静彦
少年は静かな瞳で耀を見据え、僅かに唇を曲げた。
「俺を前にして臆する様子もないとは、鬼にしては度胸があると褒めてやろうか。──ともあれ、姫様は返してもらうぞ」
「ち、違うの、静彦! この人は鬼でも、鬼に憑かれた人でもなく──えっと、知らないおにいさんだけど──」
「そうか、人間の誘拐犯か」
「いや、だから違うの!」
耀の背後で少女が喚いている、その声が耳には入るが、意味は頭に入ってこない。
ただ戦いたいと、それだけしか考えられない。身体が熱く、心臓が早鐘を打ち、血と肉のすべてが喜びの声を上げている。
もう、これ以上待つことはできなかった。
足の裏で地面を蹴る。跳躍と同時に剣を勢いよく振り下ろした。静彦と呼ばれた少年も刀を抜き、あっさりと受け流される。
そうでなくては。
耀はますます楽しくなって、体勢を立て直すと続けざまに剣戟を繰り出した。剣と刀がぶつかる鋭い音が一回、二回、三回と続く間に、耀は静彦と目を見交わす。眇められたその瞳に映る闘気にビリビリと肌が震え、それが心地良くて、耀は声を上げて笑う。
楽しい。楽しくてたまらない。
構え直し、全身の力を使って振り下ろした一撃は刀で受け止められた。が、先程のように受け流せはしなかったようで、静彦は唇を引き結んで耀の力に耐えていた。
鍔迫り合いが数秒。次の瞬間、耀の顎に向けて、静彦の足が振り上げられた。脳を揺らされる衝撃とともに吹き飛ばされ、ズザザ、と背で地面を擦る。なんとか剣だけは取り落とさなかったが、静彦はすでに刀を振りかぶっていた。体勢を立て直すのが間に合わない。
静彦の刀が光を受けて煌めいた。
斬られる──そう思った時、視界が突然暗くなった。まるで夜闇が落ちたような暗闇。まるで水の中に投げ込まれたかのように息が苦しい。そして、耀は目を瞠った。この闇の中で、静彦の姿がはっきりと見える。青い光を身に纏って、淡く輝いている。そして見下ろせば、耀自身の身体もまた、炎のような赤い光に覆われていた。
静彦が刀を振り下ろすのがやけにゆっくりと見える。耀は片手を上げた。その手に、耀を取り巻く炎が集まっていく。
静彦が目を見開くのが見えた。何かが起ころうとしているのが分かったが、それが何かが分からない。ただ、それはおそらく、耀を決定的に変質させてしまう何かだった。
「──二人とも、やめて!!」
少女の高い声とともに、白い光が視界を満たした。耀の手がビクリと動いて止まる。高まっていた何かが霧散していく。同時に思考も形を失っていき、耀はそのまま意識を失った。
夢を見る。まだ家族で笑い合っていた頃。耀のやんちゃに苦笑する母。台所をくるくる動き回り、機嫌よく料理をする父。そして、まだ赤ん坊だった妹が、耀にその小さな両手を向ける。回らない口で、一生懸命耀を呼ぼうとしていた。
「にいちゃ、にいちゃ」
──菖蒲。
その手を取ってやろうとして、耀は目が覚めた。
「あ、起きた」
視界には、見知らぬ天井。そして、目を丸くして己を見下ろす少女の顔があった。妹ではない。おかっぱにした黒髪に着物姿。椅子に座って足をブラブラと揺らす彼女が誰なのか一瞬思い出せなかったが、数秒して記憶がはっきりとしてくる。まぁ、はっきりとしたところで、彼女について何一つ知らないのは変わりなかったが。
「起きた、起きた、耀が起きた」
少女が歌うように節をつけて、愉しげに言う。なぜ自分の名前を知っている、と思いながら、耀は寝かされていたベッドの上で上体を起こす。辺りを見回すと、そこはマンションの一室のようだった。最低限の家具だけ置かれ、どこか生活感がない。
部屋の片隅には静彦が壁を背に腕組みをしていた。涼やかな美貌に複雑そうな表情を浮かべて耀を見ている。その顔を見て、耀の心臓が再び戦いへの期待に逸る。
拳を握ってベッドから立ち上がろうとする耀の腕を少女が押さえ、制止する。
「耀、まだ寝てていいよ。大丈夫、静彦にはちゃんと説明したから。耀は助けてくれたんだよって、誘拐犯じゃないよって」
少女は笑う。静彦が口を開いて何か言おうとしたが、その前に耀は少女の腕を乱暴に振りほどいた。静彦に向かって獰猛に唸る。
「そんなことはどうでもいいんだよ。さっきは中途半端に終わっちまった。俺に悪いと思ってんなら、再戦しろよ、再戦」
そんな耀に、少女と静彦は顔を見合わせる。静彦は呆れたように溜息を吐いた。
「……さすが、『蛮神』の器だ。とんだ戦闘狂ときた」
「だから、誰が野蛮人だっての!」
「静彦! 耀も、やめてってば」
またしても名前を呼ばれた耀は少女を見やる。少女はちょっと気まずそうに、上目遣いで耀を見上げる。
「学生証を見せてもらったの。藤堂耀、市立東高校二年生。勝手なことをしてごめんなさい、でも必要があったの」
