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蛮神  作者: 今野 真芽
2/15

出会い・2

一ヶ月ぶりの我が家は電気もついておらず、薄暗かった。床には埃が積もっている。あの綺麗好きだった母は、ほんの少し前まで、毎日楽しげな鼻歌とともに掃除機をかけていたのに。そう思うと気分が沈む。

 母の理恵りえは、やはり居間にいて、ダイニングテーブルの上で両手に顔を埋めていた。一ヶ月前、最後に見たあの時から、ずっと同じ体勢でそこにいたかのようだった。

「母さん」

 呼びかけても、母は答えない。重苦しい沈黙が沈殿する。閉じられたカーテンの外からは淡く光が差し込み、きゃっきゃと笑い騒ぐ子どもの声が聞こえてくるというのに、まるで別世界の出来事のようだ。

「……菖蒲……」

 母が呟いた。

「菖蒲の声がするわ。迎えに行ってやらなくちゃ」

「母さん!」

 耀が母の肩を掴むと、母は顔を上げて、はらはらと涙を流した。

「ごめんなさい。分かっているの。分かっているのよ……」

 菖蒲が死んだのはもう一年も前だ。突然の事故死だった。当然一家は悲しみに沈んだ。だが、やがて日常が戻る。食べること寝ること、仕事や学校は、否応なしに降りかかってくる。忘れられない悲しみをたたえながらも日々が続いていた。それなのに、三ヶ月前から母は突然、こんな状態になってしまった。

 母が、初めて気がついたように耀の顔を見る。目を見開いて、まじまじと。耀はその表情に見覚えがあって、身構える。

「耀。あんた、なんでいるの」

 がし、と腕を掴まれる。爪が腕に食い込んで痛む。

「菖蒲を殺したくせに、なんで家にいるの」

 ああ──。

 耀は瞑目する。

 だから、家には帰ってきたくなかった。

 耀は小学校高学年の頃には、もう喧嘩を繰り返していた。理由など無い。ただ、戦いたいという溢れる衝動を止められなかっただけだ。

 両親も、耀に格闘技を習わせるなどして、なんとかまっとうな方法でその衝動を発散させようとした。が、耀はどの道場でも喧嘩沙汰を起こして、すぐに破門になってしまった。そしてまた街で喧嘩を繰り返すという悪循環だった。すっかり顔なじみになった少年課の刑事に、このままじゃ少年院に入ることになるぞ、と脅されても、耀は自分を止められなかった。

 その日、耀は街の不良少年たちが集まるメッセージアプリのグループに、一件のメッセージを投稿した。

 『俺に勝てるやつ、集まれ』

 ほとんどの連中は馬鹿馬鹿しいと黙殺し、深夜の公園に集まったのは十人程度だったろうか。金属バットを持っている奴もいた。

 耀がその全員を地面に叩きのめした時には、すでに空が白んでおり、冷たい朝の空気が肌を刺したのを覚えている。誰が呼んだのか、パトカーのサイレンが近づいていた。

 その日、妹の菖蒲は熱を出して寝込んでいた。だから、警察署に耀を迎えに来た理恵は、菖蒲を家に一人で留守番させていた。その後は想像でしか無いが、目を覚ました菖蒲は、母や兄の姿がないのに気づいたのだろう。熱に浮かされ、パジャマ姿のまま、二人を探してふらふらと外に出て──そして、車に轢かれた。

 ──あなたのせいじゃない。私が判断を間違えたの。

 菖蒲の死後、耀を抱きしめて、理恵は何度もそう言った。

 だが、いつしか歪み、壊れてしまった母からは、もう一つの本音が現れた。父は家に帰ってこなくなり、耀は、自分のことより母を苦しめるのが辛くて家にいられなかった。

 それでも、母を一人にするのが心配で、耀は時々家に戻る。いつまでも、こんな暮らしは続けられないと分かっていながら。

 だが、今日は勝手が違っていた。耀は目を見開く。母の背に、何か黒い生き物が張り付き、影を落としているのが見えた。

「なんだ……?」

 黒い生き物はうぞうぞとうごめく。やがて、血管の浮いた白い眼球がぴょこんとその表面に飛び出し、ぎょろりと耀を見た。

「~っ!」

 そのあまりのおぞましさに、耀は思わず母の手を振り払い、母の背にいるその生き物を、思い切り手で打ち払った。何か、静電気のような痺れが手に広がったかと思うと、その黒い生き物は母の背から落ち、まるでタールか何かのように、べちゃりと床に広がった。そのまま、砂のように細かな飛沫になって、霧散してしまう。

