀はそれをしのぐので精一杯だった。

 とうとう、獣の爪が耀の肩を傷つける。幸いかすっただけだが、目の端に血の飛沫が見えた。そして、その一撃は耀の動きを一瞬止めた。それは命取りの一瞬だった。

 ──次の攻撃への防御が、間に合わない──!

 その時、声がした。

「やれやれ、仕方ない。まだまだ未熟な『蛮神』の卵のために、私も力を貸してやろうかの」

 雫の幼く高い声。だが、玲瓏とした大人の女性のような艶があった。

 植物の蔓が伸びて、まるで縄のように、獣を締め付け、その動きを止めた。この機を逃してはならないことは明らかだった。

 耀は、疲弊しきった身体を叱咤し、渾身の力で地面を蹴った。獣が大きく咆哮する。その口の中を目掛け、飛び込むようにして、剣の一突きを浴びせた。

 霧散していく黒い霧の中にあって、耀はしだいに意識が遠のき、ばったりと倒れた。


 目が覚めると、そこには陽光が差し込む、耀のよく知った、我が家のリビングがあった。あの蠢く黒い影の姿はどこにもない。

 身体の中がねじれているような不快感があった。雫が駆け寄ってきて、背中を擦ってくれる。おそらく、ただ擦っているだけではないのだろう。触れられた場所から温もりが全身に伝わっていき、息が格段に楽になる。

「耀、大丈夫? 鬼は倒せたよ。姫神様も助けてくださったの」

「……母さんは」

「あ、耀! まだ休んでいないと」

 それでも耀は、ずるずると這いずって、床に倒れた母のもとに向かった。その傍らに跪けば、規則正しい呼吸音が聞こえる。

「お母さんはもう大丈夫だよ──って、姫神様がおっしゃってた」

 雫が言うのならそうなのだろうと、自然に信じられた。ほっとした途端、ひどい虚脱感に襲われる。

 そんな時、理恵が目を覚ました。床からゆっくりと上体を起こし、辺りを見回す。戦闘の名残で荒れ果てたリビングが、彼女の瞳に映る。倒れて割れたダイニングテーブル。異常なまでに枝を伸ばした観葉植物たち。ひび割れた壁。

「母さん、目が覚め──」

「耀。……あんたがやったの」

「え?」

 見れば母は唇を震わせ、ボロボロと涙を零しながら耀を見据えていた。

「外で喧嘩をするだけじゃ飽き足らず、家の中でまで、こんな」

「母さん、聞けよ」

「聞きたくない! もうたくさんよ! あんたが子どもの時から、何度も何度も周囲に謝って、下げたくもない頭を下げて……。しまいには、菖蒲まで死なせて! ……なんであんたのために、私の人生を無茶苦茶にされなきゃいけなかったの!!」

 それは悲痛な叫びだった。そして、今度こそ、黒い影はどこにもなかった。呆然と立ち尽くす耀の服の裾を引っ張る手があり、見下ろせば、雫が気まずそうな顔をして耀を見上げていた。

「耀。……影鬼は、その人の中にある暗い感情を引っ張り出すけど、もともとその人の中にない感情は……引き出せない。そして、引き出されたその感情は、影鬼を倒したからと言って、消え去るわけじゃない。つまり、その……」

 言いにくそうに言いよどんでいるが、その先に続く言葉は、耀にも分かった。

 つまり母は、今度こそ正気で、自分の意志だけで、耀を拒絶しているのだった。

 胸を刺されるような痛みがあった。腹に広がる空虚があった。それはきっと、この先一生消えないものだ。

 だが同時に、それは耀自身が引き起こした、耀が負うべき責任であり、罪過なのだ。

 耀は目を閉じ、そして開く。家を見回した。見る影もなく壊れてしまったが、それでも十四年分の思い出の詰まった我が家だ。母が泣いている。菖蒲は、仏壇の遺影の中で笑っている。耀が守るべきだった、たしかに守りたいと思っていた、傷つけ続けた家族。

 それでも今日は、今日だけは、家族を守ることができた。割れたリビングの窓から一筋の風が吹き付けて、耀の頬を撫ぜ、髪を揺らす。差し込む陽光が眩しくて、目を細めた。

 その決意は、すんなりと耀の腹に落ちた。

「行こう、雫」

「耀?」

 耀は雫の肩を抱き、母に背を向ける。そうして、リビングの戸を、後ろ手に閉めた。それは軽い音だったが、それでも、ここからは二度と引き返せない、そんな合図になる音だった。


 どこへ向かっているのかも分からず、とりあえず駅までの道を雫と並んで歩く。

「……耀」

 雫が気遣わしげに耀を見上げた。耀は首を振って、気にするな、と示した。

「それで、どこにあるんだ、その宝珠ってやつは」

「え?」

「取り戻すんだろう? 姫神様の大切なもの」

 雫が足を止める。耀もそれに合わせて足を止めた。雫の探るような視線に、耀はまっすぐ見つめ返すことで応えた。

「なってやるよ、おまえの従者。そういう交換条件だったしな。俺は何をすればいい。教えてくれ」

「……耀が思っているより、きっと危険だよ」

「望むところだな」

「普通の日常には、二度と帰れないかもしれない」

「どのみち、帰れそうにない」

 耀はニッと笑顔を浮かべた。痛みはあった。が、それ以上に、不思議なほど晴れ晴れした気持ちが胸を満たしている。

 戦う理由など無い。ただ戦いたいだけだ。

 家族はもういない。

 ──これからは、そのどうしようもない衝動を、ただ存分に満たすことだけ考えたら良い。

 耀には、それだけで十分だった。


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