「必要?」
静彦が耀に向けて一歩を踏み出した。
「おまえには、俺達の村に着いて来てもらう。これは決定事項だ」
「は?」
意味が分からず耀はぽかんとする。
「先程の出来事で、おまえの身体には『蛮神』の一部が降ろされてしまった。村で儀式を行い、それを引き剥がす」
「……意味わかんね」
「分からなくていい。黙って言うとおりにしろ」
「ごめんだね。誰がそんな怪しい話に着いていくかっての」
耀の声が苛立ちでだんだん喧嘩腰になっていくが、静彦は気にした様子もない。耀が着いてくるのが当然だと、心からそう思っているらしい。
「静彦……」
「あなたもです、姫様。此度の出奔、長老会に図らねばなりません」
恐る恐る声をかけた少女に、静彦は冷たく応えた。少女は俯いてしまう。それを見て耀は眉根を寄せた。
「今車を回させていますから、少し休んだらここを出て──っと」
静彦の着物の袂から、彼の服装に似合わぬ軽快な音楽が流れる。どこかで聞き覚えがあるな、と耀は記憶を探るが、思い出せなかった。静彦は袂からスマートフォンを取り出して応答する。
「……はい、はい、……そうです、それで……」
静彦は少女に会釈すると、通話をしながら部屋を出ていった。
その背を見送った少女は、耀に向き直る。やけに真剣な顔をしていた。
「耀。私の名前は雫。本当は教えちゃいけないって言われているから、特別だよ」
「……そりゃどうも」
雫は真剣に耀を見つめている。何の話が始まるのかは分からないが、どうも面倒ごとのような気がした。
「耀に頼みがある。私と一緒に逃げてほしいの」
耀はまじまじと少女を見た。
「駆け落ちの誘いには年が若すぎるぞ」
「まじめな話なの!」
ぴしゃりと返されて、耀は頭を掻いた。
「それで? あの静彦ってのは、おまえの保護者か何かなんだろう? 俺に家出の手伝いをしろって?」
「家出──なのかも。でも、大事なことなの。私は、姫神様の大事なものを取り戻さなきゃいけないの。そのためには、耀の助けが必要で」
雫は訥々と言い募るが、耀は途中で制止する。
「なんで俺が。あの静彦にでも頼め」
「頼んだ。でも、静彦は、おじいさまたちの言いなりだもの──私、おじいさまたちに姫神様のお望みを伝えたの。鬼たちを倒して、宝珠を取り戻してって。でも、おじいさまたちは、だめって」
「……鬼?」
物語でしか聞いたことのない言葉を聞き咎め、耀は聞き返した。雫は真顔で頷いた。
「耀が倒したあの黒い影、あれが鬼……の一種。強い鬼はもっと人間に近い姿をしているのだけれど、あれは弱いから、あんな虚ろな形しか取れない」
凄まじい力でコンクリートすら破壊したあれが弱いだというのなら、強い鬼というのはどれほどの力を持っているというのか。
しかし、それよりも大事なことがある。母の背にいた、あれが雫の言う『鬼』であるならば、それは何を意味する。
「質問。鬼は人に何をする」
「それは鬼にもよるけど……たとえば、影鬼は人に憑くの。その人の持つ苦しみを増やして、たくさん苦しませて、その感情を食べるの」
突然の母の変貌。虚ろな表情で繰り返す恨み言。背から浮かび上がった黒い影。耀はぎゅっと拳を握る。絞り出すように尋ねた。
「感情を食われた人間は、どうなる」
「いずれ何も感じなくなって、死んじゃう」
耀は立ち上がった。足早に部屋から出ようとするのを、雫が慌ててその服の裾を掴んで引き止める。
「誰か、鬼に憑かれた人がいるの? でも、今の耀じゃ、たとえ鬼を倒すことができたとしても、憑かれた人まで一緒に死なせてしまう。まずは鬼を人から引き離さなければいけないの。それができるのは私だけだよ」
耀は無表情で雫を見下ろした。雫は息を呑んで一歩下がるが、耀の服の裾を掴んだ手は離さなかった。
「俺に何をさせたい」
耀の問に、雫は息を吸い込んだ。一拍の後、少女は告げる。
「私の従者になって」
通話を終えた静彦は、部屋に戻って来た。そして、シーツがめくれたままのベッドも、その傍らに置かれた椅子もがらんどうで、二人の姿がどこにもないことを見て取り、眉を顰める。
窓に歩み寄りカーテンを開ければ、陽光が差し込む。ベランダへ続くガラス戸の鍵は開いており、ガラ、と開いてベランダに出れば、ベランダの柵に、緑色のものが絡まっていることに気づく。それは植物の蔓だ。見れば、隣室のベランダに置かれた観葉植物の蔓が──ありえないほど太く、長く伸びていた。それはこの五階のベランダから、地上まで垂れている。二人はこれを伝って逃げたに相違なかった。
「……雫のやつ」
静彦は唇を歪めると、二人の後を追うべく、ベランダの柵の上に立つと、そのまま空中へ身を躍らせた。