「な……」

 耀は声も出ず、奇妙な生き物が消えた床を眺めるしかできなかった。自分は夢を見たのだろうか。

 その時、理恵が突然立ち上がった。先程までの呆然とした様子が嘘のように、眦を吊り上げ、怒りを顕に耀を睨む。

「耀──何しに帰ってきたのよ。出て行って。出て行ってよ!」

 その剣幕に、あの黒い影に心を残しながらも耀は家を出るしかなかった。


 家を出た耀の足取りは重かった。ヒロカの家にまっすぐ帰る気にもならず、ぶらぶらと路地裏を歩く。そこは飲み屋街の裏手に当たり、灰色の壁が続く中、雑然と不用品などが積まれていた。

 そうして四つ角に差し掛かった折りである。突然飛び出してきた小さな影にぶつかりそうになって、耀は足を止めた。

 驚いて見下ろせば、小さな少女が大きな瞳を見開いて耀を見上げていた。おかっぱの黒髪、花柄の着物。昨夜の少女だとひと目で分かる。しかし、額に薄っすらと汗をかき、焦った表情には昨日の大人びた様子は欠片もない。紫色の布で包まれた細長い大きな包みを両手に抱えているのが目についた。

「……っ、ごめんなさいっ」

 少女は一言そう言って、走り去っていく。

「っ、おい……」

 耀はその背を見送って、そして、目を見開いた。少女の後を、ぞろりとした黒い影が追っていく。それは煙のようであり、そして、時折その色を濃くし、爬虫類のような鱗模様を浮かび上がらせた。

 耀は目を見開いた。その黒い影に見覚えがあったのだ。──それは、母の背に見えたものとあまりに相似して見えた。

 考えるより早く、耀の足は地面を蹴っていた。


 耀の方が足のリーチは長いはずなのに、少女にも黒い影にも、なかなか追いつけない。耀は息を切らした。

 ようやく追いつけたのは、少女が転んでしまったからだ。

「きゃっ……!」

 その小さな身体に、黒い影は蛇のような姿を取り、身体をくねらせながら襲いかかった。

 耀がとっさに小石を拾い上げて投げつけると、黒蛇は霧散した。が、すぐに元の形を取ろうとする。耀は少女に駆け寄ると、その身体を片手で抱き上げて走り出した。少女が驚いた顔で耀を見上げる。

「っ!? どうして……っ」

「黙ってろ、とにかく逃げるぞ!」

 耀は少女を抱えたまま、路地裏を駆ける。時折脇道に入り、なんとか黒い影を撒こうとするが、影はしつこく後を着いてきた。

「……っ、なんなんだ、あれは!」

 目の前は行き止まりだった。とっさに右手の脇道に駆け込めば、背後で轟音がする。振り向けば土煙が立ち込め、地面にコンクリートの欠片が転がっている。あの黒い影が、そのまま行き止まりに突っ込んだらしい。あの威力が直撃したらどうなっていたかと思うと、耀は唾を飲み込む。そして恐ろしいことに、逃げ込んだこの路地もまた行き止まりだった。黒い影はまだ耀たちに気づいていない様子で行き止まりのあたりを蠢いているが、それも時間の問題だろう。

 少女が耀の腕を振りほどき、地面に降り立つ。彼女が手にした包みを両手で掲げると、紫色の布を透かして、包みの中身が発光し始める。包みを取り巻くように閃光がいくつも走る。

 少女は緊張した面持ちで、いまだ行き止まりで蠢く黒い影を見据えていた。

「まだ……まだ、気づかないで……もうちょっとだけ、時間を──っ」

 黒い影が、再び蛇の姿を取る。そこに浮かび上がった赤く輝く二つの眼がギョロリと蠢き、そして、少女と耀の姿をその眼に捕らえた。ゾク、と耀は全身の肌が粟立つのを感じた。

 蛇が口を開く。そして、咆哮した。突風が吹き、少女の小さな身体が吹き飛ばされる。耀は足を踏ん張り、少女が壁に叩きつけられる前に、なんとか抱きとめた。蛇は凄まじい勢いで二人に向かってくる。大きく開かれたその口の中には黒黒とした闇が広がっていて、そのあぎとに捕らえられた後の運命を教えていた。

 耀は咄嗟に──本当に無意識に、少女の手から包みを奪い取る。その拍子に包んでいた布が剥がれ落ち、中身が顕になった。

 それは剣だった。

 古めかしい意匠、柄に巻かれた布はほとんど襤褸に等しい。だがその刀身だけは傷一つなく、光を受けて輝いていた。

 突然、耀の目の前に、見知らぬ景色が広がった。

 それは、暗い洞窟の中のようだった。ピチョン、ピチョンと水が滴る音がする。地面が濡れている。足先を濡らす水の冷たさまではっきりと感じ取れた。青白く輝く光源があり、それが洞窟を薄暗く照らしていた。湖だ。洞窟の中に湖があり、その水面が光輝いているのだ。その湖の前に、誰かが立っている。それは長くつややかな黒髪を持つ、体格のいい男だった。もうじき、彼が振り返る。そうすれば、手にしたこの剣を振り下ろそう。

 ──そうだ。俺はこの男に会うために、長い長い時をかけて、この国にやって来たのだから。

 そんな誰かの声が、耀の頭の中に響く。そして、耀の思考は、一瞬で唯一つの衝動に塗りつぶされた。

 戦いたい。

 戦いたい、戦いたい、戦いたい──!

 耀は剣を構えた。剣道は習ったことがある。だが、今取った構えは、剣道で習ったものではなかった。知らない構え。知らない武器。だが、たしかに知っている。この剣とともに在った記憶が、身体に流れ込んでくる──!

 黒い影の顎が、耀に向けて飛び込んでくる。耀はそれをまっすぐに見据えた。臆する気持ちがまったく湧いてこない。斬るべきものがそこに在るだけだ。

 踏み出す足から、衝撃が全身に伝わる。重心の移動とともに、腕を横薙ぎに払って、まずは一閃。その勢いのまま身体を回転させ、今度は上から振り下ろし、二閃。そして、最後に身をかがめ、低い位置から突き上げるような、渾身の一突き。

 ほんの一瞬の間のはずなのに、全部で三回もの斬撃を、耀は黒い影に加えたのだった。自分でも信じられないほどの疾さに、皮膚がビリビリと粟立っている。

 蛇が、苦痛の咆哮を上げた。

 それは影であるはずなのに、肉を斬ったような生々しい感触が、刀身から腕に、腕から脳に伝わってくる。

 耀の脳は、それを無上の快感として捉えた。

 黒い影が、ゆっくり霧散していく。そして、二度と元に戻ることはなかった。

「……『蛮神』の面影。ああ、懐かしや──」

 呟やかれたその声に、なにか聞き覚えがあるような気がした。耀は首をかしげて、地面に尻餅をついた少女を見下ろす。

 記憶がはっきりしない。思考があやふやだ。この少女は誰だったか。自分はどうして、ここにいるのだったか。

 そうだ、誰かと戦いたかった。それだけははっきりしている。

 だが、誰と──?

 耀の思考がさらに混乱し始めた時、僅かな金属音がして、耀は咄嗟に飛び退った。

 土煙が上がる。さっきまで耀が立っていた場所に、一人の少年が立っていた。手には刀を持っている。どうやらあれを、耀に向かって振り下ろしたらしい。咄嗟に避けていなければ斬られていただろう。少年が耀を振り返る。静かな湖のように澄んだ切れ長の瞳。薄い唇は紅く、妙な艶がある。おそらく誰が見ても美男と呼ばれる顔立ち。ごく淡い黄蘗色の着物に濃い茶色の袴を合わせた、少女と同じく時代錯誤な服装。

 だが、そんなことはどうでもいい。

 耀は歯を剥いて笑った。

 耀の中の、新しく与えられた何かが感じ取っている。少年の立ち姿に、その所作の中に、その中にある『力』がはっきりと分かる。

 強い。耀が今まで出会った誰より強い、と。

 戦いたい、戦いたい、戦いたい。頭がその一色に染まる。全身の血が沸騰する。

 ──もうずっと長いこと、誰かと戦いたかった。その誰かを探し求めてきた。俺はきっと、こいつに会うために、今までの長い時を過ごしてきたのだ。


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